湯村温泉郷(山梨県・甲府)






源泉

 源泉は12箇所あります。その温度は平均40.8度です。つまり加水をせず、加温も殆ど必要がない
泉質の変化を最もさせずに使える温度ということになります。湧出量は1分間に966.3gですから、
大きなペットボトルでなんと536.8本分となります。1日では1,391,472g(ドラム缶6,957本分)
です。ちなみに有名な黒川温泉は源泉数31本で毎分2,480gですから、湯村温泉の温泉がいかに
豊富かお分かりいただけると思います。

 湯村の温泉成分はどこも比較的似ていますが、よく地盤が3層からなっているといわれます。大きく
分けて100m位まで、200
M位まで、400m位までのところから温泉が湧出していますが、その深度に
よって3つの成分に分けられています。

@ナトリウム・カルシウム−塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
Aナトリウム・カルシウム−塩化物・硫酸塩泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
Bナトリウム−塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
C
etc・・・

PH値平均  8.24

 
PH値7.0が中性とされPH値8.24はアルカリ性泉質とされています。アルカリ性泉は物質が沈殿し
やすいために溶存物質総量が少なくなる傾向にあり。したがって、身体に対する刺激が強くなく、その
多くは無色澄明、無味無臭で、お湯がやわらかくて入り心地のよい温泉と感じられます。アルカリ性が
強いと、その作用によって肌がすべすべになり、湯冷めがしにくいと言われています。

◎伝導率平均 2862.1[μ
s/cm

 古くは弘法大師(空海)の開湯伝説や武田信玄の隠し湯などの伝説があります。明治から昭和初期
には3つの外湯があり、その後旅館が出来始めたころはその外湯から温泉を引いていたそうです。

 全国的に温泉掘削の気運が高まり湯村でも当時12本の源泉が掘削されたそうです。

 専門家によれば、湯村温泉は常時水分が補給されており現在の温泉使用量はその1/100程度を
使用している程度だということです。




常盤ホテル

温泉利用許可 源泉温度 湧出量(毎分) PH 泉質名
41.4℃ 124.0L 8.4 ナトリウム・カルシウム−塩化物・硫酸塩泉


ロビーを入ると真正面に緑したたる庭が広がる。湯村も周りは家が建ってしまった市街地に変ったが、ここだけは昔変わらぬ別天地である。

 庭のふぜいを賞でながら渡り廊下を進んでいくと、銘木をあしらった離れ家が点在する。平屋建ての木調豊かな造りの中で味わう安らぎは、まさに甲府の迎賓館に招じられたようなうれしさである。

 皇室御用達の由緒ある立派な旅館です。通常は入浴のみは不可(食事付きプランは可)と聞いています。
館内に入ると、それはもう立派すぎるほど立派です。奇をてらった華美な装飾はないですが、落ち着いた雰囲気はさすがです。
浴室は二階にあり、ドアを開けると、少々の塩素臭がしました。高い天井の広い浴室には、泳ぎたくなるほどの大きな長方形の湯舟が一つ。小振りの露天風呂もある。きれいな透明なお湯が注がれていまる。

 湯口から供給される湯量は少ないですが、一応掛け流しになっているようだ。加熱するための循環はされているようです。湯口では弱い硫黄臭がしますが、徐々に慣れて鉱物のような匂いを感じるようになった。口に含むと、塩気のある微妙な硫黄味に加え、収斂味と言うのか、舌が引き締まるような感じがしました。肌触りが優しく、誰でも安心して入れるお湯です。

 屋根掛けの露天風呂もお湯は同じです。内湯と比べると匂いが少しはっきりしているように思いますが、湯口の檜の匂いもします。女湯からは南アルプスの山々が見えました。

 すぐそこは住宅街なのに、こんな立派な旅館の温泉に入っているなんて、とても不思議な気分です。リッチな気分を味わうのには最適な温泉でしょう。女性用露天は内湯に続く、バルコニーに据えつけられた太い木枠の湯船。お庭なんぞ見下ろしながら、ゆったりとし男性用露天は岩風呂だった。





