住   所 〒509−2206岐阜県下呂市幸田1268
電   話 0576−25−2800
F A X 0576−25−4520
メ ー ル s-reserve@suimeikan.co.jp

水明館

山紫水明の地、飛騨の山懐に抱かれ、清流飛騨川
に沿って建つ水明館。

木の優しさが息づき、どこか人間的な暖かみのある
館内は、著名芸術家の作品や伝統工芸が随所にあ
しらわれ、飛騨情緒の粋をご満喫。



◎平成19年6月24日〜25日

◎参加人員:76名(バス・2台)

左・車両長 
  1号車 佐藤守利
右・車両長  2号車 金子  進
*前年参加人員:69名
◎世話人会(あおぎり集会所)
第1回5月25日(金)PM6:30
第2回6月15日(金)PM6:30

◎反省会
そば万(7月6日(金)PM6:30




帝産観光バス株式会社
代表取締役社長 亀岡寛治
〒140-0002
東京都品川区東品川4丁目10番27号
TEL:03-5460-1201


(左)1号車ドライバー:二上恒雄
      1号車ガイド:茂木英子

(右)2号車ドライバー:山口浩之
      2号車ガイド:田口静子

CLUSTER
三菱エアロバス KL-MS86MP




旅行扱者:大師観光(株)
〒123−0841
東京都足立区西新井1−1−4
TEL 03−3890−2458 
FAX 03−3890−2459
添乗者:平塚和彦(営業課長)

●第1日目昼食地
  恵那峡:山菜園 50分間

●第1日目昼食地
  高 山:獅子苑 50分間








 
40周年記念旅行会ということで、世話人会も2度開かれ入念な打ち合わせを行った。何といっても残念な事は新会長になった長井さんが体調を崩して参加できないということで、三役である幹事長会計を中心で進めるという異常事態にもなり、心配していたが当日朝は薄日が差す程度の天気で空梅雨といわれているとはいえ、上々の出発にホッとした。

 集合場所の城北信用金庫前には、時期柄雨の心配もしていたが1時間以上も前から乗車する“帝産”バス2台が停車し、来たもの順に自由に席取りもして貰い時間前には全員集合で、役員も積み込む飲食物、宴会での品物など滞りなく積込出発した。
 
 八広中央通り、押上通りを真直ぐに走りぬけ押上を通り抜け高速7号線の錦糸町ICから入線し、混雑を見込んでいた両国の合流もスムーズに走りぬけ、箱崎JCTも問題なく走り、江戸橋JCT、竹橋JCT、と環状線もスピードを落とすことなくスイスイと順調に走り、北の丸公園の鮮やかな緑も、あっという間に三宅坂トンネルに入り、環状線から分かれて4号線に入ったが、左手の参議員議長・衆議院議長公邸が並びそして赤坂エクセル東急、右手のプリンスホテル、ホテルニューオオタニを眺めながら急坂を下り切ると大きく右にカーブし、並行する下の道路は外堀通りで、その先には迎賓館、赤坂トンネルに入り左に甲を描きながら出てくると左に明治記念館の建物と一文字ずつ書かれた看板、右にはJR中央線の信濃町駅、慶応大学病院、またまた左に目を向けると絵画館をはじめ神宮外苑の国立競技場、明治神宮アイススケート場、東京体育館、そして千駄ヶ谷駅、その先のコンモリ木立が見える新宿御苑、この先までJRと平行に走りやがて山手線を跨ぐと右にカーブし上り線にパーキングがあって左にカーブとこの角度がきつくて自分で運転していても5号線の難所である。

 代々木の出入口を過ぎると小田急線を跨ぐ上り坂になり、鋭角に右に曲がり新宿JCT、鋭く左に曲る5号線最後の急カーブの先には高層ビル群が幾重にも重なり、今ではどのビルの名前も分からないが、都庁ビルが過ぎると2007年12月に開通する中央環状新宿線のジャンクション工事がビルの10階よりも高く、車線が途切れ途切れの状態で今年末には開通の運びになっている。

 この先はほぼ真直ぐに永福ICまで続き、少しずつ右にカーブしながら国道20号線の甲州街道上を下高井戸まで続くが、全く渋滞することなく制限スピードでまっしぐら。バス旅行でも個人でもこんな走行は初めてだった。清掃工場の煙突、高井戸ICから中央自動車道になるが、ICを出ると環状八号通りに直結されている。

 直ぐに左にカーブして短いトンネルを出ると、高い遮音壁も気にならなくなり、やがて千川を跨ぎ三鷹の料金所、7つほど陸橋があって中央道初めての調布IC、右には味の素スタジアムが見え、甲州街道、京王線を跨ぎ稲城のICへ、そして赤い電車の西武多摩川線を跨ぎ、右に府中の東京競馬場横を走り抜け、南武線と並行する武蔵野線を跨ぎ、かなり走って国立府中ICを見やり甲州街道を跨ぐと多摩川を渡った。

 多摩都市モノレール線が上を横切り、JR中央本線、甲州街道と跨ぎ石川パーキングを過ぎるとJR八高線、国道16号線(八王子バイパス)と相次いで跨ぎ八王子ICと料金所であった。此処からほぼ2.5km真南にJR八王子駅がある。








八王子市

市制:大正6年(1917)9月1日
市章:大正6年(1917)12月22日に制定
東経:139゜19’07"
北緯: 35゜39’48"
面積:186.31ku
人口:540,671人(外国人登録者数8,075人)
(男、273,207・女、267,464)
世帯数:235,684世帯
平成19年9月1日現在
市の木:イチョウ
市の花:ヤマユリ
市の鳥:オオルリ
海抜:200mから800m

 

 牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子(八王子)をまつる信仰の広がりの中で、八王子神社や八王子権現社(ごんげんしゃ)が建立され、地域の信仰を集め始めるとともに、地名として定着していった。

 インドから中国を経て伝わってきたものですが、わが国では、疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として、古代より定着した。

 延喜(えんぎ)16年(916)深沢山(ふかざわやま)を天王峰(てんのうみね)とし、周囲の8つの峰を八王峰(はちおうみね)とし、それぞれに祭祠(さいし)を建て、牛頭天王と八王子をまつる八王子信仰が始まった。伝説の真偽は別としても、八王子神社を中心とした地域が、中世には「八王子」と呼ばれるようになった。記録として残されているものは、永禄(えいろく)12年(1569)5月8日付け北条氏康(うじやす)の書状が今のところ最初のもの。

 氏照が八王子城を築き、移転した背景には、いろいろな事情が考えられていますが、もっとも大きい理由は、当時天下統一のために精力的な戦いを進めていた豊臣(とよとみ)秀吉に備えるためだった。しかし、こうして戦いに備えた八王子城でしたが、天正18年(1590)6月23日、豊臣軍の圧倒的攻勢のもとわずか1日で落城している。

