天童温泉

『山寺とさくらんぼ狩り』

平成14年6月23日(日)〜24日(月)

参加人員:89名(バス2台)

旅行扱者:大師観光(株)
東京都足立区西新井1−1−4 〒123−0841
電話03−3890−2458 FAX 03−3890−2459

バス会社:kokusai motor cars


宿泊ホテル:滝の湯ホテル

山形県天童市鎌田本町1−1−30 994−0025
電話023−654−2211 FAX 023−654−2217
創業90周年

天気:曇のち晴たり曇ったり

 

 




 今年から小川新会長(昨年までは塚田会長)を中心に、新体制で実施致します。
 私が旅行会の幹事長を仰せ付かって、はや、8年目になりました。年月の経つのが、年々サイサイ早く感じる年になってから何年経ったでしょうか。
 
 さて、昨年の旅行が昨日のようで、役員会やら諸々の打合わせをし、今年も昨年に負けない「明るく、楽しく、賑やかな」という吾嬬旅行会のモットーを、永遠に続ける為に日夜まい進に勤めて来ました。役員の皆様のご協力で、用意万端整い「さあ出発」にまで、こぎつけました。

 今回は、東北の山形県天童温泉への一泊二日のバス旅行です。当旅行会としても初めての場所に行く事になりました。高速道路が整備される前には、行きたくても行けないと思っていた地域が最近では思い切って、今一歩先へ足を延ばす事が可能になりました。

 当日朝は、午前7時30分の出発時間にもかかわらず、1時間も前からバスの来るのを待っているという人達が行列をして待つという熱の入れようでした。役員の集合時間までには、粗方の人達がもう集まって到着していたバスに乗り込んでいた。

 今朝も降りそうで降らない梅雨空だったが、早速積み込む飲み物、今夜の宴会で使う賞品、賞金などを前の幹事席やトランクに乗せ、缶ビール、おつまみなどを数人の役員で手分けして各自に配り、出発前のいつもの慌ただしさだった。

 時間通りに全員集合で、ドライバーの自己紹介があって、1号車から数人の見送りの中をバスは走り出した。バスガイドの朝の挨拶と自己紹介があり、八広中央通りから右折して、明治通りを堤通りへ、右折して鐘ヶ淵の堤通り2丁目から左折して、水神橋の手前を右折して首都高速6号向島線に入り、堀切JCTの手前で車両長の挨拶と1号車は会長、2号車は幹事長がそれぞれ出発の挨拶をしている内に、高速中央環状線に入り、小菅JCTから川口線へと進み江北橋を過ぎると、高速中央環状線の荒川放水路に架けられた????橋の新しい真っ白な色が目に入って来ると荒川放水路とは別れて足立区と川口市の境を流れる芝川放水路に沿って北上して、やがて川口市に入り、東京外郭環状道路と交錯する川口JCTへと渋滞もなく、スイスイと東北自動車道へ進んで、上を走る武蔵野線を過ぎると浦和ICあり、右側にはFIFA2002年ワールド・カップの行われる真新しい大きな浦和美園の埼玉スタジアムが、ドーンと建っていた。

 岩槻、蓮田SA、久喜、加須、羽生PA、館林、佐野藤岡、と過ぎ佐野SAで第1回目のトイレ休憩を20分取り、予定の時間通りに出発し、アルコールも少しづつ入り、カラオケの準備が出来ると、切れ間なくりクエストがあり、岩舟JCT、栃木、栃木都賀JCT、都賀西方PA、鹿沼、大谷PA、宇都宮、上河内SA、矢板、矢板北PA、西那須野塩原、那須野、那須野高原SA、白河、阿武隈PA、矢吹、鏡石PA、須賀川、安積PA、郡山南、郡山、郡山JCT、本宮、安達太良SA、二本松、福島松川PA、福島西、吾妻PA、福島JCT、飯坂インターまで、所々でガイドの説明なども入れながら、十二分楽しみ今夜の宴会の5組の代表も選び、一般国道を米沢の先にある高畠ワイナリーを目指した。

