武田神社


住所:甲府市古府中町2611
創建:大正8年
祭神:武田晴信(信玄)公
本殿:流平入。南向。
千木:
神紋:武田菱。
場所:JR甲府駅北2.2km
信玄は信光からかぞえ15代目にあたる。
武田信虎、信玄、勝頼の武田氏3代、63年間の居城であった。

 武田信玄は「人は石垣、人は城」という有名な言葉のとおり、甲斐国内に城は築かなかった。だが、この武田神社境内には、塁はあり堀はありで、まるで城跡である。わずかな堀と石垣だけをを残す「つつじが崎館跡」だけがいまに残り、国の史跡に指定されている。

 武田神社の境内は広く、正面から入っていくとすぐに神社があり、右手には宝物殿、左手には明治時代の学校で甲府市街では全く見かけないハイカラな洋館の藤村(ふじむら)記念館がある。

 信玄の命日にあたる4月12日には例祭がおこなわれる4q離れた遊亀公園まで神輿が巡幸し、武田24将の騎馬武者が従うという盛大な祭りが行われる。






祭神・武田信玄

 武田信虎の嫡男で、天文10年(1541年)父を駿河に追放し家督を相続する。信玄は風林火山の旗を掲げ、武田騎馬軍団を率い、勢力を拡大。信濃を巡って川中島で上杉謙信(長尾影虎)と5回も戦い、信玄と謙信の一騎打ちもあったというが、決着はつかなかった。

 政治家としても優れた手腕を発揮しています。特筆されるのは釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にした点です。信玄が領民に慕われ、現在も郷土を代表する英雄として人気を集めているのは、民政に力を入れていたからではないでしょうか。

 永禄11年(1570年)には徳川家康と同盟を組み駿河の今川氏真を攻め滅ぼす。
 元亀3年(1572年)12月、信玄を恐れた家康、信長は同盟を破棄、三方原で戦いを交え、信玄は家康、信長の連合軍を破ったが、信玄はその生涯において70余度の合戦に臨んでますが、負けることはほとんど無く、稀代の戦上手である徳川家康を相手に、唯一にして最大の敗北を味あわせたのは他ならぬ信玄です。翌年病に倒れ、信州の駒場城で53歳の生涯を閉じました。

 信玄の時代には商・職人集団の編成と甲府への居住が進められ、城下町は南方に大きく拡大して、駿府や小田原と並ぶ東国有数の都市に発展しました。寺院の数も50ヵ寺を越えていますが、善光寺などは城下町での用地確保が困難となったためか、山を隔てた板垣郷に創建されています。

 その後の家督は四男の勝頼が相続。天正3年(1575年)信玄の遺志を継ぎ、西上の兵を起こすが、三河の長篠で家康、信長連合軍の銃の連射を浴び、武田家は滅亡してしまう。

 その昔、武田家がつつじが崎に居住するまでは、武田家は300年以上にわたり、石和に居を構えていました。江戸時代以降には、甲州街道の宿場町として重要な役割を果たしてきました。

 信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と詠み、城や石垣はいっさい持たず、石垣や城よりも領民を信頼していたという。天文16年に「甲州法度」を制定し、交通制度の整備や城下町の建設なども積極的に行っていた。また、文学的な才能もあり、文武両道を備えた名将であった。

 信玄の学問の知識は豊富で、四書五経、和歌、漢詩に通じ、絵画、書道にも長けていたが、弟の信廉(逍遥軒)は武将であるとともに、殊に絵画の才を持った人物でもある。

妻妾

三条夫人(正室)

 内大臣三条公頼の娘、姉は細川春元の妻、妹は本願寺顕如の妻。義信と竜芳の母。
息子の義信が父信玄に叛き幽閉され自害したことにより狂乱する。諏訪夫人の子勝頼が嫡子として成長していくのを恨みながら衰弱して死んでいった。非常に気位が高く信玄自身も疎んじていた様に伝わっている。