 落城後、徳川家康の代官大久保長安(おおくぼながやす)によって、現在の八王子市街の地に新しい横山十五宿(よこやまじゅうごしゅく)(八王子宿)が建造され、発展していくにつれて、八王子の地域は「元八王子村」と呼ばれるようになり、地元では神護寺に由来する「じごじ」という通称地名も受け継がれた。

 八王子は関東山地と武蔵野台地の境に位置し、山がちで耕作地が少なかったため、養蚕や機(はた)織りは、古くから農家の大切な仕事で、江戸時代には八王子十五宿が開設され、毎月4と8の日に市(いち)が開かれて、周辺の村々から繭(まゆ)や生糸、織物などが集まるようになった。明治に入ると、輸入された粗悪な化学染料をむやみに用いたため、品質が低下し、「八王子織物一切取扱不申(もうさず)」と市場から締め出され、明治18年の五品(ごしな)共進会でも成績は全く不振だった。染色をはじめとする八王子織物全体の技術向上と品質改善に取り組み、産地全体で近代化に取り組み、徐々に成果を上げていった。

 大正時代になると、男性の服装は着物から洋服となり、女性の着物は縞物(しまもの)から模様物へと変わってきた。八王子は大衆向けの着尺(きじゃく)(着物用の織物)の、特に男物中心の産地だったで、このことは大きな問題でした。八王子の機業家たちは新分野開拓の必要に迫られて、まず婦人物着尺に活路を見出し、大正末には初めてネクタイが作られた。現在も八王子は国内有数のネクタイ産地。

 昭和15年1月に生糸の配給統制規制が交付され、原料糸の割当が始まり、また同年7月7日、俗に七・七禁令と呼ばれる「奢侈品等(しゃしひんとう)製造販売制限規則」が施行され、当時流行していた金銀糸などを使う銘仙(めいせん)などの織物は取締りの対象となり、八王子にも大きな影響が出た。

 昭和20年代半ばには、ガチャンと機(はた)を織れば万という金がもうかるという意味で「ガチャ万」と評されるほどの好況期を迎えた。夏物上布(じょうふ)や男物着尺(着物地)、そしてネクタイを中心に傘地・マフラーなど雑貨織物の生産も盛んになり、素材にウール(毛)を用いつつ先染の伝統を生かした紋織りの織物で、40年代にかけて売れ続け、戦後八王子織物の最大のヒットとなった。

 「多摩織」が通産省から伝統工芸品として指定を受け、多摩織とは、多摩結城(ゆうき)・紬織(つむぎおり)・風通織(ふうつうおり)・変わり綴(つづれ)・捩(もじ)り織の5種類の織物の総称で、八王子織物の歴史と技術の結晶といえる。

城址

八王子城
 戦国時代末期の武将、北条氏照の居城と伝えられている国の史跡・八王子城跡で、御主殿(城主の居館)に通じるとみられる。天下統一を目指す豊臣秀吉の軍勢が、八王子城を攻め落としてから約400年。落城400年を記念し、保存整備事業を進め、御主殿跡の大がかりな発掘調査や発見された古道の一部を整備して散歩道を造られ、また、ひき橋の土台に橋をかけたり土塁も復元された。

滝山城
 八王子駅より戸吹行バスで「滝山城跡下」で下車すると、そこは「滝山公園」の入口。ここに眠る滝山城は、八王子城に勝るとも劣らぬといわれた名城のひとつであり、北条氏照ゆかりの城である。、「滝山城」を築いたのは大永元年(1521年)という。その子・定久が養子に迎えた北条氏康の次男の北条氏照が、大改修したといわれる。
 
小田野城
 陣馬街道川原宿(かわらじゅく)交差点から南(高尾方向)へ、西寺方町を過ぎるあたり、左側に小高い丘陵がつらなり、ここ小田野トンネル上の丘には戦国時代の城郭「小田野城」があったことが知られている。北条氏照の家臣であった小田野源太左衛門の屋敷跡といわれ、案下道(現:陣馬街道)を眼下に見下ろすことのできる絶好の防御拠点であり、この地形を上手く利用して築かれた。

片倉城
 JR片倉駅下車5分、京王線京王片倉駅下車10分,、この丘陵地帯には片倉城がある。片倉城は、応永年間の室町時代に大江広元を祖に持つ長井氏が築城した「山城」との説があるが定かではない。長井氏は、山内上杉氏と連合して古河公方足利成氏に対抗した扇谷上杉の家臣。当時は東南北は沼であり、西は深い空壕とし、特に南側は2段の堀として城郭を固めた。中世の城郭の特徴を示す櫓台、空堀や土塁の名残りが見られ、中世城郭の典型的な物であり、城跡全体が東京都文化財に指定されている。

浄福寺城
 JRもしくは京王線の八王子駅から「陣場高原」行きのバスに乗り、松竹という停留所で下車。西へ少し歩いて陣馬街道の中程、圏央道の下をくぐると間もなく浄福寺があり、城は寺の裏手の山上にある。標高360m、比高150mの山城で,新城(にいじょう)・案下城(あんげじょう)・松竹城(まつたけじょう)・千手山城(せんじゅさんじょう)と様々の呼び名を持つ浄福寺城の城跡。

 料金所も大部分がETCでバスもフリーパスで通過し、渋滞す事もないフリーウェイは停まる事を知らない。休日ともなると交通情報でよく名前の出る元八王子付近もあっという間に通過で、バスの中もガヤガヤザワザワした雰囲気も落ち着きを取り戻し、やっとガイドの説明も耳に入るようになり、小仏トンネルへの上り坂に差しかかり上下線は2段になり、上り線の様子は見えないが、山の合間を縫うようにカーブしながらばく進すると、左の取り付け道路が段々低くなると6月23日(昨日)開通した圏央道の八王子JCTが現れて来た。昨日の今日なので相当の混雑を予想していたが、何の変わりもなく通り抜けてしまった。

 圏央道は八王子城跡トンネルを出ると、いきなりJCTだが、トンネルの上は八王子城跡がり、今年のNHK大河ドラマの「風林火山」の武田信玄、勝頼親子が北条や関東管領と戦った戦場として、これから進んで行く談合坂、笹子トンネル、甲州は古戦場城跡があちこちに残っている。

 ジャンクションの左真横の山は高尾山で圏央道は更に南八王子目指して延長されるので、山腹を貫きトンネル工事も予定されているが、完成するのは何年先。反対運動も激しいと聞いてもいるが、自然破壊になるというのが一番の理由だとも聞いているが、都会では渋滞して出る排気ガスで喘息公害騒ぎで大気汚染障害補償問題も近々和解が成立したが、モータリゼーションは益々広がり、八王子や町田のの小高い所まで住宅が建つご時世、2、30年過ぎには、この山間も住宅がビッシリ建ち並んでいるかもしれない。
 
