動き出す津波想定の見直し

 東北地方に甚大な被害をもたらした東日本大震災から3月半がたち、東海・東南海・南海の3連動地震を前提に被害予測や防災体制を見直す動きが出始めている。行政だけでなく、住民の間にも、地域や命を守ろうとの意識が高まりつつある。来るべき“その時”に向けた備えを検証する。

“そんなに少ないのか……”。老朽化に伴う施設の更新や耐震化を進める愛知県警の幹部は、県の津波被害想定を聞いて驚いた。東日本大震災が起こる直前、今年2月のことだ。

 県が2003年に定めた「地域防災計画」は太平洋側沿岸部に押し寄せる津波の高さを最大6mと想定。津波による死者はわずか6人。建物倒壊などの死者2000人以上より圧倒的に少ない。県警幹部が感じた不安は、東日本大震災の被害の前に現実味をおびている。

「想定外」――。東日本大震災後、政府関係者や専門家が連発したフレーズだ。地震被害想定の見直しを進める国の中央防災会議は、26日にまとめた中間報告で各地域で起こる可能性がある最大の津波を想定する方針を打ち出した。

 中部地方でも、海に面した愛知、三重両県が、国に先立って被害想定の見直しを進める。愛知県は過去の文献や地質の調査を初めて独自に行い、今秋をめどに3連動を前提にした想定を作る。三重県は、9月までに東日本大震災級の津波が押し寄せた場合の浸水範囲のシミュレーションを行う。

 名古屋大の福和伸夫・減災連携研究センター教授の調査によると、愛知、三重両県で海岸から4km以内で、海抜5m以下の場所に暮らす人は約109万人。岩手、宮城、福島の3県の約3倍に相当する。福和教授は“津波被害が拡大する恐れが高い。街造りから考え直す必要がある”と警鐘を鳴らす。

 太平洋に突き出た渥美半島に位置する田原市。同市渥美郷土資料館には過去の津波被害を克明に伝える一枚の絵図が眠っている。

 嘉永7年(1854年)11月4日午前9時15分に発生した安政東海地震後に当時の西堀切村(現在の堀切地区)で描かれた。内陸部に東西約2.3kmの長さの線が引かれ、“此筋印嘉永7年寅年、大津波ノセツ御引アリ”とのただし書き。津波によって砂浜が広範囲に浸食されたことを示している。

 田原市にはこの絵図のほか、領主らが残した記録が伝わっており、断片的ながら当時の被害を知ることができる。文献で確認できるだけで、死者は数十人。資料館の学芸員、天野敏規さん(42)は「安政の約150年前に起きた宝永地震の津波にも見舞われている。集落や寺は内陸よりに移っていたが、それでも相当な被害が出た」。

 過去の経験があるのに地域防災計画が津波被害を少なくみている理由の一つは、東海、東南海、南海地震が同時か短時日のうちに連続して起きる“3連動”型が計画の前提になっていないことにある。

 現在の同計画の最大被害想定は東海・東南海の2連動型地震(マグニチュード8.27。安政東海地震は東海、東南海地震が同時に発生し、30時間後に南海地震が起きた3連動型。“宝永地震”も3連動型の巨大地震だった。

11年度防災白書

  東日本大震災を教訓として地震、津波対策の見直しを議論している政府の中央防災会議の専門調査会(座長・河田恵昭関西大学教授)は26日、最大クラスの地震、津波を想定し、住民の避難を軸にした総合的な防災対策をとることなどを盛り込んだ中間とりまとめを行い、今後の津波対策の考え方を提言した。

 「とりまとめ」はまず、東日本大震災の規模や津波が、これまでの中央防災会議の調査会が想定していた災害レベルと大きくかけ離れていたため、一部地域の被害を大きくさせた可能性があると反省。想定から防災対策まで全体を見直し、今後の防災計画を再構築する必要があるとした。

 これまで地震の震動や津波を再現できない地震は発生の確度が低いとみなし、869年の貞観地震などは考慮していなかったが、今後はできるだけ過去に遡って古文書などの史料、津波堆積物、海岸地形などの調査を進め、あらゆる可能性を考慮して想定地震、津波を検討する。

 津波対策は、2つのレベルで対処する。1つは千年に一度とされる今回の震災のような発生頻度が低いものの、甚大な被害をもたらす最大クラスの津波。住民の避難を軸に、土地利用や防災施設などを組み合わせたハードとソフトの総合的な対策をとる。

 もう1つは50〜150年間隔などの比較的頻度の高い津波。防波堤などの海岸保全施設を整備する際に対象とする津波高を大幅に上げることは、費用や環境への影響の観点から現実的ではないとしつつ、引き続き一定程度の津波高に対して整備を進めることが求められるとした。防波堤については、設計対象の津波高を超えた場合でも壊れずに一定の効果を発揮できるような、粘り強い構造の技術開発を進めることが必要とした。

