疎開先




 
ここ下細谷から上細谷までは、私が4年生まで通学した南部小学校の通学区域だった。学校は両地域からほぼ真ん中ににあり、私の家の当時の番地は愛知県渥美郡二川町大字上細谷字北芋ヶ谷49番地だった。上細谷の西の端は五並中学校で、その手前隣だったので、学校まで2q以上もあり、雨さえ降らなければ藁草履を履いて走って登校したものだった。

 
その藁草履も前日、地引網や木の実(あけび、グミ、木いちご、桑、ホソバ、椎、榎)拾い、きのこ(松茸、シメジ、はつたけ、ねずみたけ、ほうきだけ)狩り、農作業の手伝いの後、毎日毎日作らなければ履いて行くものがない時代で、食べるもの着るもの履くものすべてのものが配給制で、尚且つ、数量が少なかったので、抽籤だったから、なかなか当たることは少なかった。これだけは自分で出きる唯一の生活道具で自給自足だった。

 毎夜の如く停電があり、暗くなる前に縄を綯い、前もって木槌で叩いて柔らかくした藁を、両足の親指を使い、自分の足の長さに合せた4本の縄に、上にしたり、下にして編上げ、縄の紐をつけて仕上げるのだが、通学、運動(駈け磨り回ったり、蹴球)が激しいので半日もすれば鼻緒が切れ帰宅する頃には、棄てて裸足で帰る羽目になっていた。

 西隣は小島町、更に隣の小松原町は、母親の実家があり戦前、就学前の5歳の時に、この地に疎開したので時々訪れている。今でも目を瞑るとハッキリと当時の様子が目に浮かんできます。

 東海道本線の二川駅で下り、牛車で迎えに来ていた「おじいちゃん」と一緒に駅から実家まで、チッキで送った荷物と一緒に、おじいちゃんの横に座り、弟と代わる代わる交代で歩き、母親は、その頃一番下の弟(「昨年」平成15年12月13日、59歳で肺癌で病死)を背中に背負って約6qの道を徒歩で、まだ路線バスは木炭バスで、自動車など、なかなかお目にかかれない時代の砂利道を、今思えばよくも頑張ったものだと目頭が熱くなってきます。

 祖父は、大変厳しい人だった。私は産まれつき胃腸が弱く、ねんがら年中お腹を壊して、幼い頃から食べず嫌い、好き嫌いの激しいわがまま育ちであったので、母の実家に遊びに来る度、その度手厳しく、何でも食べて元気のいい子にしようと一生懸命になって、食べ物を用意してくれたが、その甲斐もなく食べれば食べるほど体調を崩して寝こんでしまった。

 今でも、「とろろいも」はどのように加工しても食べられませんが、当地では地引網が盛んで、鰯、カマス、鯵、鮗、カツオの子、鯖など何種類もの魚が獲れ、殆どは新鮮な内に刺身で食べていた。だから「とろろご飯に取り立ての魚をほぐして入れて食べたりもしていたが、私には生臭くて一口も食べられず、泣いていると一口でも口に入れないと大きな声で怒鳴られたことはこの年になっても、あの声が忘れられません。また、鰯は浜の小屋で茹でてムシロの上に干して煮干にして長野県の飯田市あたりのブローカーに卸したり、物々交換をしていた。
  
 もうこの頃には、母親の実家から離れて上細谷に引っ越しており、4軒長屋の一室に家族5人で住んでいた。長屋は、戦前まではニワトリ小屋だったともいわれていたが、骨組は立派で通常の居宅として造られたものではと首をかしげるような、とり小屋とは名ばかりの戦後のバラック建ての「
わがや」など足元にも及ばぬ築100年でも200年でも使えるような本格的な建物であった。

 一番奥に住んでいた「小原正」君とは、同級生で学校へ入学する前から「あいうえお」や「数字」を一生懸命、よく棒切れで地面に書いて二人で勉強した。すぐ隣の「静男」君も同級生だったが、毎朝学校へ行くのが嫌なのか、それとも母親と離れるのが辛くて泣くのかは分からなかったが、とにかく良く泣いていて遅刻や欠席していたと記憶している。4軒全部が疎開組だった。

 祖父も私が小学校に入学する前年の冬、親類の弔いで風邪をこじらせて、肺炎になり、昭和21年という終戦後で、まだ、ろくすっぽ薬もない時でペニシリン1本あれば命は落さなかったと聞かされていたが、かえすがえすも残念でならない享年60歳だった。

