東京湾
鎌倉時代には既に交通路として利用されていた資料が残る。中世には海賊衆も活動し、戦国時には後北条氏と里見氏の水軍の争いの舞台にもなる。江戸時代には菱垣廻船や樽廻船などの和船による水運が行われ、後期には外国船来航に対する湾岸防備のために品川に台場が築かれる。江戸時代には鎖国状態であったが、日米修好通商条約で横浜港が開港される。
東京湾は狭義には三浦半島の観音崎と房総半島の富津岬を結んだ線の北側を指し、世界でも指折りの人口密集地帯にある東京湾、湾の奥部の海底には厳しい環境をたくましく生き抜く魚の姿がある。広義には三浦半島の剣崎と房総半島の洲崎を結んだ線より北側、すなわち浦賀水道を含んだ海域を指す。鶴見川、多摩川、荒川、江戸川などが注いでいるが、湾口が狭く外海との海水の交換は行われにくい。そのためたびたびプランクトンの異常発生である赤潮が発生してきた。外海に面している浦賀水道の水質は良く、加えて黒潮の影響を受けるため夏には南の沖縄近海で見られる魚の姿を見ることが出来るし、珊瑚も生息している。外湾には、都市化の進んだ内湾とは異なる美しい海が広がる。そこには世界最北限の大規模な造礁サンゴ群落もある。北のカジメ(コンブの仲間)と南のサンゴ群落が隣り合う、独特の水中景観。そこには、トゲチョウチョウウオやトノサマダイなど、黒潮が運んできた色鮮やかな南の魚達が泳ぐ。外湾には、ヤギやウミトサカ、キサンゴなど「ソフト・コーラル」と呼ばれる、固い殻を持たない色鮮やかなサンゴが群生する場所もあり、「海のお花畑」と呼ぶにふさわしい、見事な景観が周年見られる湾内には、明治・大正期に造られた海保(かいほ)を始め、多くの人工島がある。対して、自然島は、横須賀市沖の猿島のみ。
横須賀港、横浜港、川崎港、東京港、千葉港、などがあり、横須賀港には在日米軍や日本の海上自衛隊の基地がある。沿岸は神奈川県、東京都、千葉県に面し、京浜工業地帯(京浜工業地帯には各種機械・金属製品・鉄鋼・石油精製・化学・ゴム・食品・皮革・印刷出版などあらゆる工業がふくまれるが,機械・化学・金属など重化学工業の比率が高く、印刷出版工業に特色がある。また中小工場も多い。工業出荷額・従業者数とも日本最大の規模をもつ。東京・川崎・横浜と大きな積み出し港を3つもち、国内向け各種輸送路も、東京を中心に各地にのびている。近年は用地・用水の不足に加えて、公害発生に対する規制もきびしくなったので、郊外へ移転する工場も多い)や京葉工業地帯(東京湾の東岸、千葉県の浦安市から富津市にいたる臨海地域と、その背後の内陸部に発達した新興工業地域。“ほとんどが埋め立て工業地”。京浜工業地帯が超過密化したため、第二次世界大戦後に開発された。火力発電所、石油化学コンビナート、近代的な製鉄所が建設され、それらの関連工場も多数進出し、工業地域を形成した)が立地し、加工貿易で国を富ませてきた日本の心臓部であった。
狭義の東京湾の面積は922u、広義の面積は、1320u、湾口はわずか8km弱である。水深は一般に浅く30m以下の部分が多く、湾口の西半から横須賀沖及び本牧岬沖にかけて40〜50mの深い所がある。
これは浦賀水道の中央部から続いている海底の峡谷である。底質は湾の奥の広い部分が泥で、北岸と房総半島よりが細砂か砂となっており、浦賀水道の三浦半島よりには岩石の露出している所が多い。湾には鶴見、多摩、隅田、荒川、江戸、養老、小櫃、小糸などの河川が流れ込んでいて、それぞれの河口には三角州が発達している。東京湾は首都東京を控え、日本の海上輸送の1中心をなしており、横浜川崎東京の3港を合せた京浜港や横須賀、京葉工業地帯の中核をなす大形港湾としての整備が進められている千葉港、京葉港木更津港などがある。
内湾のほぼ全域にわたり盛んに埋立てが行われ、埋立地の間には深い運河が通じ、新しい工業地帯や大都市に必要な諸施設が出来ている。六郷川(多摩川の下流)の三角州上にある羽田の東京国際空港は、文字通りの日本の表玄関となっている。
湾岸の工業地帯化が進む一方、湾内の船舶航行は飽和状態に達し海上事故が頻発し、工場廃水による水質汚染も著しい。かって盛んであった北東岸でのアサリ・ハマグリの養殖や内湾東岸や羽田附近での“ノリ養殖”は衰微し海水浴場もほとんど消滅した。