 専門調査会は今後、巨大津波を想定したまちづくりや、避難支援などの情報伝達などについて議論し、秋ごろに最終的な結論を取りまとめる。

 政府の地震調査委員会は11日、青森県から千葉県にかけた東日本地域などで起きる可能性がある地震の発生確率などを見直すと発表した。東日本大震災で想定を上回る地震が発生したため。東海・東南海・南海地震など連動型地震についても想定を再検討する。見直しによって発生確率などが上がれば、原子力発電所の運転再開や地方自治体の防災計画に影響を与えそうだ。

 地震調査委は、全国で発生する可能性がある地震の発生確率や規模などを予測している。過去の地震の記録を調べたり、活断層の現地調査を実施したりして確率などを割り出す。見直、東日本大震災後のプレート(岩板)の動きなどの知見を盛り込む考えだ。

 見直しの対象は、三陸沖から房総沖にかけて発生する可能性がある6つの地震と、全国で発生が想定される連動型の地震。宮城県沖では従来、マグニチュード7.5前後の地震が起きる確率が99%とされていた。見直しでは、三陸沖から房総沖にかけての領域で連動する超巨大地震も想定する。東北沖以外の領域でも連動地震の想定を検討する。

 地震調査委は見直しの結果を中央防災会議に伝える。同会議は今秋にも東南海・南海地震など南海トラフ沿いの連動地震の防災対策を検討するため、地震調査委も同会議の検討に間に合うよう見直しの作業を進める。秋田県沖や根室沖など、東日本大震災で震源域にならなかった領域については、従来の予測確率を維持する。

 政府の浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)に対する運転の全面停止要請は、地震調査委が公表した東海地震の発生確率などに基づいて判断した。原発の停止要請について、地震調査委の阿部勝征委員長は「調査委の業務の範囲ではない」としながらも「予測を活用する側で判断して防災対策に活用してほしい」と話した。

 

住民避難を軸に総合対策

 愛知県東海市は5月、市内全域の大まかな標高を示した“海抜マップ”を作成した。集落ごとに標高を記入、災害時の広域避難拠点となる小中学校なども黄や緑、青などに色分けして記した。今後、等高線も入れた詳細版を全約4万5千世帯に配る予定だ。

■住民意識変える

 “自宅や勤務先、学校など普段いる場所の高さを住民が日ごろから意識し、津波発生時に速に避難できるように”坂祐治・防災安全課長(53)は地図の狙いをこう話す。

 東海市は、東日本大震災で850人以上が犠牲になった岩手県釜石市と姉妹都市協定を結ぶ。ともに新日本製鉄の製鉄所があり、高度成長期には釜石市から従業員ら数千人が東海市に移り住むなど歴史的つながりが深い。三陸の街を襲った未曽有の被害は、津波ハザードマップや避難経路も策定していなかった東海市の意識を変えた。

 東海・東南海・南海の「3連動地震」の被害想定や防災計画の再検討を進める国や県に先んじ、独自に対策を見直す動きが広がる。現行想定で高さ約7メートルの津波が予想される三重県尾鷲市は、市内約70カ所の標高を新たに調べて公表する方針。愛知県豊橋市も浸水想定区域に標高を盛り込んだマップ作りを進めている。

 “3.11”を契機に備えを見直しているのは自治体だけではない。

 東日本大震災で隊員約7500人の約半数を宮城県などに派遣した陸上自衛隊第10師団(名古屋市守山区)。行方不明者の捜索時、崩れ落ちた屋根などのがれきをどける作業では“グラップル”という物をつかむ部品がついた重機が活躍した。しかし10師団が使用した12機のうち1機を除き民間からのリースだった。

 “津波災害への装備不足を感じた。東海地方で大津波が起きてもスムーズに手配できるか。自治体などと擦り合わせが必要だ”10師団の林修司・2等陸尉(50)は実感している。

 しかし減災への備えにはコストがかかる。“どこまで負担できるか”地域や組織によって温度差があるのも事実だ。

■投資、億単位に

 愛知県によると、県内54市町村の約3分の1が防災無線を設置していない。県は今年度の補正予算案で2億円を計上し、補助金拡充を打ち出したが、沿岸部の自治体関係者は“億単位の資になる無線整備は財政的に厳しい”と明かす。

 住民の命を守る最前線となる医療機関も事情は近い。愛知県が5月に行った調査では、県内33の災害拠点病院の約25%が自家発電などでまかなえる電力量を「1日未満」と回答した。“6時間”という病院もあり、基本的な診察や治療の機能の維持が危ぶまれる施設もあった。