諏訪夫人(側室)

 諏訪頼重の娘。私は信玄の姉は頼重に嫁いでいるので諏訪夫人は信玄の姪にあたるのではないかとずっと思っていた。だが、信玄の姉が側室であったことと、諏訪夫人は頼重の正室のつれ子らしい事から信玄と諏訪夫人は血のつながりが無い事が分かり少しほっとした。
となると諏訪頼重は諏訪夫人の実の父でないという事で悲劇性も少し薄れてくのだが・・・。そして信玄の後を継いだ武田勝頼には諏訪の血が流れていると信じていたが、それも怪しくなってきた。
それでも勝頼を産んで若くして亡くなった諏訪夫人の悲しい物語は殺伐とした戦国絵巻の中に咲く一輪の花として輝いている。それにつけても、新田次郎が名づけた湖衣姫という名は美しい。


武田軍団名将
武田典厩信繁 (たけだてんきゅうのぶしげ)信玄の実の弟
板垣駿河守信方 信玄の政治の師といわれ、信玄の知恵袋
甘利備前守虎泰 信玄の合戦の師。、「甘利出撃と聞けば敵は戦わずして逃げる」
飯富兵部虎昌 いでたちを朱一色に染めた精鋭部隊「赤揃え」の大将
馬場美濃守信春 武田四名臣の一人、武田家老衆の筆頭で、軍事・政治補佐
山県三郎右兵衛昌景 武田四名臣の一人。兄・虎昌、高い知性を兼備え、信玄の片腕として活躍
内藤修理亮昌豊 武田四名臣の一人。軍議にあっては数々の提言「真の副将」
高坂弾正忠昌信 武田四名臣の一人。信玄の小姓で海津城の城主
原美濃守虎胤 武田軍団随一の武勇の持ち主、武田家二代に武功を上げ、「鬼美濃」
真田弾正忠幸隆 信濃の一豪族で、名将・真田昌幸の父であり、幸村の祖父。
山本勘助晴幸 武田軍の軍師として名高い有名人、架空の人物説・忍者説・足軽大将説など、
非常に謎の多い人物。
 武田軍団も、信玄亡き後は分裂し、時代の流れを読みきれなかった次代の勝頼は家臣の反対も聞かずに長篠の合戦に臨み、信長の鉄砲隊の前に歴代の名将たちは散った。


武田菱紋の由来


 「見聞諸家紋」に新羅三郎義光流れをくむ武田氏は諸氏に先立って、初めて家紋を菱紋にしたと記されている。その経緯は永承五年(1050)前九年の役のとき、奥州平定の祈願の折に神託のよって鎧を賜ったが、その鎧の袖に花菱の紋章があったのでそれ以後これを家紋としているとある。


風林火山

疾如風 徐如林 侵略如火 不動如山
 はやきこと風のごとし
 しずかなること林のごとし

 
おかすこと火のごとし
 うごかざること山のごとし


 特別に宗派を限定した向きはないが、信玄は生涯神仏をよく保護し、神道の中では、源氏一門が崇拝する八幡信仰、今一つは武門の守護神、諏訪信仰であり、有名な孫子の旗「風林火山」とともに、「南無諏訪南宮法性上下大明神」を軍旗とした。

旗印

 信玄は孫子の兵法を学びその「軍争篇」から風林火山の句を借りて旗印とした。これは川中島の野戦の頃から使われているらしい。


孫子


 春秋時代末期(
B.C480年頃)、呉国の孫武(そんぶ)が書いたと言われる兵法書。例えば「謀攻篇」の「彼を知り己を知れば百戦危うからず。彼を知らずして己を知れば一勝一敗。彼を知らず己を知らざれば戦うごとに必ず危うし」「戦わずして勝つ」等のように現代にも確実に生きている哲学が多数含まれている。
「孫子」は遣唐使の
吉備真備(693〜775)が日本に伝えたとされるが、それ以前に百済の渡来人によってすでに伝わっていたらしい。