米沢藩主上杉鷹山

 途中には、東栗子トンネルと西栗子トンネルの2つの長いトンネルをくぐり、曇り空ながら見通しは良く、稜線もくっきりとして360度の山並みに囲まれた久しぶりの緑濃い景色を眺めながら、皆さんと、お楽しみのビンゴゲームをやりながらチラチラと、目をやっているうちに米沢市となり、川端康成作雪国の「トンネルを抜けると雪だった」ではないが、「トンネルを抜けると晴れていた」
で強い日差しがガラス越しにピリピリと肌を刺すのを感じた。

 一部開通した有料道路も国道13号線沿いにあったが僅か9km足らずなので、国道を行くと暫くすると、今日初めての渋滞に出っくわして仕舞った。原因は後で分かったのだが、我々がこれから行く片側1車線の、高畠ワイナリーへ右折する交差点の信号待ちであった。

 右折して左右に工場が並ぶ間を抜けると右側に目指す高畠ワイナリーが川向こうに見えてきた。ここでは、記念写真を号車別に撮り、工場見学は日曜日でラインは休止していたが、6種類のワインを試飲し、地下倉庫のワイン樽に詰まって眠る膨大な樽を見学し、みやげを買うと集合時間だった。

 もと来た国道13号線(米沢南陽道路)へ戻り、右折すると左側に米沢織物観光センターが今日の昼食場所である。昼食時間を1時間取り、日差しの強い中をバスまで歩き、約52km先の天道温泉「滝の湯ホテル」前の天童将棋駒工房へ約1時間半かけて到着し、今朝バスの中で注文しFAXした将棋ゴマに盛んに名前を彫っていた。明日朝ホテルを出発するまでには、120、30の数を彫り上げるという事で、店頭で質問に手際よく説明しながら手は休めずに彫り続けていた。

みちのくの天童と将棋駒

将棋の歴史
 我国の将棋には、大将棋、中将棋、小将棋があったといわれ、その起源は不明であるが、吉備真備が唐から持って帰ったという伝説があるから、平安の初期頃に支那から伝来したものらしい。その頃の将棋は、大将棋で225目あったそうです。室町時代に入って中将棋が流行しました。同時代の末になって今の81目盤の将棋が作り出されて江戸時代には、すでに盛んだったといわれています。

 江戸時代に入って幕府には将棋所が設けられ本因坊算沙と、大橋宗柱があったが、宗柱を初代として家元が代々、将軍家に奉仕したとあります。軍学を談ずる際に余興的に用いたといわれています。
天童の将棋駒
 江戸時代末になって来ると、いよいよ武士の生活が苦しくなってまいりましたが、名将織田信長の後えい織田信学(天童城藩主)の家臣とても諸藩同様救済策を考えねばならなかった。その頃の家老で桂太郎と友交があり、後に勤王の志士として知られた吉田大八先生が士族の生活を救わんが為、将棋駒製造の職に従わせました。

 「将棋は戦闘を練る競技であるから武士の面目を傷つけるような内職ではない」と奨励しました大八の家には、その使用法が明和時代より伝わって居りましたので、用人野呂武太夫と相談して下役の菅井大右ェ門や丸山清兵衛を監督として、将棋の製造を知っている米沢藩の大岡力次郎、河野道介を招いて始められた。

 これが天童駒の始まりといわれています。天童駒の特長は草書の字体であるが、スタンプ駒や、彫駒に押されて伝統の草書が影をひそめて行くのが残念である。
左馬の由来
 馬は右から乗るとつまづいてころぶという習性を持っており、元来左から乗るものなので、左馬は長い人生をつまづくことなく過ごすことができ、昔から福を招くめでたいもの、商売繁昌の守り駒となっている。

 天童独特の飾りや根付け駒として人気を呼んでいる。(めおと駒・夫婦円満の縁起駒)

●●馬の字が逆に書かれている事から、ウマの逆はマウ(舞う)であり、古来舞いはめでたい席で催されることから、縁起のよい招福の駒である。
●●
左馬の下の部分が財布のきんちゃくの形をしており、口がよく締まって、入った金が散逸しないことから、富のシンボルである。
●●普通馬は人に引かれるものであるが、逆に馬に人が引かれて入ってくるというので、客商売にとっては千客万来の招福駒である。
●●馬は元来左から乗るものであるということから、左馬は乗馬をシンボルするもので、これを持つものは競馬に強いという。
 
