平家の由来
栄枯盛衰は世のならい・・・・・・・・・・・・・・・・。
平家と源氏とは、ともに武を以って朝廷に仕えていたが、いわゆる両雄並び立たず、いつのまにか相互敵対の関係になった。保元の乱(1156年)についで平治の乱(1159年)に源氏は勢力が亡びてしまった。平治より治承(1177年)に至る20年は平家全盛の時代で「平氏にあらざる物は人にあらず」とまでいわれた。
その後、治承より寿永4年(1185年)まで6年間平家はほとんど連戦連敗完全にほろびていったのは実に驚くべき転変で世の人々の深く胸を打たれたところである。
治承4年(1177年)平家は、源頼朝に富士川に散走し翌年北陸道に向い木曽義仲にとなみ山(山口県)に大敗し寿永2年(1183年)都を落ち西海に逃れ翌年源義経に一の谷の戦いに敗れ、なほも四国に去り1年たって屋島の戦いにまたもや敗れて長門(山口県)にのがれ壇ノ浦に終結する。
壇ノ浦は(下関海峡の東出口、北岸一帯をいう)その狭い海峡にて平家は500余そう舟を揃え、源氏(義経)は800余そうを以って対し最後の決戦を試みようとした。かねて義経は、熊野、四国の水軍に潮の流れについても的確な知識を得た。寿永4年(1185年)春まだ浅き3月夜明けを期して両氏攻撃は始まった。
その時、経盛、教盛、知盛、資盛、有盛、行盛らみな身を投じて自決した武勇の点では平家もさすがに最後は潔かった。(今も平家一門の墓所がある)たゞ宗盛と、その清宗は鎌倉へ護送された。
時に小松内府平重盛公の妹の妙雲禅尼は、寿永3年(1184年)滅亡の期近きを察し、平家一門の西海に没藩の際重盛公の夫人と共に念寺の釈迦像(本像は釈迦尼仏にして壱千両を祠堂金として中国宗の経山寺に奉納し先祖の冥福を祈ると共に災害救済の資に賜った。時に、皇帝孝宗は深く感激し勅して釈迦像を重盛公に賜れた本尊であります。を奉じて関東にのがれ宇都宮城を頼りました。而し、城主朝綱は源氏の探索を恐れ、世を忍び妙雲禅尼一行を藤原山中、最高峰鶏頂山に身を逃し敵をさけて一時そこに草庵を結び釈迦像を安置しました。(今の釈迦ヶ岳の山名はこれに因みます)折から一族の者婦が男子を出生、皆々不遇の内にも祥事と喜び、時も端午の節句に当り赤幡の残る布々を合わせて鯉に仕立て5月の空に祝える折から、平家の残党を探す源氏方の目にふれ、幟り立つあたりを目指し、追討の勢を向け襲われ、妙雲禅尼一行は野党を率いて隠れ家を去り一門は塩原温泉(妙雲寺)に、また、鬼怒の上流川俣温泉(平家塚)に、また、一族は溪伝いに峡深き出湯のほとり湯西川温泉に至り御殿山の頂上に遁れ(今の臼の平)たのであります。
現在でも湯西川都落ちでは、節句には故事を偲び先祖の悲運を追憶して鯉幟を立てないのであります。そして、一族は用水も谷底の滝のほとりまで汲みに出られ山上に於いて猟を生計に暮れ居たのであります。その滝を平家権現の滝と呼ばれております。下流に平家鏡岩、上流に湯殿山神社、高房大明神、奥の院に平忠実公の墓所平家塚があります。
平忠実公は(正平6年=1346年)その頃、ある日山を下り川岸を廻られる折り、そこに湯の涌き出るところならば子孫誰かは掘り起こすこと必定なりと、愛用の藤鞍、物の具、金の延棒など埋め、その後も湧湯の事を洩らさず一族と共に深山の隠生活に甘んじ続けたのでありました。
世が平家追討の事まだあると思い「平」の姓を名乗り居るは身辺の危うきを知り、平らの人呼ばれる「」の字を改め平の一辺を下におき「伴」と改名されたのであります。この後、幾星霜一族は溪に下り猟や農を営み山菜を採り川魚を捕まえて、それ等を生計の糧として、湯西川川辺に一つの村が築かれたのであります。
越えて、天正元年(1570年)第11代伴対馬守の代に至ったある日、雪の積もらぬ個所を川辺に見て見やれば川底より湯が 渾々と涌き出ているのを発見したのであります。対馬守は人々を誘って鍬を入れ、岩を切る居る内に傍より次々と、数多くの宝物を発見したのであります。
その後、川岸に多量の源泉が発見され、また、掘索され、湯の守り神「湯殿山」神社大祭典も毎年8月18日と定まり御神輿の渡し獅子舞など盛大に行われ今日の発展を見るに至ったのであります。