 そんな折、道路は今日のように渋滞もなくスムーズに流れていた方が公害一つ取っても明らかで、人体に及ぼす被害は少なく、勢い宅地開発は少子化が問題になるくらいで今後も増え続ける事はいうまでない。然るに道路問題は100年の計を立てるべきである。都心の昭和通りは大正時代、当時は途方もない広い道路で反対され道路幅を狭めたのが現在の交通状態に対応出来ないほどの普及を考えれば、どの自治体でもインフラが遅れ、自動車がいの一番に利用される事は目に見えている。

 自然破壊につながる事は極力避けなければならないことは重々承知で、新幹線敷設反対、空港建設反対、高速道反対といっている御仁が旅行といえば、何を利用して出かけますかと聞かれれば、どれか一つは関係すると思います。この国の行政は、事件事故が発生しなければ、重い腰を上げません。都心では喘息、アレルギー、騒音で人間が犠牲になっているのが現状で、異常気象まで騒がれはじめている今、道路でいえば排ガス対策は最高の環境問題の一つと考えられる。

 高速道路も永久に無料にならなくたっていい、料金を高く設定せず、中央道だ、圏央道だ、外環だ、首都高だと分類しないで全線距離制で料金を決めて公平な料金体系になることを望む。そして一つ提案だが、道路というと必ず上下2本作るが、高速道路を利用して感じるのは上下線が渋滞するのは都心部だけで朝夕の渋滞は反対車線はスイスイ走っているにつけ上下線ともう1本の3本作り朝夕利用される方の車線に1本を切り替える方式にして渋滞の緩和に努めたらどうだろうか。

八王子ジャンクション
(首都圏中央連絡自動車道(圏央道) 

 圏央道の通行料について地元首長らが「高い」と反発している問題で、八王子市の黒須隆一市長らは17日、圏央道あきる野インターチェンジ(IC)―八王子ジャンクション間の開通を前に、同市の八王子西ICで開かれた記念イベントを欠席した。通行料は八王子IC―八王子西IC間(14.6キロ)で普通車600円。23日八王子西ICで同日午前に開かれた記念式典で、黒須隆一市長はこの日のあいさつで、「料金が高い」と反発して17日のプレイベントを欠席したことに言及。「(値下げという)国交省の大英断に敬意と感謝を申し上げたい」と話した。

 ウオーキングコースとして開放されたのは会場の八王子西ICから北に2キロの区間。天合峰トンネル内には元F1ドライバー片山右京さんが、圏央道を含む環状道路の必要性を語るインタビューなどを、縦横数mの大型スクリーンを設営上映。

 八王子西ICの入り口付近には、地元出身の作詞家中村雨紅の童謡「夕焼け小焼け」にちなみ、母親と子どもたち3人のモニュメント計四つを建立。御影石製で高さは2、3


 圏央道は、横浜、厚木、八王子、川越、つくば、成田、木更津などの都市を連絡し、東京湾アクアライン、東京外かく環状道路などと一体となって首都圏の広域的な幹線道路網を形成する首都圏3環状道路の、一番外側に位置する環状道路で、都心から半径およそ40km〜60kmの延長約300kmの高規格幹線道路。同区間の総事業費は約2100億円。ほぼ中間に八王子西ICを設置した。開通により、年間約260億円の経済効果が見込まれる。
 

 ジャンクションを過ぎると小仏トンネルで、抜け出た先は神奈川県、山間のカーブで開けた所が相模湖東出口で、その向こう側の高台は相模湖ピクニックランドの大観覧車も見える。次第に相模湖の全容が左側の木立の影から現れてくる。全国でダムの貯水量が報道されているが見る限りでは、減水している様には見えないが節水には皆で心がけよう。
 相模湖ICを過ぎても相模湖は川のように連なり山梨県境まで見えた。この辺りの道路は小刻みのカーブを繰り返しながら上り坂で山梨県長野原へとやって来た。切通しで10ヶ所の陸橋を過ぎると談合坂SAだが、鶴川大橋から片側3車線に登坂車線がある急坂で渋滞のメッカだったが車線が増えてからはスムーズに通り抜けられるようになった。今日の此処までの通行はスピードを落とすことなくノンストップでやって来たが、駐車場(大、51台・小315台)は満車でバスも大型トラックもマイカーも停め切れずに違法駐車すほど溢れかえっていた。
 この辺の空は雲で一面覆われていたが、雲が高いせいか山の稜線もよく見え雨の心配は要らなかった。20分間の休憩もインフォメーションやハイウェイ情報ターミナルやトイレに行き、疲れを癒すにもってこいの持ち切れないほど熱い緑茶を飲んで、バスに戻ると発車の時間、全員揃いSAを出発した。






談合坂SA

旧長峰の砦跡


 鳶が崎から矢坪坂付近までの丘陵を長峰と呼んでいた。この長峰の鳶が崎や鳶の巣はたびたび北条氏と武田氏が小競り合いをした中世の古戦場でした。ここに加藤丹後守景忠が砦を築き、外敵進攻に備えたといわれる。また、この砦跡には俳人松尾芭蕉とその門下連二房(各務支考)の句碑も立てられている。

 しかし、中央道6車線化工事に伴い平成8年7月26日に指定解除となったが、石碑等を現在に移設し、地区の憩いの場として利用している。
塚場一里塚:上野原市上野原1013

江戸日本橋から18番18里に当たり、塚場の疱瘡神社裏手に小高くなった竹やぶがあり、塚の跡と言われている。古老の話によると、ここにカヤの木が目印に植えられていたそうですが、今は跡形も残っていません。
大椚一里塚跡:上野原市大椚199

 江戸日本橋から19番19里に当たり、鶴川宿から大椚集落に入る手前の坂の途中に一里塚があったが、現在は跡形もない。『甲州道中宿村大概帳』には「木立無之、但左右之塚共大椚村地区」とある。
荻野一里塚跡:上野原市野田尻1028

 江戸日本橋から20番20里に当たり、野田尻宿から荻野集落に入る手前に一里塚があった。街道の両側にあって、北側の丘の上には、地元の人が“ヒラマツ”と呼ぶ老松が1本あったが、今は伐採されて残ってない。

矢坪坂の古戦場

 享禄3年(1530年)4月23日相模国の北条氏縄勢が甲斐に攻めこみ、これを小山田越中守の手勢が迎え撃った戦いがあった。付近は南西に切り立った崖と北面に山腹を臨み、道が入り組んでいる要害の地。




 順調に走るバスは、矢坪の陸橋を過ぎると90度近く左にカーブして旧談合坂SAが見え始めたが、現上り線の談合坂SAで、道路は下り坂になり、8つばかり小トンネルを潜ると大月のインターやJCTになる。

 一山も二山も離れた南側の桂川沿いの所を国道20号線やJR中央線は走っているが、談合坂あたりの高速道路は、その昔武田と北条が渡り合った古戦場跡付近を通り、カーブしながら短いトンネルが一先ず切れ、鳥沢の町に入ってくると鉄道も国道も再度近寄り、右にカーブして急坂を上ると高速は左カーブしながら下り始め下を葛野川、県営住宅が見え、左下に見えるJR猿橋駅の前方には、猿橋発電所の太いパイプが2本、山の上から桂川に引き込まれている。