 見学時間が終わると、目と鼻の先の「滝の湯ホテル」までバスに乗り込んで玄関前に付された。貴重品、鞄などを持って中に入っていった。
 3週間前には、恒例の全国植樹祭が天皇皇后両陛下をお迎えして今年は、山形県で行われ、このホテルは、お泊りになられたという事でジュータンは張り替えられて真新しくなりフカフカの靴が沈み込む軟らかさでった。当旅行会別館なので左奥へと進みエレベーターで3階、4階へと上がって行った。一部は5階、6階へも上がって行った。スグサマ浴衣に着替えて浴室に向う者、部屋で横になって「のんびり」する者、様々だった。浴室は男性用大浴場「藍の湯」女性用大浴場「紅の湯」とも広々としていて大変好評だった。やや、小さめの露天風呂もあった。

 宴会場は大広間「花笠」で定刻、午後6時より始まり、小川会長挨拶、来賓の柳田稔日興信用金庫墨田支店店長の挨拶、平子会計の報告、川合副会長の発声で乾杯と順調に進み当ホテルの従業員による民謡や踊りがあって、第2部の会員有志の演芸が始まり、1番目に石井さんと斉藤さんの踊り、2番目に岡本さんと細野さんと残間さん、3番目に川合さん、4番目に旅行会としては個人的に是非とお願いした人気者の宮本さんによる「ドジョウすくい」と続き、たて続きに、踊りをやって頂くのには訳があって、舞台衣裳を用意されて来て、会場へ着込んで来られた方に早く皆さんと一緒の浴衣に着替えられて、リラックスして頂こうという配慮から毎年行われています。引き続き号車代表の方々のカラオケが2番までで、6人の自慢の歌声が響き渡り、30周年から続いているジャンケン大会と抽選会が全員参加で始まり、優勝小林(恵)さん、2位西澤さん、3位岩井さん、敗者勝利本多さんと決まり、38名の方々に舞台に並んだ好きな賞品を抽選番号順に、ご自分で持って行くという方法で行い盛会の内に、終え、最後の「すみだ音頭」を全員で2回踊り、最後まで1人として帰られる人もなしに大締めとなり、八木副会長の音頭で3本締めでお開き。

写真正面は別館
客室数・111室
定員数・550名
棟・3棟
(四季亭・本館・別館

四季亭は本館内)
コンベンションホール「舞鶴」
他5ヶ所
宴会場「花笠」他12ヶ所
駐車場 300台




天童温泉(滝の湯ホテル)
 山形県のほぼ中央遠く葉山・月山・朝日連峰を見渡す温泉郷。明治19年、鎌田原に掘り抜き井戸を掘ったところ微温水が湧き出たことから、掘削が進み、明治44年、高温の源泉が開湯しました。滝の湯ホテルの創業もこの年、天童温泉の歴史とともに、今日まで歩んできています。

■泉質
  弱アルカリ性硫酸塩温泉46度〜61度
■効能
  切り傷、胃腸病、リューマチ、神経痛、便秘等
■味わう喜びをまごころとともに
  自家製農園や契約農家で作る自然栽培の旬の野菜、山形牛をはじめとする地元の素材、  調味料も吟味して、食本来の姿を求めながら山形らしく、からだにも美味しいお料理を一   品、一品心をこめてお出ししております。
■湯の温もりに身をゆだねて
  心もからだも開放されて、あるがままの自分に返るひととき、とっぷりと湯舟にひたり、湧き  出る湯水と解け合う癒しのとき、大浴場・露天風呂・飲泉所・湯上り茶屋でごユックリ。

環境とリサイクル
 私たちは平成11年春より、遅ればせながら「人と環境に優しい宿造り」をテーマに掲げて、それまでの考え方を変えてゆくことに取り組んで参りました。

 まず、ホテルで使用している化学合成洗剤を全て石鹸洗剤に切り替えました。食器洗浄や館内清掃は、厨房で出た廃油を原料とした粉末石鹸と、EM菌、早くから環境に配慮した製品作りに取り組んでいるメーカーの石鹸洗剤を使用しております。大浴場などのシャンプー・リンス・ボディーソープも、合成界面活性剤等人体や環境に影響を及ぼすものが入っていない石鹸素材のものを置かせていただきました。