野島海岸 (神奈川県) |
多摩川河口干潟 |
三枚州 (東京都) |
三番瀬 (千葉県) |
谷津干潟 (千葉県) |
盤洲干潟 (千葉県) |
富津干潟 (千葉県) |
羽田空港
1931年8月、荏原郡羽田町鈴木新田字江戸見崎(旧旅客ターミナル地区付近。翌年に東京市蒲田区羽田江戸見町となる。)に日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場として開業。日本の民間航空黎明期における重要な飛行場であった。(面積53haに全長300m、幅15m滑走路1本)利用者数は世界でも有数の規模を誇る。
航空機発着回数は約28.5万回(2004年度)航空旅客数は約6288万人(17.23万人/日・2003年)でそれぞれ日本最大(2位はいずれも成田国際空港)。航空貨物取扱量は約72.3万t(2003年)で日本第3位(198.08kg/日、1位は成田・2位は関西国際空港)。
A滑走路 | (16R/34L、3000×60m) |
B滑走路 | (04/22、2500×60m、横風用) |
C滑走路 | (16L/34R、3000×60m) |
第1期(1984年1月〜1988年3月) | A滑走路移転・拡張(1988年7月供用開始) |
第2期(1987年9月〜1993年8月) |
西側地区旅客(現・第1旅客)・貨物ターミナル 新整備場移転・新設(1993年9月供用開始) |
第3期(1990年5月〜) |
C滑走路移転・拡張(1997年3月供用開始。これ以降、 2本の平行滑走路による同時離着陸が可能になった) 第2旅客ターミナルビル(2004年12月1日供用開始) |
新滑走路(D滑走路)
神奈川県寄りの海上に人工島を造成し、既存のB滑走路とほぼ平行に近い形で2500mの新滑走路を建設する計画が進んでいる(2007年3月供用開始予定)。これにより、空港の処理能力を表す「年間発着能力」は28.5万回から40.7万回まで引き上げられ、さらなる国際定期便の就航が可能となる。
世界で3番目の高さである116mの管制塔を建設することを決定した。これにより、現在の管制塔は供用開始からわずか10数年で使用されなくなることになった。
幕張メッセ
千葉市は平成4年に全国で12番目の政令指定都市になり、市は6つの区に分けられている。幕張メッセはその中の美浜区に位置する。幕張の海岸線には砂浜が広がっているけど、これは人工のもの。昔は天然の干潟が広がっていた。しかも海岸線は今よりもずっと陸寄りだった。
今では、小さな干潟を埋め立てることすら環境問題として大きくとりだたされるのだけど、昔は高度経済成長の波と共に干潟も呑込まれて行ってしまったのだろう…。まっ、埋め立てなければ、交通渋滞も通勤ラッシュも緩和されなかった。
美浜区と花見川区の境界線なんだけど、その一部は昔の海岸線に由来しているのが地形図でわかる。ちなみに「幕張海岸」と記された所にある“出っ張り”の部分も埋立地で、ここは昭和31年から工事が始まり、昭和40年に完成している(こぢんまりとした埋立地)。美浜区の境界線にもちゃんと意味があったんだ。美浜区のほとんどが昭和40年以降に造られた埋立地。
浅瀬の干潟であった湾岸地が高層ビルの林立する国際業務都市として機能するようになった。幕張メッセ以外にも、業務研究、教育機関、ホテル、商業地、千葉マリンスタジアム(ロッテの本拠地)、居住エリアなどの機能が配置されており、近未来的な地区として発展している。
東京モーターショーはかつて晴海見本市会場で行われていた。しかし会場が手狭になったということで、幕張メッセのオープンこけら落としイベントとして平成元年に行われて以来、幕張メッセの一大イベントとして毎回開催されている。モーターショーが幕張メッセの知名度を一気に高めているのも事実であり、平成8年にお台場の東京ビッグサイトがオープンしたときにモーターショーの移転話があったが、幕張メッセ側も展示場の増設を行って猛反対した結果、現在でも東京モーターショーは幕張メッセで開催され続けている。