 緩やかに右にこうを描くと前面に岩石のむき出しになった岩殿山の山肌が迫り来ると岩殿トンネルに入り、そして大月トンネルを抜けると左に90度近くカーブし大月ICと富士五湖方面に分かれるJCTになり花咲トンネルの入口を左に見ながらJCTを後にし、上り坂を右左にカーブすると初狩の小さなパーキングが現れるが、富士山が山間から顔を見せるスポットがある。今日もスッカリ曇っていたが富士山は頂上まで雲に隠れずに良く見えた。何となく徳をした気持ちになるのが不思議だ。

 左右にカーブしながら上り坂を笹子川、国道20号線、JR中央線と並行して7kmも走りJR笹子駅を過ぎると鉄道が一番先ににトンネルに入り、そして高速が長さ約5kmのトンネルに入り、国道20号線は更に上ってから笹子トンネルに入る。旧甲州街道は矢立の杉、笹子峠を越えて甲斐大和の町外れの国道20号線に合流する。笹子川は大月、甲州、笛吹3市の境が源流。
 
 トンネルを抜け出た甲斐大和は日川が流れ上流では武田勝頼が命を落とした地である。近年では日川高校が野球やサッカーで全国大会で活躍している。狭い谷の右岸を国道20号線、JR中央線、左岸の山懐を高速道路が利用している。高速は上り下り線が別れて下り坂になり走行し、対岸の山の斜面にブドウ畑が見え始めると左にカーブし終わり勝沼インターになる。

風林火山
 今年のNHK大河ドラマ『風林火山』は今、諏訪を亡ぼし、由井姫を妻にして勝頼誕生という場面になって
いるが、武田信玄の誕生から武田家亡国物語が語りべ、バスガイドの愛子ちゃんは滑らかに聞かせた。
 信玄が生まれたのは府中(現在の甲府)郊外の積翠寺(せきすいじ)。そして治世の中心は、 躑躅ヶ崎館
(つつじがさきやかた=現・武田神社)だった。「人は石垣、人は城」と『武田節』に歌われたように信玄は、
領地に本格的な城郭がなく、躑躅ヶ崎館を政治的・軍事的な拠点とした。
 四方を山に囲まれた甲州には、石垣を積み上げ、天守を築くような本格的な城郭ができたのは家康が天
下をとってから。群雄割拠の戦国時代には砦的な山城しか存在しなかった。軍事・政治的な中心は、府中(
現在の甲府)にあった躑躅ヶ崎館。
 甲府駅の北に位置する武田神社は、境内がそのまま躑躅ヶ崎館の大きさと考えれば、東西284m、南北
193mで周囲には濠を巡らせている。
 武田神社の参道から境内(館内)に入ると館の南側から濠を渡る格好となるが、大手門があったのは、館
東側。武田神社・宝物殿側の入口が往時の大手門のあった場所だ。宝物殿のある東曲輪、本殿・拝殿のあ
る中曲輪が当初からあった曲輪。
 館に突き出した東側の尾根を「躑躅ヶ崎」と呼んだことが地名の由来だ。中曲輪(なかくるわ)、東曲輪が
初めに造られ、のちに勝頼によって北曲輪(味噌曲輪・御隠居曲輪)・西曲輪が増設された。
 仏教にも傾倒し、鎌倉や京に倣って府中(現在の甲府)とその近隣に五山と呼ばれる5つの禅寺(長禅寺
・東光寺・能成寺・円光院・法泉寺)を定める。禅宗を崇拝した信玄は、その治世にも禅宗の教えを反映させ
た。
 武田信玄は上洛途中で病に倒れ、その遺言によって、喪を3年間も隠し続け、さらに万一の外敵を恐れて、
埋葬地を秘密にもしていた。
 墓は甲州では大泉寺、恵林寺、信州の諏訪湖、長岳寺(下伊那郡阿智村駒場)、龍雲寺(佐久市)、紀州
の高野山奥の院、三河(設楽町)の福田寺、京の妙心寺など全国各地に存在している。
 景徳院は、1582(天正10)年、武田勝頼一族が破れ武田氏終焉の地となった、田野集落にある。境内
には、勝頼と勝頼の北条夫人、勝頼の息子(信勝)を祀った五輪塔、勝頼・北条夫人・信勝が自害した生害
石がある。同じ境内にある首無地蔵は、田野の村人が勝頼、北条婦人、信勝を葬った場所。
 日川の姫ヶ淵は、侍女16人が身を投げた場所。勝頼辞世の句は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ は
れてゆくえの西の山の端」。このとき勝頼は37歳、北条夫人はまだ19歳、信勝も16歳の青年だった。
 43名の手勢を連れて岩殿城(現在の大月市の背後にある岩殿山。難攻不落の要塞だった)に向かう勝
頼一行は、勝沼の大善寺で一夜を過ごし、笹子峠の麓、駒飼に差しかかったとき、土屋昌恒が岩殿城から戻
り、岩殿城主・小山田信茂が織田方に寝返ったことを知る。勝頼一行は、初鹿野から日川渓谷を遡り、田野
の里に到着する。そして退路がないことを悟り、天目山で自害する。

 高速の笹子トンネルを出ると、武田家が勝頼の代でこの日川の上流で自害して滅びたとガイドの説明があり、毎週釘付けになりながら見ているドラマもより一層これからの現実味が増した。

 JR中央線は甲斐大和の町外れを過ぎると次第に右に反れ日川や国道20号線と別れ大日影トンネルに入り勝沼ぶどう郷、真北に進行し塩山駅手前で、左に鋭角に曲がり塩山駅を過ぎるともう一度鋭角に曲がり東山梨駅を通過して山梨市とやって来て更に左に曲がり春日居町駅を南西に走り石和温泉駅、酒折駅、善光寺駅、金手駅、甲府駅を過ぎても鉄道は等々並行することはなく離れていた。

 勝沼インターを過ぎると視界は広がり、右側の斜面にはブドウ畑と左の山懐までは桃畑と混在している。釈迦堂パーキング、一宮御坂インター、境川パーキング、甲府南インターまでは一貫して南西に進んだので途中から国道20号線とも離れてしまった。日川も重川と合流し、そして笛吹川と合流して川幅も増して幾筋かの流れになって水かさも増して最終的には太平洋に流れ込む富士川となる。

 高速は笛吹川橋を渡り右に2度ばかりカーブして、JR身延線を跨ぎ甲府昭和インターにやって来た。スッカリ離れていた国道20号線もこの先で交差して北側の位置に入れ替わった。そしてJR竜王駅近くで線路を跨ぎ、坂道を上り始めると双葉スマートインターにやって来た。聞きなれないスマートインターとはパーキングに料金所が設置された安上がりのインターのこと。