 次に、厨房で化学調味料を使わずに料理をお造りすることに取り組みました。これは比較的簡単なようにお感じになると思いますが、板前さんにとっては非常に重大な問題です。隠し味に化学調味料を使うことで味が整うことは皆さんもご存知かと思いますが、その味に慣れた私たちにとって化学調味料が入っていない料理は何となく物足りない気がします。その物足りなさを感じさせずにお料理を作り上げてゆく事に日夜奮闘しております。

 また、素材自体も、当ホテル社長の自家農園で採れた野菜を中心とした無農薬野菜を使用し、新鮮かつ安全な食材を使用しております。

 最後は、今検討中の「ゴミ問題」です。「生ゴミ」についてはリサイクル業者に委託し、有機肥料や飼料にしておりますが、その他の大量に出る「燃えるゴミ」や「燃えないゴミ」はなかなか減らすことができません。その中で、少しずつ改善されているのが割り箸です。毎日300〜500膳、年間にすると15万膳位になる使い捨ての割り箸を国際ソロプチミスト天童が全て回収し、リサイクル工場に送っております。(この活動は天童温泉全体で行っております)。
      
 また、燃えるゴミとして扱われるものは、ダイオキシンを発生させないものに切り替えて行きたいと考えております。例えばサランラップのような食品を包むものは非塩化ビニール系のものを使用し、魚や肉などを搬入するときに発泡スチロール材の器を持ち込まないよう取引業者との間で話し合いをしたりしております。

 このような取り組みはまだ始まったばかりです。お客様にご迷惑のかかることのございませんよう、最大限の注意をしているつもりでございますが、お気付きの点も多々あると存じます。ご忌憚のないご意見を頂戴できれば幸いでございます。

 という、取組を目にし全国の皆さんにも、せんえつながら旅する人も気楽にゴミをふててはいけないと、肝に命じ1人ひとりが物を大事に使い、家庭から出る空き缶、空き瓶の不燃ゴミや古紙など決められた通りに出して、リサイクルに協力しましょう。

 今朝は、6時半に起きて、まず風呂に出かけた。多勢が入浴しておりカラス行水で部屋に戻り缶ビールを飲んでのんびり寝転んでテレビのニュースや天気予報を見たり、梅雨空を眺めたり、天気予報では山形地方は雨は降らないという事で一安心して、朝食どころの多目的ホール(ぶちぬきのソレイユ・コスモス・カトレアとアザレア)へ向った。中はほぼ満席に近かったが1人ぐらいなら、何処でも腰掛けられた。お盆に皿を載せ生野菜、納豆、焼き海苔、いちょう切りのパイナップル、味噌汁、かゆを載せて席につき全部たいらげ、会長、会計と三人でご芳志して頂いた方々へのお返しの品をおみやげ処で選んで部屋に戻った。

 出発は、午前9時なのでたっぷり時間があり、ひと寝りしたくなり、ついウトウトしてしまった。時計を見ると8時半だったので、下のロビーへ行くと玄関前にはバスが横付になっていたのでカバンをバスの棚に乗せてきた。支払いはフロントで会計が全部終了したと報告があり、時間まで中庭を見て回ったり、ロビーでくつろぎ、支配人と別れの挨拶を交わしバスに乗り込んだ。

 バスは、女将や支配人、従業員がずらりと表の道路脇まで並んで見送りしてくれ、我々も名残惜しく手を振り左折して駅前大通を右折して国道13号線天童バイパスの下をくぐり左折して側道を走り国道48号仙山線を右折して、今回の目玉である「さくらんぼ狩り」の観光農園の仲野農園の売店に30分足らずで到着したが、更にバスは両側さくらんぼ畑の中を進み、駐車場で下り、さくらんぼ畑は5、6分歩いた所に、たわわになっていて枝が大きくしなっていた。最初は手当たり次第に頬張っていたが、監視員の、この木が「美味しいよ」に釣られて、そちらへドット移動して行った。幾つも脚立があるので上に登って食べている者、取ったさくらんぼを下にいる仲間に渡していたり、暫し童心に返って奇声を上げて大騒ぎしていたり、朝から本当に良く入るものだと感心した。朝の果物は何にも勝るともいわれているが、それにしても。