そんな第39回東京モーターショーが2005年11月6日まで開催されている。
幕張メッセは21万平方メートルの広大な敷地に「国際展示場」「国際会議場」「幕張イベントホール」の3施設で構成されている日本を代表する複合コンベンション施設です。正式名称「日本コンベンションセンター」。
1,600名を収容できるコンベンションホールを始めとした18室をもつ会議場は国際会議からパ ーティー・ファッションショーなど幅広くご利用いただけます。 また、展示場での展示会・見本市に併せたセミナーや講演会・レセプション等も、同時開催でき ます。 |
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延床面積 | 16,700u | |||
建築面積 | 6,846u | |||
主要施設 | コンベンションホール | 1,390u | 国際会議室635u | |
中会議室・6室 | ||||
小会議室・8室 | ||||
応接室・2室 | ||||
レストランNOA・650席 |
54,000uの展示スペースをもつ一体型展示場です。可動間仕切りにより8ホールの 無柱空間に分割できます。 また、床面に組み込まれたピット、最高28mを誇る天井は、多様な演出を可能とします。 |
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延床面積 | 98,820u | 延床面積 | 33,412u | |
建築面積 | 88,815u | 建築面積 | 30,572u | |
展示面積 |
54,000u(6,750u×8ホール) |
展示面積 |
18,000u9ホール9,000u・ 10・11ホール各4,500m2 |
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天井高 | 最高28m / 最低 12m | 天井高 | 最高35m/最低15m | |
制限床荷重 | 1u当たり
5t/√S (S=負荷を加 える面積) |
制限床荷重 |
9ホール5t/u・10・11ホール 3t/u |
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付帯施設 |
インフォメーションカウンター ビジネスセンター ATM レストラン(CENTRAL CAFETE RIA・ロイヤルガーデンコート) 売店(3ヶ所) |
付帯施設 |
グランメール(カフェテラス) |
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最大9,000人の収容が可能なイベントホールはコンサート・式典・展示会・ スポーツイベント等多目的な利用が可能です。 3,090平方メートルのスペースを持つアリーナ床下には、同時通訳用のル ープアンテナが設置されています。また、アリーナ天井部分には吊りフック(1 00ヶ所)、バトン等が充実していますので多様な演出に対応します。 |
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延床面積 | 15,522u | |
建築面積 | 9,357u(地上3階) | |
展示面積 | 3,098u | |
天井高 | 最高27m | |
固定客席 | 3,948席(ボックス席を含む) | |
可動客席 | 912席 | |
仮設席 | 約3,000席 |
ゴルフ場(千葉県)
全県に渡ってゴルフ場が散らばっていて150ヶ所以上もあり、何処の町にも看板を見かけないところはないほど普及している。その昔ヨーロッパの片田舎で始まったともいわれているが今や全世界のゴルフ愛好家は老若男女を問わずクラブを振り回している。