 当時は、「二川町立南部国民小学校」といわれていた。妹が生まれ、また、弟も生まれ、疎開先で5人兄弟になっていた。2年生のときに「二川町立南部小学校」と新制の学校に変わった。その為か1年生では「カタカナ」と「漢字」、2年生では「ひらがな」と「漢字」と「かなづかい」は2通り学んだ。
  
 遠足も字の通り、1年は二川の岩屋観音へ、約6kmの道のりをテクテクと歩き、観音像のある山頂まで登り、2年は湖西市の梅田の(うのや)、みかん畑を抜けて山頂までの山登りだったが、この年、国体の聖火か国体旗のリレー搬送に学校の先生が選ばれて、その応援に全校生徒で一里山の国道1号線まで行った経験からか、距離は長くなっていたが、1年間の学校生活で体力がついたせいか、疲れも見せず元気に帰宅した。3年は潮見坂まで行き、そこから遠州灘の波が打ち寄せる浜に下り、弁当や菓子(地元で作った黒砂糖=農家の友達が持参したもの)を食べ、砂に土俵を描いて男女で相撲をして遊んだり、かけっこをしたり、その挙句帰り道は砂浜を歩いて帰ったので、さすがにクタクタになり家へ帰るのが、やっとだった。4年は赤沢のサウンドスキー場へ、伊良湖街道がまだ砂利道だった頃で、前夜入念に拵えた藁草履を履いて出掛けたが、サウンドスキーをしている間は何とかもっていた藁草履も何時も通りに使用不能になり、棄てるはめになり帰り道は、砂利が足の裏に食込んで痛かったので、道路端の草の生えている所を歩いて帰ったことがいい思い出になった。

 学芸会は、当時は残念ながら体育館がなかったので、ブチ抜き教室を使って、机を並べて舞台を作り、その上で合唱や劇を行った。

 1年生から4年生まで、毎年劇の出演者に選ばれ、特に1年生の時には「うさぎとかめ」という劇で、練習の始めは「かめ」の役だったが、途中から「うさぎ」役の「郡司」君が最後で負けてしまうことが解ると、「かめ」の役に変えて欲しいといい出し、止むなく急きょ「うさぎとかめ」の役を変えて始めからやり直す破目になった。「かめ」は、初めから学校で甲羅の絵が描かれたダンボールで作った甲羅を背中に乗せ、
「うさぎ」はオデコに、うさぎの面をカブって舞台にたったが、お面は自分で拵えるということだったが、なかなか、旨く作れなかったので、家主の家の旧制の中学生か大学生だった「お兄さん」にお願いしたら、いとも簡単に引きうけてくれて、直ぐに届けてくれた。その人の名前は「村田ゆきお」さんで、親類筋の人だった。これが素晴らしい出来映えで、物凄く気に入ってしまい、「思わず、上手にやるから」見に来てください約束してしまった都合上、一生懸命練習をし、お陰で無事に終了したことは、まだ昨日のことのように蘇って来ます。
 
 運動会は校庭が2つあって、道路を隔てて東側に、ちょっと低くなっている校庭でトラックが描かれ、10月14日と決まっていて家族が「むしろ」を持参して、思い思いの弁当や他の食物や飲物をもって来てくれて、この日だけは腹いっぱい食べたことをよく覚えている。この校庭は、野球もよく行われ、対抗試合も行われ、他校の選手も来て試合があり、見学したものだ。

 真冬の寒くて北西の比叡おろしが吹く頃になると、遥か東の空に小さな小さな富士山が見えることがあり、寒風が吹くと富士山見たさに、ここへやって来るのが楽しみで、寒さなんて忘れて走って登校したもんだが、私の4年間では、ここ以外から富士山が見えた所を知らない。
 
 その他にも、町立の東部、西部、南部、北部小学校合同の写生絵画展、書道展などがあり、1日掛けて写生に思い思いの場所に出かけ、描いて展覧会に出品したり、冬休みに正月の2日の書初めで書いた書を休み明けに提出し、書道の展覧会に出して入賞して金賞を貰ったこともあった。

 学校の校舎も木造の平屋建ての一番正門よりの校舎で1年生は毎年同じだった。校門は、今は東側に変わっているが、その頃の正門は、もう少し西よりの所からプールに向って入っていったと記憶しているが、両側にガラス張りの温室があった。今の正門のうしろ側には校庭があったが、ハウスに変わっている。校舎も今の様に3列に建っていたが体育館はなかった。一番後の校舎は高等小学校の兄さん姉さんが入っており、1年生の時には、毎日ほうきと雑巾をもって来て掃き掃除をしてくれていた。劇の「うさぎとかめ」の練習をしていると、一緒になって練習を見守ってくれ、アドバイスもしてくれた。

