湯西川温泉伴久ホテル






平家伴久ホテルの由来

 栄枯盛衰は世のならい・・・・・・・・・。寿永4年(1185年)壇ノ浦に敗れし平家の将、平重盛公の子孫平忠房と忠実は瀬戸内海より2艘の舟に婦女子あわせて5、60名は、海路関東の宇都宮の領主朝綱を頼りました。世を忍ぶ平家の落人一行は源氏の追討を恐れ鶏頂山に身を逃れ敵をさけて一時草庵を結びました。

 折から一族の者の婦が男子を出生し皆々不遇の内にも祥事と喜び時、端午の節句に当り赤幡の残る布々を合わせて鯉に仕立てて五月の空に祝える折から平家の残党を探す源氏方の目にふれ襲われ散り々々になりながらも山をおり一族は川伝いに、この地、湯西川に身を隠したのであります。

 現在でも節句に故事を忍び先祖の悲運を追憶して鯉幟を立てないのであります。世が平家追討のことまだあるを思い「平」の姓を名乗り居るは身辺の危機を知り平の人と呼ばれる「」の字を改め平の一辺を下におき「伴」と改名されたのであります。

 伴久ホテルは当代で25代を数える。






平家の由来