佐野厄除大師
大師は俗姓を木津氏といって12歳の時、比叡山に登り出家し、法名を良源(りょうげん)と称した。966年(康保3年)18代天台座主となり叡山中興の祖とあがめられた。995(永観3年)年世寿74歳で遷化(せんげ)され、慈恵大師と申し上げる。
大師は生前より密教の行法を深く修め、多くの神秘奇跡の多かったところから、俗間の信仰をあつめている。
当山安置の大師像は大師の42歳のとき、比叡山解脱谷(げだつだに)においてこの世の人々の厄難苦悩をあわれみ、能化世間苦(のうくせけんく)の秘法を感得したまい、大師は如意輪観世音(にょいりんかんぜおん)のご化身といわれている。
朱雀(すじゃく)天皇の944年(天慶7年年3月、奈良の僧宥尊(ゆうそん)上人が開いた寺で、最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相宗に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺(かすがおかやまてんぼうりんいんそうしゅうかんじ)という。
藤原秀郷公が平将門降伏の誓願により、佐野の春日岡(現在の城山公園)の地に、春日明神の社殿とともにお寺を建て朱雀天皇に申し上げたところ、天皇は大変喜ばれ「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったといわれている。
それ以来、藤原一門の信仰あつく栄えたが、平安時代の末期の保元・平治のころには衰えた。
その後比叡山の僧で俊海という人が、父の藤原光憲から「春日岡は、わが祖父である秀郷公の創立した氏寺である。昔、保元・平治の乱に殿堂が焼けて灰になったが、父の志を継ぎ修行の後にこの山を復興せよ。」このことを深く心にとどめ、この寺の荒れ果てたことを憂い、正応年間(鎌倉時代)に信徒を集めて、藤原一族および北条一門の有志とはかり、鎌倉幕府九代執権北条貞時をさとして、1297年(永仁5年)年8月に復興完成し、これ以後「法華経」を所依の経典とし、伝教大師を宗祖と仰ぐ天台宗となる。
その後12世の僧豪海のときに1602年(慶長7年)年、秀郷公から30代の佐野信吉公が、幕命により唐沢城をこの春日岡(城山公園)に移すにあたり、寺は現在地に移転した。
金銅大梵鐘(きんづくりだいぼんしょう)
厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された金銅大梵鐘は人間国宝香取正彦先生によって謹製され、日本一大きな梵鐘(つりがね)で、直径1.15メートル、重量約2トン、黒塗りの切妻造りの鐘楼におさめられている。
鐘身の片面中央(池の間に円相をつくり、中に一切衆生の願望を満たし苦しみを救ってくれる、蓮台上座り如意輪観世音菩薩厄除大師の御本地) 立ちひざをして頬杖をつき、一つの手に如意宝珠、またの手に法輪をもって人々にやさしく
語りかけている。
片面には同じく円相内には如意輪観音の種字(子)であるクリークをあらわす。そして撞座左右に男女の童形合掌像が配置されている。
この金鐘をおさめる鐘楼は、日光の国宝修理の権威者で、文化財建築の第一人者といわれている中里茂先生によって設計建築された。
昭和59年4月完成
パゴダの供養塔
―宝珠は深く仏を信じる魂―
藤原秀郷公が春日の神霊を旭ヶ丘(姥ヶ城、現在の佐野城山公園)に祭祀(朱雀天皇・承平7年=937年)されてから1050年の嘉辰に当り、これを記念して約5年才月をかけて建立された。
三界萬霊有縁無縁の霊戦争災害死者、事故横難死者、水子霊等を供養する功徳莫大な「聖衆倶会楽」(極楽で受ける十楽の第七極楽ではつねに無数の聖衆が一処に会同して互いに語をまじえ法楽を得ること)の塔である。
4メートルの方形基壇に六つの相輪と一つの塔身水煙つけた宝珠からなり高さ8メートルを有する。
相輪は六道輪廻を塔身上部は天をあらわし、そこに位置する宝珠は深く佛を信じる魂氏のものである。
高さは力、そして希望であり、シンメトリー(左右対称)は安定と荘厳である。天に向かうパゴダを8枚蓮弁がしっかりと支えている。基壇においては古代インドサンチー遺跡のものをアレンジデザインしている。 合掌
開創1050年 嘉辰
昭和62年5月吉日
製作者 田村了一(東京芸大彫刻科卒 二科会彫刻会々員)