 この頃には、自転車に乗れるようになろうと坂道の上から、昔の実用車の三角に右足を入れて無謀にも、くだり下りる練習を延々と繰り返したが、何度も何度も転げ膝小僧や肘、腕や足のあらゆる所をすりむいたり、うちみを作っていたが自転車に乗りたさの一心で何日も学校から帰ると、ハンドルを握っていたお陰で、直ぐに乗れるようになった。

 乗れる嬉しさが、つい冒険ごころにもつながり母親の実家の「おばあちゃん」に見せたくて、ふらつきながらも、やっとたどりついたというのが本音だった。そんな調子だから自分だけが乗るのに精一杯だったが、おみやげに貰った野菜を少しばかり載せて出発したが、まもなく、ものの見事に左側の道路下の梨畑に自転車ごと転落してしまった。たまたま屋敷横の梨畑だったので、大きな物音にビックリして飛び出して来てくれた家族に柵に引っ掛かった自転車を上の道路まで引揚げてもらった。何処まで帰ると聞かれ「上細谷」ですと明るく答えると、危ないから自転車を押して帰れといわれ「素直にハイ」とその場は答えたが、見えなくなると懲りずに三角に足を入れて、危なっかしくペタルをこいで家に帰り着いた。母親には何事も無く装い「小松原」まで自転車で遊びに行き「おばあちゃん」に野菜を貰って来たと話すと怒られもしたが、危ないから気付けて乗りなと戒められた。なぜなら、1日に路線バスが数回見かける程度しか通らない伊良湖街道だったからで、自動車はいざ知らず、乗物は殆ど走らない道だったので、学校に入るころには転びながら大抵1人で軽い怪我をしながら、覚えたものだった。

 また、私は小学1年坊主の時にトンボ取りをする為に学校から帰ってくると、ひとりで柿の木に登ってクモの巣をささ竹に巻き付けるのに懸命で小枝に脚をかけた途端、枝だが折れて、頭から墜落して、声も出せないほどの怪我をしてしまった。運良く通りかかった人がいて、身振りで木の上から落ちたことを解ってもらい、自転車で白須賀のほねつぎ」へ行ったが手におえないと断られ、紹介された老津の「ほねつぎ」に行ったが、先生は、父親に説明していたが内容は聞えて来なかったので、どんな状況だったかは、後日聞かされて瀕死の重傷だった。唯一自分で記憶していることは、先生が筆の穂先で背中を触っているいるらしいのだが、何処を触られているのかさっぱりわからなかった。先生が最後にここが解らなかったら、「あきらめてくれ」といわれた時には、子供心に「どきっと」した。そのお陰か運良く答えた場所が正解していたので、暫く通院しなさいということで、石膏とギブスで首は固定され、体ごと向きを変えなければ、振り向くことは、出来なかった。スッカリ直り切るまで6ヵ月間かかり、毎日が2日おき、5日おき、10日おき、1ヶ月に1度となったが両親が交代で自転車で通院した。このように、いつも生傷が絶えないいたずら坊主でもあった。

  この1年生の時には、丸坊主になった通称二川山へ何日もかけて杉の植林に出かけたが、数年後の山火事で全部燃えてしまったそうで、改めて植え直したそうで今ある木は植え直した苗が成長して、花粉症のもとになっているのかもしれない。

 母親は、戦後まもなく太腿の筋肉が炎症する特異な病気になり豊橋の病院で手術をしたが、時期が時期だったので「麻酔」が十分無かった時なので、ろくすっぽ使わずメスで切り込み患部を取り除く手術をした。叔母さんに連れられて母を見舞に行くと、何にも我慢強い母だったが、さすがにこれには痛い痛いの連発だったが、日増しに和らぎ安心した。ある時、見舞の帰りに「サーカス」を見に連れて行ってもらい、空中ブランコ乗りから始り最後の球形の金網の中を2台のオートバイが猛スビードで走りまわり真上に行った時には落ちてくるのではないかと真面目に心配したもんだった。このとき、買ってもらった「アイスキャンディ」の甘さは、何にも変えがたい味で何本もナメて仕舞いお腹を壊してしまい、大騒ぎをした。父親と見舞に行った時には、市民球場で野球見物もした。当時は赤バットの川上哲治、青バットの青田昇、黒バットの大下昇、物干竿の藤村富美男、猛牛の千葉茂、鈍足の土井垣武、剛速球の別所毅、俊足巧打の別当薫などの有名選手がいたが、土地柄、中日には4番打者の西澤道夫、三振かホームランの杉山悟、ショート−ストップ杉浦清、兄弟バッテリーの野口明、二郎などの活躍を見て、自分も選手になろうと近所の仲間と三角ベースで楽しんだ。まだ、ろくすっぽ用具のなかった頃でボールはボロ布を裂いてグルグル捲いて球にして投げて打ったものだったが形は直ぐに崩れて壊れてしまった。