 東日本大震災で被災地支援にあたった石川清・名古屋第二赤十字病院長(63)は「耐震性や医薬品の備蓄量などの点で大規模災害で機能できるのは33施設のうち半分くらいでは」と指摘。“病院の経営と備えを両立するには、行政などの支援を経て向上させていくしかない”としている。

広がる自主防災

 知多半島の先端、三方を海に囲まれた愛知県南知多町の師崎地区で6月4日、津波を想定した初の避難訓練が行われた。東日本大震災の被害に衝撃を受けた住民自らが発案し、実行した。

■避難者はゼロ

 “ここは年寄りには上れないよ”“農道の草を刈ろう”当日、参加したのは地区住民の4分の1にあたる475人。車いすの高齢者らもまじり、一斉に高台の寺や公園などを目指した。「自治会役員だけが参加する儀式」(南知多町議)だった役所主導の避難訓練ではみられない緊張感に包まれた。

 3月11日、伊勢湾内にも1mの津波が到達した。津波警報が発令され、町は沿岸部に避難勧告を出したが、師崎地区で避難した人はゼロだった。“マグニチュード9.0級の大地震が東海沖で発生してより高い津波がきたら……”震災当日、公民館で被害状況の把握にあたった自治会長の山本嘉秀さん(67)は危機感を募らせた。

 師崎港の防波堤の高さは2m。震災後、地震の研究者らが“3連動型の巨大地震が発生した場合、濃尾平野の内陸部まで津波による浸水が発生する”というシミュレーションを相次いで発表。山本さんは行政の動きを待たず、漁協組合や老人会、婦人会などに訴えて訓練実施にこぎ着けた。

■行政任せ見直す

 東日本大震災は、行政任せだった市民の防災に対する意識を変えた。住民や企業による避難訓練や防災計画の見直しの動きはその象徴といえる。

 太平洋に面する三重県鳥羽市。行楽シーズンには観光客でにぎわう鳥羽駅前の商業施設“鳥羽一番街”はこの4月、来場者の安全を確保する訓練を独自に行った。“土地勘のない来場客を安全な場所に誘導するには事前の準備が大切”(原田佳代子社長)

 海岸から50mほどの同施設から約1km離れた高台に全員がたどり着くまで10分以上。三重県中南部では巨大地震から十数分で津波が到達するとの予測もある。訓練後、施設は避難所の場所を変更するよう同市に呼び掛けた。同県ではほかに、尾鷲市や紀北町などでも住民主導の避難訓練が行われている。

 稼働停止中の浜岡原発を抱える静岡県御前崎市でも住民が危機感を高めている。「防災先進地」とされる静岡県だが、同市浜岡地区はこれまで県内一斉の津波避難訓練には参加してこなかった。“高さ10m〜10m超の浜岡砂丘が守ってくれる”という“神話”がその理由だ。

 “本当に津波が来ても大丈夫なのか“”どこに逃げればいいか分からない……”震災後、住民から同市防災課に問い合わせが殺到。県が5月21日に開催した一斉訓練に浜岡地区の住民約3000人が初めて加わった。

 静岡大学防災総合センターで地域の防災教育を研究する里村幹夫教授は「被害想定をもとに堤防を整備したところで『想定外』は起こる。住民が声を掛け合うなど様々な事態に対応できるように訓練を何度も重ねることが必要だ」と話す。

 政府は14日、2011年版の「防災白書」を閣議決定した。東日本大震災の被害状況や政府の対応などを踏まえた上で、防災対策に関わる法律や体制の必要な見直しを行うことが課題とし、東海、東南海、南海の3連動地震などへの取り組みの強化、促進の必要性を指摘した。

 白書は今後の対策として課題を列挙。防災基本計画の見直しなどによる津波対策の充実で“想定を超える災害が発生した場合の対処にも配慮した効果的な津波防災の計画の策定などが求められている”とし、東海、東南海、南海の3連動と首都直下地震への取り組みも強化する必要性があるとしている。

 また、震災で広域に多くの市町村の行政機能が損なわれたことから、広域災害で地方自治体が十分に機能できない事態に備え、“国と自治体の役割分担や市町村機能の補完のあり方の検証を進めることが求められる”と指摘した。

 被災者支援では、発生地域や規模、季節に応じて避難所で良好な生活環境を確保するための指針づくりの必要性も挙げた。

 一方で、原子力災害についても記載したものの、東京電力福島第1原子力発電所事故への政府の対応の流れなどを追う程度で、炉心溶融(メルトダウン)などには触れていない。