正規のゴルフ場をこしらえるには、国際的な基準に合致していなければならず、約30万坪(99ha)を要し、公式の選手権競技を行う資格は18ホールとその全長が6,500yd(1yd=91.44cm)以上で、ティーイング・グランド(打ち出し場所)、フェアウェー(芝の刈り込んだ場所)、ラフ(粗悪な雑草地)、ウォーター・ハザード(海・池・川などの障害物)、バンカー(砂のくぼ地の障害物)、グリーン(直径約10.8cm=4.25inのホールと滑らかに刈り込まれた芝)から成り立ち、標準打数が定められ、その基準は250yd以下はパー3、250〜445ydはパー4、446〜600ydはパー5、601yd以上は6と決められ、コースの境界も杭または柵で表示され、ボールが境界外に出た場合は、アウトバウンズといって、ワンペナルティ(1罰打)科して打ち直す規則もある。
競技方法にもストローク・プレーとマッチ・プレーの2つの方法がある。
@ストローク・プレーとは正規の1ラウンド(18ホール)またはそれ以上の所定のラウンドを最小ストロークまたは最小ネット・
スコア(ハンディキャップを差し引いたスコア)で競技者が優勝となる競技方法で、メダル・プレーとも呼び、多数の参加者
での場合用いられる。
Aマッチ・プレートは、各ホールごとに少ない打数または少ないネットスコアで勝敗を決め、相互に勝ったホールを相殺して
一定のラウンドで勝ち越した方が勝者となる競技方法で、ホール・マッチとも呼び2人ないし4人が互いにまたは2組に分
かれて競技される。
ゴルフゲームの起源については、様々な説がある。約600年(14世紀)ほど前から、まだ天然の牧場であった頃羊飼いの牧童たちが、杖で小石を飛ばして遊んだのが次第に進化したというスコットランド発祥地説と、オランダ固有のヘット・コルヴェンという石畳や氷上でおこなうホッケー風の球戯が、14世紀頃貿易関係のあった対岸のスコットランドに伝わって、ゴルフに変化したというオランダ渡来説と、もう一つは紀元80年にローマ帝国のユリウス・アグリコラ将軍がスコットランドを征服した時に、その頃ローマで行われた羽毛を詰めた皮製のボールを木杖で打って転がすパガニカという球戯が伝わり、それが3世紀にわたるローマ軍の長期占領中に土着して、ゴルフになったのだというパガニカ説の3説がある。。何れもはっきりとした根拠があるわけではなく、またセント・アンドルーズで、何時頃からゴルフが行われたかさえもわかっていない。今日伝えられているゴルフの古い記録は、ほとんどすべてスコットランド議会記録や宮廷から発見したものであるが、最も古い記録は1457年3月6日に国王ジェームズ2世が、ゴルフの流行は武技・弓術の訓練に妨げるという理由で、議会に命じて12歳〜50歳までの国民に、ゴルフ禁止令を布告させた公文書である。
その後、1491年までに同じ禁止令が数回にわたって布告された記録があるところをみると、すでに庶民がゴルフに熱中していた事実が分かるが、やがて国王や貴族、法官までがその仲間入りするようになった。。特に、スチュアート王家は代々ゴルフにふけり、最も古いのは1503年に国王がゴルフをしたという宮廷記録があり、また1567年にはメアリー・スチュアートが、夫ダーンリーの暗殺数日後にゴルフをしたという事実が、議会記録で明らかにされている。
また、1618年にはメアリーの子でスチュアート王家からイングランド王となったジェームス1世が、クラブつくりの名人ウィリアム・メーンを生涯王室付きのクラブつくりに任命したり、商人ジェームス・メルヴィルに21年間ゴルフ・ボールの一手製造の勅許を与えた記録や1642年には、その子チャールズ1世がエジンバラに近いリースのリンクスで臣下とともにゴルフにふけっていた時、早馬の報告でアイルランド反乱を知り急いでロンドンに帰ったという記録などもある。
こうしてゴルフは次第に上層階級に愛好されるようになったが、1744年に、それらの貴族紳士たちが集まってリースのリンクスで紳士ゴルフ協会を組織しエジンバラ市会から銀製のクラブのトロフィーの寄贈を受けてシルヴァー・クラブ競技を催した。これが最初のゴルフ・クラブとゴルフ競技であるが、ついで1754年にはセント・アンドルーズに22人の貴族紳士によってセント・アンドルーズ・ゴルフ・クラブが結成されると共に、それまでの口伝の不文律にかわって初めて13条からなる成文のゴルフ規則を作った。