 学校帰りによく遊びに行ったのは、地原の友人の家に、何をするわけではなかったが何となく遊んでは、鞄を肩にかけてバタバタと駈けて帰る道草をしたものだった。我家とは、ほぼ三角形の位置関係だったので倍の距離はあった。

 どんなに、遊んで来ようが炊事洗濯風呂の水は雨水を貯めて置く、かなり大きなタンクがあったが、4軒で使うとすぐからになってしまうので、肥を入れて運ぶ桶と同型の桶で大家の井戸に弟と2人で弟が先頭で後が私で、天秤棒の真ん中よりうしろ目に置いて担いでキツイ坂道を2、3回は往復するのが日課だった。

 父親が戦後まもなく、東京に戻り洋服の縫製業を再開したので、留守だったから家族全員で野良仕事、家事を手分けして、いろんな手伝いをした。
 

豊橋市立細谷小学校(開校 明治4年(1871)朝倉仁右衛門、寺子屋廃止
      
愛知県豊橋市細谷町中ノ島47番地の1
      (渥美郡二川町大字上細谷字)


                   (平成15年5月25日現在)
 豊橋市立細谷小学校は、愛知県の南東部にあり静岡県に接しています。農業がさかんで近くの畑では、5月頃からお茶つみが行われ、温室ではメロン、西瓜、トマトなど、露地ではたばこ、キャベツ、白菜などが作られています。
 また、常春の渥美半島の付け根にあたり、80mを越す海食崖や砂浜が見られます。この太平洋に面した表浜海岸(細谷海岸)には、学校から歩いて30分ぐらいで行くことができます。細谷海岸はアカウミガメの有数な産卵地ですが、年々砂浜が細っています。毎年この海岸で、地引網や浜の造形が全校児童により行われています。黒潮の流れる大海原を間近に見ながら行われるこれらの行事は、海に近い学校でしか味わえないものではないかと思います。
 弥栄の開拓は昭和13年から始まり、愛知県内で開拓したい人を募集し、県から20円のほじょ金をもらって最初は、10人だけで開拓を始めました。
 開拓した土地に初めて作る作物は、スイカが良いということで、スイカ、じゃがいも、大根などを作ったそうです。「
弥栄ズイカという名前で」、おいしくてひょうばんがよかったようです。
 朝の月が出ている時から夜の月が出るまで、働いたそうです。住まいは、古い家を買って住んでいました。結構いい家もあったそうです。でも、開墾の仕事が辛くて、途中で3、4人の人が逃げ出したそうです。そのあとまた、別の人が入ってきて、開墾を続けました。
 今、弥栄には20軒の家があり、お茶作りやキャベツなどの野菜作りが盛んです。牛を飼っている牧場もいくつかあります。


 学校の位置     運動場跡      旧友の旧家    家主宅(新築)   疎開先住居跡
(東経137度28分19秒、北緯34度40分59秒、標高71m)




豊橋市立五並中学校 (開校 昭和22年4月15日) 

豊橋市細谷町字北芋ケ谷30ー44 
(渥美郡二川町大字上細谷字芋ケ谷11番地の1)


第 1回   昭和60年11月 2日   1,713枚   直径33p星型の凧
第14回   平成10年11月14日  15,585枚   20×19.5pダイヤ型の凧(森長凧)
第19回   平成15年11月15日  予定        
         
 本校の連凧揚げは、「小さな学校の大きな夢」を合い言葉に、昭和60年から始まった。凧を作り、ロープに取り付け、凧を揚げる。それを全校生徒・保護者・地域の方々が一体となってやっている。目ざすは世界記録達成であった。そして、13回目となる平成9年、それまでのギネス記録(11,284枚)をぬき、12,677枚のギネス記録を達成することができた。それに引き続き、平成10年、15,585枚の記録を出し、世界連覇を成し遂げた。
 
五並中学校は、豊橋の南東に位置し、南には太平洋をいただき、大変風光明媚な土地です。主要産業は農業です。学校でも二反ほどの芋畑を持っており、多くの収穫をあげています。また、地域で取れる小島梨は、全国的にも有名な産物の一つです。
 五並中学校では、毎年晩秋に連凧揚げが行われます。実際に世界新記録も持っています。また今年も行います。