 30分間の制限時間が来なくても腹一杯になり、バスに戻って来る顔がみんな幸そうに見えた。全員揃った所で、売店まで戻っておみやげ用にと、箱詰めを幾つも買って重そうにバスのトランクに入れていた。予定より30分もタイムオーバーしてしまったが、満足そうな顔を見ると、添乗員と「これで良かった」となぜか納得しやっていた。

「天童」の由来

 いまから千数百年も昔のことです。春うららかなある日、舞鶴山(まいづるやま)の山頂で、行基(ぎょうぎ)という偉いお坊さんが念仏を唱えておりました。

 ちょうどお昼を過ぎたころのことです。突然、山の上に、紫色の雲がたなびき、笛や太鼓の音色が聞こえてきたのです。そして、その美しい音楽とともに、天から2人の童子が舞い降りてきました。1人は護衛(ごえい)童子、もう1人は摩竭(まかつ)童子といいました。2人の童子は、驚いて呆然としている行基にこういったのです。

 「われは、自在天(じざいてん)[=仏]の使者にして、貴僧はこの山の大士(たいし)[=菩薩(ぼさつ)]なり、よろしく一宇(いちう)[=お堂]を建立し、一切衆生(いっさいしゅじょう)を念仏すべし」


 そういい終わると、どこへともなく去ってしまいました。このことを聞いた村人たちは、急いで山に登り、童子の行方をさがしましたが、だれ1人として見つけることはできませんでした。
 その後、行基は、2人が降り立った霊峰を天童山と名付け、四方の里を天童と呼ぶようにしたのです。

 それからずっと後のこと、行基の弟子の基限(きげん)という人が、2人の童子、すなわち少名彦那命(すくなひこなのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)をまつった天童殿(天童神社)を建立しました。天童とは、2人の童子を組み合わせて書くようになったといい伝えられています。
 南北朝時代に北畠親房の孫に天童丸という舞楽の名手がいて、この地にあらわれ愛宕山に居住を構えたといいます。そこから天童の名前で呼ばれるようになりました。
                                         (参考資料:天童市勢要覧)
 天童市は山形県の県庁所在地・山形市まで車で20分、山形空港まで車で10分、宮城県仙台市まででも車で1時間の距離にあり、たいへん交通の便が良いところです。また、山形県内で最も雪が少ないところで、一番降ってもヒザぐらいまでしか積もりません。こういうことも影響してか、毎年1%の割合で人口が増えています。

 天童市ではたくさんの種類の果物が収穫され、レモンやオレンジなど、柑橘系の果物以外はなんでも穫れると言われています。6月上旬から7月中旬までは『小さな恋人』「サクランボ」、8月から9月にかけてはあま〜い「モモ」、9月から10月にはおいしいおいしい「ぶどう」、10月から11月にかけては西洋なしの一種『果物の女王』「ラ・フランス」、そして10月から12月には密たっぷりの「りんご」が収穫されます。

 天童市はラ・フランスの収穫量で「日本一!」となっていて、全国の90%以上の生産量を誇ります。
 天童市の花/「ツツジ」
 天童市の木/「モミジ」
 天童市の鳥/「ホオジロ」昭和51年5月1日に制定されました。
 天童市は「将棋の街」として有名です。天童市では、日本の将棋駒生産量のうち95%以上を生産しています。天童で将棋の駒が作られるようになったのは、江戸時代に財政難で困っていた家臣を救うためにアルバイトとして将棋の駒を作らせたのが始まりとされています。「天童将棋駒」は1996年(平成8年)4月8日に、通産省から「伝統的工芸品」に指定されました。

 また、天童市は「将棋駒といで湯のふる里」をキャッチフレーズにしてPR活動を行っています。天童の街には将棋に由来するものがたくさん散りばめられていますので、それを探しながら散策するのも良いかもしれません。さらに、車で10分ぐらいのところには旅人でも俳人でもあった「松尾芭蕉」で有名な「山寺」(立石寺(りっしゃくじ))があります。