 そして2kmも行くとJCTになる。中部横断自動車道との双葉JCTで国道52号線の上を増穂インターまで開通している。合併でスッカリ地名が分からなくなってしまった山梨県だが、この辺りはどうやら甲斐市のようだが馴染がない。今年のガイドはベテランで、南アルプスの山並みを指差しながら、まず鳳凰三山、甲斐駒、そして頭だけチョッピリ見える北岳と説明していた。若い時に山登りした経験がある私には興味深々で、往事を偲びあの山がオレを苦しめたのかと1人懐かしんでいた。

 鳳凰三山は、18歳の時従兄と従兄の友達の3人で夜行最終列車に乗って甲府まで来て駅前からバスに乗って芦安温泉まで行き、ここから夜叉神峠を経て、延々10時間歩いて第1日目の南御室小屋へ午後3時過ぎに着き飯盒で飯を炊き芯だらけのご飯を食べて暗くなると持ってきた毛布に包まり寝込んだが寒くて何度も目を覚ましながら夜明け前の午前3時には起き抜けで歩き始めて、薬師岳、最高峰の観音岳、鳳凰山、地蔵ヶ岳と縦走して昼過ぎには下山し始めた。御座右鉱泉を経てJR穴山駅へ戻ったが、恥ずかしい話途中でどうにもこうにも歩けなくなり通りすがりのダンプカーに乗せて貰い駅に着きお礼ソコソコに列車に乗り、座席が満席で通路も人でトイレに何人も入り物凄いギュウギュウ詰めで新宿まで立ち通しだった。駅に着いても階段を喘ぎ喘ぎ上り下りしてようやく家に辿り着いた時は卒倒うしてしまった。この時には生まれて初めて3000m近くの山登りの経験をしたが、あくる朝目が覚めると体中が痛くて動く事も出来ず1週間会社を休んだ経験を思い出した。縦走で眺めた連なる山並みは今でもくっきり浮かんでくる。美しい日の出、富士山、正面間近の北岳、右に目を移すと仙丈ヶ岳、甲斐駒ケ岳、少し離れて八ヶ岳連峰と360度のパノラマにスッカリ魅せられてしまった。

 次の年には同級生と台風が近づいて来ているのに八ヶ岳に行ったが、信越線で小諸まで行き小海線に乗ってJR松原湖駅で下りて自然氷結する松原湖のスケートリンク横を通り登山口までバスで行き、夏沢峠から硫黄岳から横岳まで台風の強風にあおられて1時間半かかる所を30分で登ってしまった事もあったが、転落防止の鎖に掴った時には、なんと無謀な事をしてしまったかと反省もした。最高峰の赤岳を過ぎ、キレット小屋に来た時には強風にあおられて転落遭難してしまった遺体が安置され、未だ岩場に転落して行方不明になっていると聞いた時には思わず手を合わせ身震いし、甘く見ていた登山に終止符を打った。下山はより慎重になり、30cmほどしかない尾根を歩き権現岳、青年小屋、編笠山とやってくると下界が開けて小淵沢の町は手が届きそうな近さに見えたが、それから延々3時間有余もかかりJR小淵沢駅に着き夕方の列車に乗って帰ってきた。この時は前年の経験が活かされて身体は異常もなく元気に仕事が出来た。

 その後も南アルプスの山々や特に鳳凰三山が後ろのなる頃には甲斐駒ケ岳が現れ高速が須玉インターを過ぎるとカーブするたびに植栽の隙間からアルプスの形も変わり時たま北岳や千丈が岳の頭だけが見えるとガイドは説明してしていたが本当に感心てしまった。次の休憩場所の諏訪かサービスエリアでバス会社の勉強だけでなのか登山経験はと聞いてみようと思ったが、次々に現れる八ヶ岳や蓼科山、蓼科湖、メルヘン街道、ビーナスライン、その先の白樺湖、車山高原、八島ヶ原湿原、美ヶ原高原と続く山並みの話を聞く内にスッカリ忘れてしまい帰るまで聞き漏らした。

 そして高速は真北に進みキツイ勾配を登り長坂のインターを過ぎ、左に大きく緩やかにカーブし終わると小さな八ヶ岳SAがあっという間に通り過ぎた。20年も昔、子供が高校生や中学生の頃、乗鞍岳にドライブに行った折、長坂と諏訪湖の湖上祭にぶつかり花火見物をし、長坂では高速の退避場所に車を止めて見物したり、湖上祭では一般道に出て市内の学校に車を止め最後まで見物して、いざ出発という段階で市内は猛烈な渋滞となり、3時間も缶詰になり夜中の12過ぎにようやく解放され、乗鞍岳を目指して走り長野県側の道路は舗装も道幅も狭いガタガタ道を登り2時半に到着し、綺麗な星空と引っ切り無しの流れ星を眺めて日の出を待ち、寒さを堪え素晴らしいご来光を拝んだ。余談だがそのとき一つ学んだ事はアルミ製の菓子袋が気圧の関係で風船のようにパンパンふくらみ割れるかと思った。

 バスの右窓には遥か向こうに八ヶ岳が見え始め、この辺りでも曇り空だったが八ヶ岳の稜線ははっきり見えた。霧雨も時々舞ってはいたが運転にも差し障りなくワイパーの動く気配もなく、高速道は右左にカーブして小淵沢インターにやって来た。










 坂をドンドン登る登る。八ヶ岳SAから見る八ヶ岳は一番稜線が見えスポットかもしれない。雷とスコールに会うと1mも見えなくなることもあり要注意場所で、山梨県長野県全域にも共通していえる。小淵沢は八ヶ岳の登山口であり、麓に行くと登山歴史館もある。小海線を跨ぎ500〜600mも行くと山梨県から長野県になる県境を過ぎても坂は上り、中央高速の最高地点は山梨−長野県境を越え長野県にはいって10Km弱の富士見峠付近で1015m、中央道の小淵沢SAと諏訪南SAの中間、富士見バス停近くにある。高速の北側には原村、南側には富士見町が広がり

八ヶ岳の南裾野の富士見町

入笠山は、高遠町、長谷村、富士見町
にまたがる1995mの山で、山頂には、
長谷村と富士見町の境界が通ってい
る。
あと200mで頂上という地点まで車で
いけて、30分の登山で周囲をぐるりと
見通せる山頂につく。
お天気が良いと美しい景色を見るため
の登山客で賑わう。
日本の山ベスト5
富士山 3776m
北 岳 3192
奥穂高 3190m
間ノ岳 3189m
槍ヶ岳 3180m
日本で1番高い山は、富士山だとだれ
でも知っているが、では、2番目は?3
番目は?というと、知っている人は少
ないのではないか。かくいう私も最近
教えてもらったという状態。
入笠山の頂上に立つと、左の表の
うち北岳以外、全部見える。
北岳は鋸山に隠れて見えないのが
とても残念。

