上杉鷹山
1751年日向高鍋藩主の次男として生まれる。幼名・松三郎。10歳で上杉家の養子に入り、17歳で米沢藩主に。名を治憲と改める。窮乏の危機にあった藩の改革を断行。35歳で家督を譲るが、72歳で生涯を終えるまで藩再興に心血を注いだ。バブル経済崩壊後、会社再建の手本としてブームを呼び、今また行政改革の視点から注目を浴びる。52歳の時、鷹山と号した。
1767年、鷹山が数え17歳で藩主となった当時の米沢藩は、窮乏にあえいでいた。上杉家は、関ヶ原の戦いに敗れ、会津120万石から米沢30万石に封じ込められ、さらに3代藩主が急逝したため15万石にまで減らされた。それでも大藩意識に執着し、人員や経費の節減を怠ったため、藩財政は「破綻」寸前。江戸や越後の豪商からの借金の利息返済だけで、藩収入の半分に達していた。
鷹山は、凶作に備えるため、医師に草木果実などの研究をさせた。その結果を「かてもの」という食の手引書にまとめ、農民らに配布した。草木の食べ方や製造法、イノシシの保存法などが懇切丁寧に記され、多くは米沢地方に定着し、人々の生活の中に息きづいている。
上杉家の14代茂憲伯爵が建てた「上杉伯爵邸」では、鷹山ゆかりの郷土料理を堪能することが出来る。米沢地方で食用を兼ねた垣根として利用された「うこぎ」は鷹山が効用に注目して奨励したため一気に広まった。
みじん切りにして焼き味噌とあえたり、ご飯に混ぜ込んだりする。独特の香りと心地よい苦味が、ふわっと口に広がる。
冷汁は、郷土料理の代表格で、冠婚葬祭には欠かせない。もともと陣中料理で、旬の野菜を茹で、貝柱と干しシイタケから取った出し汁をかけて食べる。
正月料理の塩引き寿司を頬張ると、塩辛さが、舌を程よく刺激した。吾妻山系でとれる吾妻竹は山菜汁で食す。しゃきしゃきとした食感がたまらない。
東京・浜離宮に倣って造られた庭園を眺めて、鷹山の業績に思いをはせながら、揺ったりと食事をするもいい。
なせば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり
72歳で波乱の生涯を終えた鷹山は、上杉家歴代藩主とともに廟所に眠る。樹齢400年を超える老杉に囲まれた境内は、けん騒を離れ、静寂を極めていた。初代謙信を真ん中に、2代から12代までの廟堂が左右交互に並ぶ。よく見ると、鷹山の代から、ケヤキから安い杉に材料が代わっていた。なせば成る。そんな鷹山の気概に触れた気がした。
一汁一菜
藩主となった鷹山は大倹約令を出し、自らも実践した。さらには、荒地開拓、水利事業、漆などの産業振興、藩校復興、ATC・・・・・。と様々改革に乗り出した。「200年以上前なのに、改革の内容や精神は現代にもそのまま通じる」。鷹山の改革は、農民など市井の人の心を忘れなかった。家督を譲った11代治広に藩主の心得として送った「伝国之辞」。
国家人民の為に立てる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
松岬神社の石碑に刻まれた心得は、まさに主権在民の思想。フランス人権宣言よりもまえというから驚かされる。その精神が、地元米沢での鷹山人気につながっているようだ。「産業でも何でも、米沢ではいいことは全部 鷹山公が始められた といわれる」。松岬神社から数分歩くと、隠居した鷹山が暮らした餐霞館(さんかかん)跡にたどり着いた。35歳で隠居した鷹山は、藩主の後見人としてこの地から藩改革を主導した。餐霞館の顕彰碑には、鷹山の有名な句が刻まれていた。
笹野一刀彫り
笹野一刀彫りは、千数百年前から米沢市笹野に伝承する郷土玩具だったが、鷹山が豪雪に閉ざされた冬の副業として奨励したことで盛んになったといわれている。コシアブラと呼ばれる真っ白で弾力に富む高木を十分乾燥させ、サルキリという独特の刃物一本で彫り進める。最後に彩色を施して完成。素朴ながらも凛とした風格を備え、多くの愛好家から親しまれている。代表的な作品は鷹をもした「お鷹ぽっぽ」。ぽっぽはアイヌ語で玩具の意味。
戦国時代の勇将、上杉謙信を初代とする上杉家が居城とした山形県米沢市の米沢城。1873年に取り壊され、今は桜の名所として知られる松が岬公園に姿を変えている。公園の東にたたずむ松岬神社に、上杉家10代藩主治憲、後の上杉鷹山がまつられている。
国も地方も日本中、改革ばやりだが、成功したという話は、とんと聞かない。だからだろう。江戸時代、一人の名君が成し遂げた改革物語が、今も語り継がれるのは・・・・・。
読売新聞より