 天童市はイタリアにある「マロスティカ市」と、ニュージーランドにある「マールボロウ市」の2つの都市と姉妹都市になっています。どちらの都市ととも、1989年(平成元年)に姉妹都市になりました。マロスティカ市では「人間チェス」が行われており、「人間将棋」を行っている天童市と交流が行われるようになりました。また、マールボロウ市とは農業技術の関連で交流があり、現在は中学校での英語の講師として毎年マールボロウ市から招待しています。

 天童市では1997年(平成12年)6月1日現在で
63,228人の人たちが生活しています。そのうち男の人は30,657人、女の人は32,571人です。天童市は山形県の県庁所在地・山形市まで車で20分、山形空港まで車で10分、宮城県仙台市まででも車で1時間の距離にあり、たいへん交通の便が良いところです。

 また、山形県内で最も雪が少ないところで、一番降ってもヒザぐらいまでしか積もりません。こういうことも影響してか、毎年1%の割合で人口が増えています。

 
温泉が効くもの
 
動脈硬化症、きりきず、やけど、慢性皮膚病、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化疾病、痔病、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進。

 
飲むと効果があるもの
 
慢性胆嚢症、胆石症、慢性便秘、肥満症、糖尿病、痛風

 
温泉に入ってはいけない方
 
急性疾病(特に熱のある場合)、活動性の結核、悪性腫瘍、おもい心臓病、呼吸不全、腎不全、出血性疾病、高度の貧血、そのほか一般に病勢進行中の疾患、妊娠中(特に初期と末期)

 
飲むのは控えたほうがいい方
 下痢、腎臓病、高血圧症、そのほか一般にむくみがある、甲状腺機能亢進症状

 バスは、来た道をそのまま下り返し、13号線を南下して左折して立石寺へと向った。30分も行くと左に山肌の岩が見え隠れした山寺の建物が幾つも見え始め橋を渡ると、道幅の狭い両側はおみやげを売る店がぎっしり並んでいたが、山麓亭の狭い駐車場にバスを駐車させ全員で、根本中堂へ登る階段を上って参拝したりして1時間30分の休憩時間を過ごす人や奥の院まで登り参拝し、見事に晴れ上がった梅雨空の眼下の町や緑鮮やかな山並みの景色を楽しんだり、カメラやビデオカメラに収めたり、一つ一つの建物の説明文を食い入るように読みながら歩いている人、立ち止まり手を合わせている人、700とも800段ともいわれる階段が志気交々だった。

立石寺(山寺)

 山寺とも呼ばれる立石寺
(りっしゃくじ)は、正式には宝珠山阿所川院立石寺といい、山形市の12kmほど東北部に位置する。第56代清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開山し、その年代については「円仁置文」、「円仁注進状」が貞観2年(860年)と伝えている。

 立石寺は、開山後すぐに三百八十町の寺領を免租地として下賜され、慶長・元和(1596
1624)の時代は二千四百二十石の寺領に及ぶなど朝廷の手厚い保護を受けて長期の歴史を刻み、徳川三代将軍家光の代に千四百二十石の御朱印地となって明治維新を迎えた。

 立石寺の歴史を支えた人物としては、戦乱期に衰退した立石寺に根本中堂を再建した山形初代城主斯波兼頼、天童頼長に破壊された諸堂を慶長年間
(1596〜1615年)に修築した立石寺第三十八世円海和尚、諸堂の修理再建に努めた五十三世寛雄和尚、私財千八百両余を投じて参道や諸堂を修改築した六十五世情田和尚などが挙げられている。

 天台の教学道場として開かれた立石寺は、古来、「奇岩怪石」の霊窟として広く知られるところで、凝灰岩の岩質やその肌を抉(えぐ)る多数の風化穴は、幽境の聖域に情趣に満ちた音響効果をもたらし、中谷に響きわたる蝉の音は、芭蕉をして「岩にしみ入(いる)」と言わしめた。筆者は、かの滑り台があった幼少の頃から幾度となく山寺を訪れているが、四季折々の寺景に溶け入り、蘚苔滑らかな石階千級を踏み締めての山寺巡りは格別なものである。それでは35万坪を有する山寺に向けて、早速、宝珠橋から歩きはじめてみよう。・・・・・・