 富士見パノラマスキー場は、ゴンドラが2.5km、コースが約3km。冬になると入笠山の登山口まで車では行けないので、スキーのゴンドラで上り、そこから入笠山登山口まで雪の中を歩く。ちょっとした雪山気分が味わえる。

 JR中央線に『すずらんの里』という駅があり、富士見町の入笠湿原は鈴蘭の群生地。富士見パノラマスキー場の頂上のリフト駅から歩いても5分ほど、車でも登ることもできる。湿原から小高い斜面一面が鈴蘭の群生地で、6月中旬が鈴蘭の見頃で、とても賑わう。鈴蘭の花は、草丈が短く花が下を向いているので、

 入笠湿原と大阿原湿原をつなぐ道は舗装道路で、途中には八ヶ岳や蓼科の山々が奇麗に見えるポイントやクリンソウの群生地、野生のわすれな草の群生やマタタビの花など見所もあり、針葉樹に囲まれた大阿原湿原は小さいながら湿原全体の見通しがよく、いかにも湿原という雰囲気で、レンゲツヅジの赤も鮮やかに、湿原の道はこの奥で左にまわって元に戻るコースと直進して高遠方面に抜ける道とに分かれる。


八ヶ岳の西裾野の原村
 村の中心地は標高1,000m。郵便局、ガソリンスタンド、コンビニ、コープなどがあり、原村リゾートの中心は標高1,300〜1,400mの地域に広がるペンションビレッジや別荘地、八ヶ岳自然文化園などがある地域だ。ペンションは隣接した二地区に百軒近くの数があり、周辺には未開発の村有地が自然そのままのかたちで残されており、別荘生活に潤いを与える。そこは山野草の宝庫だ。天ぷらやおひたしなどにするくせのない若芽や自然からの恵みは途切れることはなく、八ヶ岳の清らかな水を使った料理は格別。ズミの開花、カラマツの紅葉、雪などの高原の美しさに一目ぼれ、満天の星。森全体が淡いエメラルド色に染まるカラマツの芽吹き。濃紺の空と雄大な積乱雲が見せる真夏のコントラスト、カクテルでも飲みながら季節の変化を知る。

茅野市
 観光資源を多く抱える諏訪地方有数の市である。精密業を基盤とする工業都市であるが、パセリ、セロリなどの高原野菜の産地として名高い。冬の寒さと乾燥した気候を利用して作られる角寒天があり、その殆どは茅野市で生産されている。長野県を代表とする地場産業であり“信州寒天”づくりは冬の風物詩。日本の都市のなかでは最も標高の高い場所(標高801m)に市役所がある。

 角寒天は、海藻が原料の鉄分やカルシウムなどのミネラルがたっぷりで、食物繊維の含有率では、あらゆる食品の中で群を抜いてトップ。食物繊維は、消化器に負担をかけずに体内を素通りして排泄され低エネルギー。しかも、腸にたまった老廃物や、とり過ぎた栄養分を包み込んで体外に押し出し、消化器の大掃除の役目を果してくれる。

 テングサやオゴノリなどの海藻類を煮溶かし、ろ過して凝固させると“ところてん”ができ、このところてんを角形に切り、自然凍結、融解(ゆうかい)、天日乾燥させたものが角寒天。角寒天は冬期のみに天然生産される。

 などと縷々バスガイドの説明は続き南諏訪インターを過ぎ、諏訪大社の話もしていた。式年大祭(申年と寅年の7年に一度)の御柱祭:5丈5尺(約16.8m)の樅の木16本を山から切り出し四宮の四隅に御柱として建てる神事は、あまりにも有名で山から木を切り出し運ぶ「山出し祭」と里を練り歩き柱を立てる「里曳き祭」がある。

 御祭神は、大国主神と高志河比売神の御子神で八坂刀売神は妃神。一般には古くから上社に男神、下社に女神の信仰が広く伝わっている。我国最古の神社の一つに数えられ、信濃国四十八座の第一で、信濃国一之宮として信仰され国幣中社、官幣中社、官幣大社に昇格し、昭和23年に諏訪大社と改称致し現在にいたる。

 おんばしらの用材は樅の木が使われ、三年前から木の選定等準備が始まり、上社関係は約25km隔たる八ケ岳の中腹から、下社関係は八島高原の近くから約10kmの里程を曳き出します。大きな柱は周囲3m、長さ16m余、重さ12〜13dにも及び、独特の木遣り歌と共に1000人から2000〜3000人の人々に依って曳行され、車もコロも使わず人の力だけで曳き摺る原始的な方法である。








諏訪SA 



 眼下に諏訪湖を一望し、蓼科山から八ヶ岳連峰までの遠望を楽しめる絶景のサービスエリアで、冬には氷の隆起・御神渡り、夏には壮大な打上げ花火や水中スターマインには最高のロケーション。湖東の茅野地区は、「角寒天」の自然製造で有名です。食物繊維が豊富で健康食として地位を築いている。また近年は夜景にも力を入れて湖畔一周に夜間照明が輝き幻想的な世界が出現し、人気スポットでもある。

 ここのサービスエリアには、ほかでは見られない温泉施設が上下線で利用できる。諏訪湖SAの名物は温泉で、特に上り線の方は諏訪湖の眺望が利くため人気がある。上りと下りでは料金が100円ちがう。上り線が諏訪市、下り線が岡谷市と見事に分かれているために発生している。

諏訪湖

 海抜759m、湖周15.9km、面積13.3ku。諏訪湖は、諏訪盆地の真ん中に四方を山に囲まれて横たわる信州一大きな湖で、湖上ではボート、遊覧船、わかさぎ釣りと四季を通して楽しめる。諏訪湖畔は自然を大切にと「なぎさ」が整備され散歩コースもある。

 干拓・埋め立てや護岸工事などにより現在の大きさに至るが、戦国期は今より大きく、当時の史料から存在が確認できる集落に高島・文出・小川などがあるため、それらの集落を結んだ線より北西側が湖岸線と推定できる。

 冬期間に厳しい寒さが続くと、諏訪湖が全面結氷し、その氷が伸縮を繰り返すことで山脈状のせり上がりができる。諏訪の人々は、この自然現象を、上社の男神様が下社の女神様の元に渡った道筋と考え、「みわたり」と称してきた。


 武田信玄の娘で上杉謙信の養子景勝の正室となった菊姫がモデルとされる。「本朝二十四孝」は歌舞伎としても人気を博し、八重垣姫は歌舞伎の三姫に数えられる。勝頼を狙う追っ手がいることを知らせようと諏訪法性兜を掲げ諏訪湖を渡る場面が著名であり、諏訪法性兜の名を全国的に知らしめたのは八重垣姫といえる。八重垣姫がささげ持つ兜として有名になった。「法性」とは仏教でいう万有の法性で、「諏訪法性」は諏訪明神を表している。