その後、各地に次々とゴルフ・クラブが結成されたが、1834年にウィリアム4世がセント・アンドルーズ・ゴルフ・クラブにロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフ・クラブの名称を与えたのを機に、これが全国のゴルフ・クラブを統括して規則の制定と選手権競技の運営をつかさどることになった。
しかし、その頃は、まだボールは初期以来の羽毛を詰めた皮製のフェザー・ボールを用いクラブもすべて木製で種類も5〜6本にすぎなかったが1846年に固形ゴムのグタペルカ・ボールが発明されるに及んで、飛球距離の増大とともにアイアン・クラブの発達を促がして、ゴルフはようやく近代スポーツの体形を整えるに至った。
それとともに技術も急速に進歩して、アラン・ロバートソン、トム・モリス父子、ウィリー・パークなどの名手が輩出した結果、1860年に第1回全英オープン選手権競技が創始され、さらに1885年に第1回の全英アマチュア選手権競技が創始された。かくして19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、イギリスのゴルフ界は空前の黄金時代を迎えたが、その頃の代表的名手はプロではハリー・ヴァードン、ヘンリー・テーラー、ジェムズ・ブレード、アマではジョン・ボール、ハロルド・ヒルトンなどであった。
ところが、1898年に今日のゴム糸芯巻きボールがアメリカ人ハスケルによって発明されてゴルフは更に飛躍的な発展を遂げるとともにアメリカのゴルフ界が急速に台頭した。アメリカにおいて、初めてゴルフ・クラブが出来たのは1887年であるが早くも1904年にはアメリカのアマチュア第一人者のウォルタートラヴィスがイギリスに遠征して全英アマチュア選手権を獲得し、更に1913年の全米オープン選手権競技では20歳の無名のフランシス・ウイメットがイギリスから出場したプロ名手のハリー・ヴァードンとテド・レーを破って優勝をとげ、ゴルフ王国のイギリスに大きな脅威を与えた。
その頃のアメリカのゴルファーにとっては、イギリスのタイトルを獲得するのが最高の名誉であったが、1921にはプロのジョック・ハチソンが初めて全英オープン選手権を獲得し、ついで1922年にもウォルター・へーゲンがタイトルを奪った。イギリスの敗因には、第一次世界大戦で1915年から5年間すべてのゴルフ競技が中止されたこともあるが、同時にアメリカのプロが激しい訓練によって技術的にイギリスを追い越した事実も見逃せない。以来1933年までの13年間ただ1回を除くほかは、全英オープン選手権はすべてアメリカに奪い去られて、遂にゴルフの王座はアメリカに移った。
特に、この時代に活躍したアメリカ最高の名手ボビー・ショーンズは1930年に英米のオープン及びアマチュアの4選手権を獲得する空前絶後の偉業を成し遂げた。第二次世界大戦後、アメリカのゴルフ界は更に大躍進を遂げ、サム・スニード、ベン・ホーガン、アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウスなど多くの名手が次々と出現した。そして現在では、タイガーウッズが大活躍で、アメリカのゴルフ王国は揺るぎない。
我国には、アメリカに遅れること14年の1901年(明治34年)イギリスの茶商アーサー・グルムが、数人の友人とともに神戸六甲山に最初のゴルフ・コースをつくり、2年後の1903年に神戸のゴルフ・クラブを創立した。1906年に横浜在住の外人によって、根岸競馬場内にゴルフクラブが創設され東西の2クラブが主体になって1907年第1回アマチュア選手権競技が創始し、そして14年後の大正3年日本人による東京ゴルフクラブが駒沢に設立された。第12回日本アマチュア選手権競技が初めて駒沢コースで行われ、日本の井上信が優勝し、日本人ゴルファーも次第に増加し始め1924年には全国7クラブの代表が集まって“日本ゴルフ協会”(JGA)を創立し、名実ともに日本人の手で競技会が開催された。