根本中堂

 対面石のところから大日堂の前を通って登山口まで歩き、参道の石段を登り詰めると、正面に、貞観2年(860年)慈覚大師が創建した根本中堂がある。立石寺は一山の総称でその名の堂宇はなく、この根本中堂が立石寺の本堂であり中心道場となっている。堂内には大師自作の薬師如来のほか伝教大師や文珠毘沙門の諸像が安置されている。

 根本中堂は正平12年(1357年)出羽按察使斯波兼頼が再建し、慶長年間(1596〜1615年)に大修理が施された。明治41年(1908年)に特別保護建造物に指定され、現在は、国指定の重要文化財になっている。昭和38年(1963年)に再建以来600余年ぶりに解体修理が行われ、建立当時のものに復元された。

 根本中堂には、千年以上の昔から火を灯し続けている法燈がある。これは、天台宗宗祖伝教大師が中国の天台山国清寺から伝えたもので、慈覚大師は立石寺開山の際、比叡山からこの火を伝え、奥の院(如法堂)の常火、開山堂の常香、根本中堂の法燈の3つに分けた。

 しかし、大永元年(1521年)、天童頼長により一山が焼かれて絶えたことから、円海和尚が比叡山から改めて分火を受けた。その50年後の元亀2年(1571年)、織田信長によって比叡山が焼き払われたため、再興時には、逆に立石寺から延暦寺に分火されたという経緯もある。こうして「千年不滅」の法燈は、今もなお立石寺で火を灯し続けている。

特産品

 思い思いに時間を過ごしてバスは、発車して国道13号線へ戻り南下して山形自動車道の山形北インターから高速道路に入り、山形蔵王PA、山形蔵王IC、関沢IC、笹谷IC、古関PA、宮城川崎IC、村田JCT、蔵王PA、白石ICの間で、約1時間恒例のビンゴゲームで正午を過ぎるのも忘れて楽しみ、インター傍の(有)白石温麺(うーめん)茶屋で昼食、温麺なるものを知らなかった私には新鮮で興味深かった。気温はこの季節にしてはちょっと低めだったので温かいつゆの中に入れて食べたが、なかなかおつなものだった。

 食事を早々に終え、滝の湯ホテルで買って来たお返しの品をお一人お一人に仕訳して号車別に分け、尚且つ参加者にはお礼をのべてお渡しし、どうしても参加できなかった方々にはお預かりして来た方が、後日お伺いしてお届けするということで各自が責任を持って実行して頂くのでお預けした。

 白石ICから次の休憩場所は那須高原SAまで約1時間半も有るので寝ぼけ覚ましに、綾小路夢磨の「中高年のみなさんへ」という非常にうけのいい漫談テープを流したところ、高笑いや含み笑いが最後まで絶えずに続き、那須高原SAが近かったこと近かったこと。

 20分の休憩時間の間に予約してあったアイスクリームが届いており、帰って来た人に一つづつ渡し、暫し黙々と食べていたが、ここからはビデオテープを見ながらのお楽しみということで、三宅裕司ふんするサラリーマンが大阪へ転勤して大阪弁に悩みひょんな所から社運のかかった契約の成約がかなりめでたし、めでたしの物語だったが、題名が思い出せないビデオ映画見ながら途中で最後のトイレタイムとなり、羽生PAで20分の休憩をして再度ビデオ映画を見、映画が終わると首都高速中央環状線の荒川土手の上を走っていた。

 いよいよわが町に近くなってきたところで車両長が立ち上がり、お礼の挨拶を一通りした後で思い出したように幹事長の私にお願いしますというので、さて、重複してしまうなとおもったが、彼が触れてない事を織り交ぜなから締めくくり、到着予定時間の6時40分に無事帰還した。

 会員の皆さんをはじめ役員の皆さん、2日間に渡りご協力有難うございます。来年も素晴らしい旅行先を企画いたしますので、奮ってご参加をお願いいたします。

今年度新役員

会   長 小川 房男 会   計 平子   力 見学場所
高畠ワイン(株)、米沢織物観光センター、
(有)武内王将堂、仲野観光農園(さくらんぼ
狩り)、立石寺(山寺)、白石うーめん茶屋
幹 事 長 箭野   豊        斉藤くに子
副幹事長 岩井 義治        西澤 勝子