忍野八海
霊峰富士の胎内より湧き出でる八つの泉は、昔から「神の泉」と崇められ、いくつもの「伝説」が語り継がれています。
忍野八海は八つの湧水池から成っています。その昔、忍野村は「宇津湖」という湖だったそうですが、延暦に富士山が大噴火し、そのとき流れた溶岩流によって、湖は山中湖と忍野湖に分かれてしまいました。忍野湖は富士五湖と関連する一つでしたが、川の浸食や掘削排水のため枯れてしまいました。忍野八海は、その時残った富士山の伏流水の湧出口の池として、今日存在しています。
富士山に降り積もる雪解け水が、地下の不透水槽という溶岩の間で、約80年の歳月をかけてろ過された澄みきった水。美しく神秘的であり、移り変わる四季に彩られた富士を水面に映し込んだ姿は、訪れた人々に、水本来の姿と護るべき美しさをそっと訴えているようにも感じられます。
水質・水量・保全状況・景観の良さから、昭和60年に、全国名水百選に選定されています。また、新富岳百景選定地でもあり、国の天然記念物にも指定されています。
@出口池(面積1467.7u)
この池の湧水は、富士山の雪がとけて地下にしみ通って、ほこりっぽいこの世とはかかわりなく湧き出す水なので「清浄な霊水」と呼ばれ、富士登山をする行者や道者たちはこの水でけがれを祓い、登山した。また、この水を携えることにより無事登山することができると昔からの言い伝えがあり、堅く信じられてきた。このようなことから、この池を別名精進池ともいった。
石碑には「あめつちの ひらける時に うこきなき おやまのみつの 出口たうとき」との和歌が刻まれ、八海めぐり第1の霊場として難蛇竜王がまつられている。
Aお釜池(面積24u)
むかし、この池のほとりにあった家に、年老いた父親と2人の美しい娘が住んでいた。
父親は百姓をし、娘たちは裁縫や洗濯をしていた。ある日、妹娘が洗濯をしていたところへ、突然大蟇(ひきがえる)が1匹あらわれて、その娘を強引に水中に引き込んでしまった。
それを知った姉娘は、泣き叫んで近所の人たちの助けを求める一方、畑仕事に出ていた父親を呼んで、妹娘の救出をはかったが、いつまでたっても娘はかえらず、いくら探してもその遺体は浮かんでこなかった。
それ以来、父親と姉娘は命ある限り、お釜池のほとりにある家にとどまって、不幸な妹娘のめい福を祈り続けたという。
八海めぐり第2番目の霊場として、祓難蛇竜王(ばつなんだりゅうおう)をまつり、今はない石碑には「ふじの根のふもとの原にわきいづる 水は此の世のおかまなりけり」との和歌が刻まれていたといわれる。
B底抜池(面積208u)
この池は器物や野菜を洗うとき、あやまって手を離すと、渦に巻き込まれて行方不明となり、いくらさがしても見つからないといわれ、失われた物は池の底の穴をくぐってお釜池に浮かび上がってくるといわれている。
以来、このようなことがたびたびあったため、村の人たちはこの池で物を洗うことを神様が嫌っているのだということが広まり、村人は恐れていると伝えられている。
八海めぐり第3の霊場として、紗迦羅竜王(しゃからりゅうおう)をまつり、池畔の石碑には「くむからに つみはきへなん 御仏の ちかひぞふかし そこぬけの池」との和歌が刻まれている。
C銚子池(面積79u)
むかし、ある家の花嫁が厳粛な結婚式の最中おならをした。その音がすごく大きかったので、つつみかくすことができず、年若い初心な花嫁はこれを深く恥じて、結婚式の席にいたたまれず、すきを見て席をぬけ出し、銚子を抱いてこの池に身を投げた。
その後、花嫁の履いていた草履が池の水面に浮かんできた。そしてときおり美しい女の姿が、生きているように池の底に映って見えることもあったといわれている。
この悲しい伝説がもととなり、今日では縁結びの池として伝えられている。
第4番の霊場として池畔に和脩吉竜王(わしゅきちりゅうおう)をまつり、石碑には「くめばこそ銚子の池もさはぐらん もとより水に波のある川」との和歌が刻まれている。
D湧池(面積152u)
むかし、富士山が噴火したとき、人々は焼け付くような熱のため大変苦しんだ。そしてのどの渇きや人家の火事、また野火を消すためにと、人々が水を求めて叫ぶ声が天地の間に広がった。
このとき、天の一方に大変美しい声で、「わたしを信じなさい。そして、永久にわたしをうやまうならば、私がみんなに水をあたえよう」といわれた。
この声の主は「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」で、その後まもなく溶岩の間から水が湧き出し池となった。人々はこの池を「湧池」と呼んで、これを飲料水や水田に用いて今日に至っている。
また毎年木花開耶姫命の祭りを行い、神輿をこの池の水で洗い浄めるのが恒例となっている。
