誕生寺
日蓮上人の誕生した地ということは日蓮宗にとっては聖地ということになるが、誕生寺は日蓮上人の没後に建立されたものではない。上総興津の有力者、佐久間兵庫助重吉の子の日家(竹寿麿)と甥の日保(長寿麿)によって、日蓮上人を開山として建治2(1276)年に、高光山日蓮誕生寺として建立されている。明応7(1498)年の地震と津波による被害を受けるまでは現在の地ではなく、祓崎南端にあったという。その地が善日麿こと後の日蓮上人が生を受け12歳までを過ごした地。そして、日蓮上人の母の梅菊が菩薩荘厳堂を建てた地。
道路に太鼓橋が掛かっていたり、現在の誕生寺の寺域もかなりの広さになると思うけれども、移転後の延宝8(1679)年の記録の『誕生寺寺法』には境内は南北3,456m、東西2,160mとあるというから現在の小湊の温泉街をすっぽりと飲み込むほどの規模だったということになるのだろうか。
天正8(1580)年には安房の大名、里見義頼が寺領を寄進、慶長9(1604)年にも里見家重臣正木頼忠が寺領を寄進。鯛の浦はこうして寄進された寺領の中に含まれているのだという。そう、鯛の浦は誕生寺の持ち物ということになる。
しかし、元禄16(1703)年に再び大地震と津波が襲い、僧を含めて408名が犠牲となってしまう。この誕生寺二度目の存亡の危機を救ったのは、水戸徳川家の徳川綱条(粛公)。粛公は光圀公追善供養を名目として、七堂伽藍の建立を行い誕生寺は元の輝きを放ったのだという。この際に、寺の名前は第26代日孝上人によって小湊山誕生寺と改称されている。それだけ被害が大きかったということの証明にもなろう。
本堂
平成3年10月建立。間口7.8間、奥行き8.8間の単層入母屋造り本瓦葺。
正面奥に水戸光圀公寄進による貞享元年(1684)の十界本尊木像(大仏師左京法眼康裕作)を安置。
内陣の折上格天井に仏教植物の天井画(石川響画伯筆)82枚を掲額。外陣右側に日家、日保上人像並びに歴代の位牌を奉安。本堂背面は永代納牌所。
仁王門
永3年(1706)建立。平成3年大改修。間口8間。宝暦年間の大火の際焼け残った当山最古の建造物。両側の仁王尊は上総の仏師松崎右京大夫法橋作。楼上の般若の面は左甚五郎作と伝えられる。
祖師堂
日蓮聖人像を安置する祖師堂は、49代日闡上人が、10万人講により10年の歳月をかけ、天保13年(1842)に建立した。総欅(けやき)造り雨落ち18間4面。高さ95尺。堂内に52本の欅の柱と用材は江戸城改築用として、伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難しこれを譲りうけたもの。
平成3年、聖人像を修理する為、解体したところ、胎内より今から630年前の造立を記す貞治2年(1363)4代日静上人筆の古文書と薬草が発見された。古文書には「生身の祖師」の名と宗祖誕生の時と所が記されていた。聖人像を安置する御宮殿(ごくうでん)は明治皇室大奥の御寄進によるもの。堂内右側の天井に南部藩の忠臣相馬大作筆による天女の絵が描かれている。堂内の天蓋(てんがい)等の仏具類は明治天皇御生母中山慶子一位局様や、大正天皇御生母柳原愛子一位局様による御寄進。
本師殿宝塔
昭和63年5月完成。総高26メートル、塔体印度砂岩切石貼。内陣に釈尊像(仏師西村房蔵作)を安置。総高3メートル、漆金箔押。壁面に50万枚の散華を奉安、塔内輪蔵に13万3千枚の自我偈写経を収納。又、写経、散華をマイクロフィルムに撮影したプレートを永久保存。宝蔵壁面に仏伝壁画と釈迦十大弟子を
奉安予定。
宝物館
平成元年正月に新築開館され、面積366u。常設展示・特別展示室に分れ、日蓮聖人御真筆、歴代の墨蹟、里見家、清正公、水戸光圀公等の遺墨、明治御皇室よりの拝領品、日蓮聖人御一代伝記画十八枚等を展示。
客殿
宮家の御接待所として67代日誘上人が昭和8年建造。総桧造で当時貴賓殿と称した。
上段の間]
中央の床柱と違い棚の用材は樹齢千年の桑の銘木。奥の金庫には馬堀喜孝画伯製作の明治天皇16才の時の御肖像画を奉安。
[牡丹・桜の間]
左側の部屋は襖絵が牡丹で牡丹の間、続いて襖絵が桜で桜の間。
その他
総門、誕生堂、鐘楼堂、太田堂、竜王堂、記念碑。
日蓮上人
日蓮聖人は、貞応元年(1222)2月16日、小湊片海の地に降誕した。
その時、庭先から泉が湧き出し産湯に使った「誕生水」、
時ならぬ時に浜辺に青蓮華が咲いた「蓮華ケ渕」、
海面に大小の鯛の群れが集まった「妙の浦」という不思議な「三奇端」が伝えられている。
聖人は幼名を善日麿といい12歳までこの地で暮らした。
文永元年(1264)聖人は母梅菊の病を祈願し蘇生させる。
延命した母梅菊はそれを記念し、「菩薩荘厳堂」を創建。
その後直弟子日家上人が建治2年(1276)10月、聖人生家跡に一字を建立し
高光山日蓮誕生寺と称したのが当山の始まりである。
明応7年(1498)、元禄16年(1703)の2度の大地震、大津波の天災にあいその後現在の地に移る。
26代日孝上人は水戸光圀公の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称す。
しかし、宝暦8年(1758)の大火により仁王門を残し全山を焼失。
49代目闡上人が天保13年(1842)現在の祖師堂を再建し、当時国内随一と称された。
また、国守里見家、正木家より御朱印を賜る。
明治に入り大正天皇御幼少時、病弱の為病気平癒の御廟所も建てられる。
昭和から平成にかけて、50万人講を発願し諸堂を復興し、平成4年5月落慶式を行う。
現在日蓮宗の大本山として全国信徒の参拝の地となっている。