間欠泉

 温泉の象徴とも言うべきものが、“間欠泉”。米国イエローストーンの間欠泉に次いで世界第2位のスケールを誇り、条件さえそろえば50mもの湯を吹き上げるという。
 また、ベンチに腰掛心地よい温泉に足を浸せば、体の
疲れも一気に飛び去り、夕暮れに色ずく諏訪湖など目の前に広がる。

昭和58年6月2日に噴出 位置:諏訪湖畔 高さ:50m 噴出時間:5分〜10分
1回の噴出量:700ℓ 温度:120℃ 深度:850m  

諏訪湖博物館・赤彦記念館 (長野県諏訪郡下諏訪町西高木10616−111)料金:350円

諏訪市博物館         (長野県諏訪市中洲171−2)料金:一般310円・小中学生150円
  自然信仰から発生し、中世に戦の神として信仰を集め、武田氏に滅ぼされてからは民衆のものとなった諏訪信仰の歴史を時代順に紹介。

茅野市長官守矢史料館   (長野県茅野市宮川386−1)料金:大人100円・高校生70円・小中学生50円
 守矢史料館は鎌倉時代より守矢家で伝えてきた守矢文書を保管・公開する史料館です。守矢家は中世より諏訪神社上社の神官の一つで ある「神長官(じんちょうかん)」を明治時代まで勤めてきた家柄です。守矢史料館は守矢家の敷地内に建っており、諏訪の風景を現在に伝 えている。
 守矢文書は県宝155点・茅野市指定文化財50点を含む総点数1,618点の古文書。諏訪神社の祭礼に関する古文書がほとんどだが、  中には中世の信濃国の状況を克明に記録したものもあり、当時の状況を語る上で唯一の資料といってもいい。   
 
八ヶ岳総合博物館       (長野県茅野市豊平6983)料金:大人310円・高校生210円・小中学生150円
  茅野市の自然とそこに生きてきた人々の生き方に視点をあて、自然、歴史、産業、民俗(八ヶ岳火山群、水系、湖沼、温泉、生物、低山帯 から高山帯の動植物、御柱祭、寒天、はたおり、いろり)等自然の豊かさをメインに展示されている。

諏訪市

市制:昭和16年8月10日
市章:古くからめでたいとか幸運を
もたらす鳥、瑞鳥(ずいちょう)
東経:東経138゜06’49"
北緯:北緯 36゜02’20"
面積:109.91ku 人口:52,997人(平成19年) 世帯数:20,849世帯
市の木:きはだ・かりん 市の花:あやめ・ニッコウキスゲ 海抜:761.45m

 諏訪盆地には、峠を挟んで諏訪側が反対側に比べて急勾配である、という地形が見られるが、諏訪市も例外ではなく、同様の地形が、例えば諏訪市と上伊那郡辰野町を結ぶ県道50号(有賀峠)などに見られる。これは、諏訪地方に中央構造線と糸魚川静岡構造線が通ることに起因する断層地形である。なお、この2つの構造線は諏訪市付近で交差(接触)しているとされている。

 東京や名古屋などの都市部より標高が高いためか避暑地と呼ばれる傾向にあるが、平地では夏場の日中の最高気温は30度くらいに達し、それほど涼しくはない。但し、夜から朝にかけては気温は下がり、すごしやすい気温になる。熱帯夜になることはめったにない。

 戦国時代、諏訪の国人領主で諏訪大社上社の大祝家・諏訪氏によって治められる。代表的人物に諏訪頼重がいるが、甲斐の戦国大名武田信玄に攻め込まれ、茅野市上原城、諏訪市四賀の桑原城に篭城するがが敗れ、連行先の甲斐にて自害している。

 江戸時代、高島藩で、藩庁は高島城。以降10代にわたって、諏訪氏により治められた。甲州街道の終着、下諏訪の手前の宿場町(上諏訪宿)として栄える。

 静岡県伊東市、神奈川県秦野市、オーストリア共和国チロル州ヴェルグル市、クンドル町、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス市、そしてフランス共和国アンドレ・エ・ロワール県アンボワーズ市と姉妹都市を提携しています。また、東京都台東区、長崎県壱岐市(旧勝本町)と友好都市の提携。








 諏訪インターを出ると長野道と分かれる二股に来て左に入る。左から長野道が進入して来る。標高は800mの標識も現れ、時刻は10時15分を過ぎていたが、ここでお楽しみのビンゴゲームを始める事になりサービスエリアを出発するときに手渡されたカードを見ながら、バスのモニターに表示される番号を確認して進んだが中々リーチというか声がせず、車両長は心配になり全員に再確認したが誰一人おらず続けられたが、大分してからリーチが立て続けて声がかかり、伊北インター近くなってガイドが一番先にビンゴと名乗りを上げた。用意された賞金の入った袋が手渡された。後は暫く空いて1人2人とビンゴになり5番目からビンゴになった人から好きな封筒を自分で引き出して、封筒を覗き込んで中の賞金を確かめてガッカリしたり喜んだりして雨の降り続く窓辺は何処へやら1時間以上も楽しんだ。なかでも一番最後に上がった人は中々上がらず、もう辞めえようといわれたが“しゃくだから”上がるまで続けると徹底的に頑張り、皆から未だか未だかの催促を受けたが最後までやりきった。お互いにご苦労さん。

 時たま外を見ていると辰野PA、伊北IC、ハイウェーラジオ聴取可能区間基点表示板にはネオン文字になっていた。標識は沢山立っていたが読み切れないものが沢山あった。伊奈IC手前にはハイウェーラジオおしまいという表示もあった。伊奈IC辺りは雨の激しくビンゴも佳境に入り熱くなり始めた頃で、景色どころではなくモニターとカードをにらめっこの最中で何も目に入らなかった。
 
 左のかなり離れたところを流れる天竜川も殆んど見えず奥一面に見えるはずの山並みも雲の下が僅かに見える程度で水田とポツリポツリと家屋が見える程度で標識が現れないとここがどこか分からない。小黒川PA、駒ケ岳のICに来ると前に駒ケ岳千丈敷きへ来た事がるので見覚えのある景色だが、駒ケ岳も御嶽山も、また左側に見える中央アルプスの山々もスッカリ雲間に隠れていて残念でした。

 松川ICの数キロ間は3.7%の下り坂で正面には町並みが見え、座光寺PA付近に来ると一瞬だったが陽が漏れて明るくなったが、直ぐにもとの暗さに戻ったがチョピリ上ると飯田の町が一望でき、飯田ICにやって来た。ここは先年昼神温泉へ来た時にインターを出たところだが暫くぶりで来たが変わり映えしていなかった。今回は恵那峡ICから一般道に出るので通過し道路標識には中津川まで35キロ、恵那峡44キロと書かれていた。そして登坂車線が現れ3キロ先は阿智川SAの先、下りになり始めると三遠南信自動車道の看板が目に入った。その先は左にカーブし終わると今度は右にカーブして阿知川の上の阿知川橋(橋の長さ420m)渡る。