八海めぐり第5番の霊場として八大竜王の一神、徳叉迦竜王(とくしゃかりゅうおう)をまつり、石碑には「いまもなほ わく池水に 守神の すへの世うけて かはれるぞしる」との和歌が刻まれている。
E 濁池(面積36u)
もとは澄んだ水をたたえ、飲料水となっていたが、ある日、乞食のようなみすぼらしい行者がきて、池の地主の軒先に立って一杯の水を求めたとき、その家の老婆が無愛想に断ったので、この池は急に濁ってしまったといわれている。またこの濁り水を器に汲み取れば澄んだ水に変わるという。
八海めぐり第6番の霊場として、阿那婆達多竜王(あなばたつだりゅうおう)をまつり、今は池に埋もれて無いが、石碑には「ひれならす龍の都のありさまを くみてしれとやにごる池水」との和歌が刻まれていたといわれる。
F鏡池(面積144u)
池の水は濁った水だが、逆さ富士の姿がはっきり映るのでこの名がつけられた。また、この池の水はすべての事の善悪を見分けるといわれ、部落内になにかもめ事が起きて、事のおさまりをはかろうとするときは、争っている双方が池の水を浴び、身を清めて祈願した。
八海めぐり第7番の霊場で、麻那斯竜王(まなしりりゅうおう)をまつり、今は無い石碑には「そこすみて のどけき池は これぞこの しろたへの雪の しづくなるらん」との和歌が刻まれていたといわれる。
G菖蒲池 (面積281u)
むかしこの池の近くに仲の良い若夫婦が住んでいた。ところが、不幸にも夫が肺病にかかり、妻はできるだけの力を尽くして食事や医薬の世話をしてやったが、夫の病は重くなるばかりであった。妻はもう神仏に助けを求める以外にないと考え、この池の水を浴びて身を清め、一心不乱に祈願した。すると、ちょうど37日目に「池の菖蒲をとって夫の身に巻けば、夫を苦しめている病魔は必ず退散する」という神のお告げがあった。
妻はお告げのとおりにしてやると、重病だった夫の病も日増しに熱が下がり、食べ物もたべられるようになって、起きて出歩くようになり、1ヶ月たたないうちに全快したといわれている。
毎年旧正月14日には筒粥の神事をこの池で行い、年内五穀の豊凶を占ったともいわれている。
八海めぐり第8番の霊場で、優鉢羅竜王(うはらりゅうおう)をまつり、石碑には「あやめ草名におふ池はくもりなき さつきの鏡みるここちなり」との和歌が刻まれている。
忍野村
忍野村は、首都・東京より100km圏内に位置し、富士箱根伊豆国立公園に指定されている富士五湖地域の東部、また山梨県内では南東部富士北麓に位置し、南に山中湖村、北東に都留市、北西に富士吉田市と接しています。
南西に富士山(3,776m)、東に石割山(1,413m)、北に杓子山(1,598m)、南に大平山の山岳に囲まれ、西は雄大な富士山麓の裾野が広がる富士北麓では随一の高原的要素を持った盆地です。
集落は、盆地地形帯の東に内野、西に忍草、溶岩台地上の梨ヶ原に発達しています。
広域交通環境としては、自動車によるアクセスには特に恵まれ、南側に東名高速道路、北側に中央自動車道が通過しており、東富士五湖道路を利用してアクセスが可能となった。
明治以前は水稲栽培もできず、人々はアワやヒエなどの雑穀栽培で生活してきました。女たちは養蚕と機織り、男たちは馬の背中に荷物を積んで運ぶ「駄馬賃稼ぎ」という仕事に収入の途を求めました。明治以降は屋根職人として近県へ出かける人が増えたそうです。
北緯 35°27′ | 人口 8,632人 |
東経 138°51′ | 内(男) 4,563人 |
面積 25.15ku | 内(女) 4,069人 |
標高 936m | 世帯数 2,961世帯 |
平成17年4月30日現在
忍野八海祭り
村人たちが燃える熱い一日。忍野にはそんな新旧さまざまの祭りがあります。毎年8月8日に盛大に行われるのが「八海祭り」。これは村の平和と繁栄を祈念して忍野八海の守護神「八大竜王」を祀る全村的なスケールの夏祭りです。祭りとしての歴史はまだ二十余年ですが、小学校の校庭を会場にした「盆踊り大会」や、夜空を赤く染める「八文字焼」には、村外から多くの観衆が集まります。
なかでも、全悪霊を追い払い、全ての動植物の新しい芽吹きを呼び寄せ、村民の幸せと村の平和・繁栄を祈念して、高座山の群生する茅に火を放つ「八文字焼」は圧巻。八の字を描く炎に向けて、観衆からは拍手と歓声が沸き上がり静寂な高原の夜に響きわたります。
また、村に古くから伝わる代表的な祭りとしては、内野浅間神社の例祭(4月第2日曜日)と、忍草浅間神社の例祭(5月3日)、忍草諏訪神社の例祭(9月20日)がそれぞれ執り行われます。例祭にはそれぞれの地区で神輿が繰り出し、獅子舞神楽などの伝統芸能が奉納されます。さらに、八幡宮や天狗社においても秋の例祭には神楽や相撲が奉納されます。大きな祭りの興奮に包まれるのも祭りの醍醐味。されど、小さな村祭りの風情もまた味わい深いものです。