甲府城

 甲府築城の歴史は、武田家滅亡翌年の天正11年(1583年)に始まる。徳川家康は,前年8月、北条氏政・氏直父子との甲斐争奪戦に大勝し、甲斐は徳川家の所領となった。
 家康は、躑躅ヶ崎に仮御殿を建て、ここに逗留しながら、しばしば甲斐を視察した。武田遺臣の登用を図るとともに、平岩親吉に、甲斐統治のための城の建設を命じ、築城地を甲府の一条小山と決めた。ここは、12世紀に甲斐源氏一条忠頼が居館を定めた地である。後ろに要害山、愛宕山を背負い、西に釜無川、荒川、東に笛吹川を控え、南に広がる甲府盆地を一望できる天険の要衝である。

 加藤光泰は、一蓮寺や門前町を城南の替え地に移転させ、築城に着手したが、まもなく豊臣秀吉に朝鮮出兵を命じられ、文禄2年(1593年)病没した(光泰の墓は甲府・善光寺にある)。

 浅野長政、幸長父子は文録3年4月、甲斐に入府するとともに、城代浅野長吉に命じて、直ちに甲府城築城を続行し、城郭を完成させた。浅野長政、幸長父子は、慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原の役では甲斐の軍勢を率いて東軍(徳川方)につき、家康の先鋒として岐阜城を攻め落とす戦果をあげた。

 その後、宝永元年(1704)、先祖が甲斐出身の柳沢吉保が甲府城主となった。豊臣時代の築城からほぼ100年後であるが、柳沢吉保は、大名居城にふさわしく城の大改修と城下町整備を行なった。屋形曲輪や楽屋曲輪には、豪華な殿舎を構築し、その偉容を誇ったと伝えられている。本丸が高く立ち上がり、「鶴が舞立つように美しいから舞鶴城」と市中に称せられるようになったのは、このころのことだと言われる。

 また、3000人の家臣が城下町に住んだので、甲府の町は空前ににぎわいを呈し、吉保・吉里の奨励によって文化も興隆した。享保9年(1724年)、甲府藩主である柳沢氏が大和郡山に転封されたあと、甲斐は幕府直轄地となり、甲府城に再び城主が置かれることはなかった。享保12年(1727)の大火により本丸御殿をはじめ、多くの建物が焼失したにもかかわらず、一部の修理が行われただけであった。

 明治以降の甲府城は、徳川幕府の権力支配の象徴だったことも災いしてか、重なる文明開化の開発により、破壊の手が加えられていった。一方、県民の間では、甲府城の廃城に異議を唱える動きはなかった。このため、保存されるはずだった内城も清水曲輪、花畑に中央線甲府停車場が建設され、時代とともに内堀は埋め立てられ、楽屋曲輪には甲府中学校、県庁や県議会議事堂が建設され、城の姿は失われていった。

 現在は、内城のうち天守台、本丸、天守曲輪、稲荷曲輪、鍛冶曲輪、二の丸の石垣と南側の堀だけが残されている。また、かつて城下町であったことを示す「一番町」「二番町」「追手町」「桜小路」等々中心街の古い町名も行政の権限によって廃止され、城下町のたたづまいは、ほぼ消滅するに至っている。

 江戸時代以降、現在にいたる400年間で、甲府城が甲府庶民とともに華やぎ、讃えられ、城の威容を誇ったのは、柳沢氏治世のわずか20年間だけであった。






昇仙峡

 名勝・御岳昇仙峡が世に出たのは、江戸末期天宝年間の御岳新道の開削がきっかけであった。その開削を行った者が、農民・長田円右衛門(1795年〜1856年)であった。

昇仙峡は、金峰山に発する荒川(あばれ川からその名がつく)が、花崗岩を削ってできた深い渓谷である。

 当時昇仙峡一帯の村落は、典型的な山村であり、水田はなく、山の傾斜地に開かれた畑に雑穀をつくっていた。名物・御岳そばは、そばしかできない土地柄から生まれたものである。

 新道は、難工事もあり、また天保の飢饉にもみまわれ、中断に追い込まれたりした。沿道諸村だけでなく、広く荒川筋の山林に入会地を持つ30カ村にも呼びかけ、寄付金を募ったりして、ようやく9年の歳月をかけて、天保14年1843年に開通した。

 馬車の発着所で車の行き止まりになる能泉から、少し歩いた先だ。いまでも休憩所があり、左の円右衛門の碑が建っている。

 いまでも、その道を私たちは、生活道路ではなく、観光として通る。歩きながら、渓流から見上げる、奇岩や石門に圧倒される。渓谷は、自然がつくったものだが、それを間近くに見ることができる道路は円右衛門をはじめ先人たちがつくったものだ。

 自然と人間の合作、それが昇仙峡である。