そして、ようやく新進のプロたちも台頭し、アメリカやフィリピンに遠征させて技術向上をはかった結果、日本のプロゴルフは急速な進歩を遂げた。斯くして日本プロ選手権競技も開催され、以来、宮本留吉、浅見緑蔵、陳清水、戸田藤一郎などが活躍し、戦後は中村寅吉、青木功、尾崎将司などが続き、丸山茂樹を始め若手が外国進出を果たしている。そして女子プロも不動裕理、大山志保など安定した活躍で男子プロもウカウカしていると賞金王が賞金女王に取って代わられる日もそう遠くないかもしれない。
海堡(要塞)
江戸時代後期、黒船を撃退するために東京湾に第一、第二海堡や三浦半島、房総半島に台場(砲台)が設けられましたが、これが日本における近代要塞の嚆矢となる。明治新政府は、軍事増強策のなかで台場にかわり、新たに西洋式砲台を築き東京湾防備に力を注ぎました。これが東京湾要塞地帯であり昭和20年の敗戦まで存続した。
その構成は、砲台とその付属施設である司令部、観測所、電源施設、兵舎、弾薬庫などから構築され、これらは、敵の攻撃に耐えられるように強固で、また敵に発見されないように遮蔽、偽装が施されている。東京湾口に位置する三浦半島には、幕末から黒船来航に備え各地に台場(砲台)が築かれていた。
明治に入り、首都および横須賀軍港の守備の要として更にその重要性は増大し、
東京湾要塞地帯
として新たに観音崎地区をはじめ、走水、千代が崎、猿島、米が浜、箱崎、笹山、夏島などの要所に砲台が
整備されていった。東京湾要塞は、明治末には一応の完成を見たが、残念なことに兵器の発達により既に旧式砲台となってしまい、大正初期には多くの砲台が
廃止となった。そして、追い討ちをかけるように大正12年の関東大震災によりほぼ壊滅状態となってしまった。
直ちに復旧が行われたが戦略上不要となったものや復旧不可能な砲台は除籍、廃止となり、要塞整理事業として新たに剣崎、城ヶ島などが竣工した。また、千代ヶ崎など軍艦の砲塔を利用した砲台も現われた。この明治期の砲台は現在ほとんど残っていない。わずかに、猿島、観音崎あたりにわずかに遺構を残しているが、これは文化財ともいうべきものです。
このような変遷を辿った東京湾要塞は、昭和初期には面目を一新して、房総半島南部の砲台と合わせ東京湾口外で縦深な防御網を構築した。
しかし、大戦末期には敵の本土上陸に備えて、水際決戦の方針のもと三浦半島の沿岸各地には、海軍が新たにカノン砲を備えた洞窟砲台や上陸予想地点には機銃狙撃用の洞窟陣地を築いた。
砂浜には厚いコンクリートで覆われたトーチカが築かれ、沿岸には特攻用舟艇(震洋)、特殊潜航艇(
海龍、回天)、人間機雷(伏竜)の基地が設けられた。更に、空に対する備えとして
防空砲台(高角砲台、機銃砲台)が各所に構築された。防空砲台は、空襲に対して実際に稼動したが、沿岸の砲台、特攻基地等は幸いにも本土決戦が回避されたことにより、実戦に使用されることはなかった。この敗戦をもって東京湾要塞の歴史の幕は閉じられた。
海水浴、サーフィン、釣り、バーベキューなど四季を通じて思い思いの遊びを楽しむ人々。三浦、房総半島の海岸は、首都圏のアウトドアレジャーのメッカです。その海岸の背後の崖にポッカリと口を開けている洞窟達。この中の何人の人が戦争の傷跡であることを知っているでしょうか。
明治初期、近代国家の威信をかけて構築された砲台、そして時代が下り一億玉砕の掛け声のもと、その最前線として決死の覚悟で建設された三浦半島の特攻基地。
戦後、半世紀が経過し、開発や不要なものとして埋められ破壊され姿を消しつつあります。資料も少なく、世の中からその存在が忘れ去られようとしている現在、歴史の生き証人として後世に伝えていきたい。
都・県民歌
神奈川県民歌
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千葉県民歌
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東京市歌
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東京都歌 制定年 昭和22年 原田 重久 作詞 深尾 須磨子 補作 加須屋 博 作曲
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