 山が迫り来ると恵那山トンネルのの露払いでも在るまいが青信号が4つが見え網掛トンネル(1940m)、そして園原ICの料金所が本線から見え、名高い恵那山トンネル(8490m・標高720m)も入口に信号が4つ見えるとあっという間に進入して暗闇になった。トンネル内は直ぐに右にカーブして最後は左にカーブすると岐阜県の標識が現れた。県境は神坂峠でトンネルの真ん中半分ずつが両県に分かれている。

神坂峠(標高1595m)
 昔は科野(しなの)坂、御坂、三坂として記紀、万葉を始め数々の文献にみられ、4世紀のはじめに大和から東国に至
る東山道の要路として開かれていた。西の坂本と東の阿智駅の距離は約41kmもあり険しい山道と途中に人家がない
ことから交通の難所であった。
 その一端は、日本武尊の東征の帰路、尊を苦しめようした山の神が白鹿に変じ、それを尊が蒜で撃ったという“日本書
紀”景行天皇40年条の説話や「ちはやぶる?の御坂に幣奉り齋ふ命は母父が為」という“万葉集”巻20(4402)の歌に
もうかがえる。江戸時代に木曽路が開かれたことによって、使われなくなった。
 旅人達は峠に荒ぶる神がいて、旅人を苦しめると信じていたので、越えるとき「峠神」に幣をささげて安全を祈る風習が
あり、神坂峠からは幣に用いられた千数百点の石製模造品のほか土器・陶器などが発掘され、阿智村公民館に保存さ
れていて、峠の遺跡としては唯一の国の史跡に指定されています。
 弘仁6年(815)関東に教えを広めるためにこの峠を通った最澄は、その険しさと宿がないことを知り、峠をはさんで中
津 川側に「広済院(こうさいいん)」、阿知側に「広拯院(こうじょういん)」という宿を設けました。そして、峠越えに苦しん
だ多 くの旅人が、その恩恵に預かったとされている。現在、中津川市霧ケ原と阿智村園原に、それぞれの宿の跡と伝え
られるところがある。

 トンネルを出て3キロ強で神坂PAだが、2キロぐらい手前で下り坂のなるがエンジンブレーキ使用せよの看板もある。、右の下の微かに見える道路の先には馬籠宿もある。左にきつくカーブして落合川を渡り5.8%の下り山間を幾つかカーブし終わると中津川ICになるが幾つかの陸橋が上を跨いでいる。ICは素通りして3回目の休憩場所恵那峡SAへと向った。












恵那市

市制:
平成16年10月25日
市章:平和と円満と協力を表徴し、輝き昇る陽の
中を飛ぶ鳥は、市の飛躍と発展を表している。
東経:1372457"
北緯: 35
2646"
面積:504.19ku
人口:56,716人・外人登録も含む
男、27,421人・女、 29,324人)
世帯数:18,890世帯
平成19年8月1日現在
市の木:ハナノキ 市の花:ささゆり 海抜:278.5m

 恵那は元々中山道の宿場町であった。美濃16宿(落合、中津川、大井、大湫、細久手、御嵩、伏見、太田、鵜沼、加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井、関ヶ原、今須、柏原)の内の大井宿で、中津川宿と大湫宿に挟まれ本陣・脇本陣・旅籠屋41軒と美濃16宿の中でも最大のものであった。敵の侵入を防ぐために道が直角に曲がる枡型が6ヶ所にもありきわめて珍しい街道になっている。市内11.2kmの道のりは徒歩で約3時間。名古屋側の槇ヶ根追分は上街道(中山道)と下街道(名古屋・伊勢方面)の分岐点になっていた。大井宿は、江戸から87里(約342km)、数えて46番目の宿場町です。 

 大井橋のたもとには、宿場のあらましを記した案内板が出ている。江戸時代後期の天保14年(1843)の大井宿の家数は110軒、人口は466人を数え、旅籠41軒、茶屋8軒があった。講宿や近江商人の定宿となっていた旅籠もあり、茶屋ではワラジ・蓑・砂糖餅・果物などを売っていたという。宿場の長さは、710m(6丁)ほどであった。

 JR中央線恵那駅から明智まで明知鉄道が通っている。5つ先の岩村駅には県指定の史跡・岩村城跡
がある。
 県指定史跡。蛇の骨を霧ヶ井という井戸に投げ込むと、霧が深く立ちこめ城を覆ったという伝説から霧
ヶ城ともいわれる。日本3大山城(岩村城、岡山の備中松山城、奈良の大和高取城)の一つで、最高の
標高721mの所にある。
 築城は1195年源頼朝から遠山荘(今の恵那市、中津川市)を拝領した加藤次景廉の嫡男景朝が行
い遠山に改姓した。戦国時代の元亀2年(1571))城主の遠山景任が病死すると信長が送った5男の
御坊丸(勝長)の後見として未亡人おつやが女城主となった。

 1年後に岩村城は武田信玄の西上により落城した。本能寺の変までの80日間森蘭丸が城主の時も
あった。江戸時代は松平3万石、岩村藩の所有。明治6年明治政府により建物は取り壊され売却された


 近くには平成元年に国土問題研究会から「日本一の農村風景」といわれた展望台からの岩村富田地
区の眺めが見える。

寒天

 天草などの海藻から抽出した粘質物を天然の寒気で凍結乾燥したもの。ところてん、みつ豆などとして食用、ほかに広く料理,製菓,緩下剤,オブラート原料など医用,細菌培養基などにも用いられる。
 天然寒天は、江戸初期の1600年代に京都の美濃屋太郎左右衛門が発明し、最初は「心太の乾物」といわれたが黄檗宗開祖の隠元和尚により「寒天」とされた。
 岐阜県では大正14年に岩村に「三岩寒天製造所」ができたのが最初とされる。山岡町では昭和初期から始まり、現在では「天然細寒天」の全国の8割以上を生産する。



秋木川ダム
(恵那市東野)
 洪水調節・維持用水・新規利水の目的で1981年に起工し
1991年に完成の阿木川(木曽川の支流)をせき止めたロッ
クフィルダム。高さ101.5m、堤長362m、堤体積約490万
㎥、総貯水容量4,800万㎥。中央高速道からもダムの堰堤
が見える。周辺にダム資料館、公園、テニスコート、広場など
がある。

 20分間休んで12時30分に出発しR500の右カーブに続き右左に幾多もカーブすると恵那ICに到着。ETC使用なのでそのまま料金所を通過して左にに曲がり高速下をくぐり、恵那峡入口の信号を右折して、高速沿いに1キロばかり走り左に曲がり阿木川に沿ってジョモを過ぎると長島西交差点で右に曲がり、河鹿橋を渡り阿木川の支流を越えて左に曲がり更に左に1.5キロも行くと昼食場所(三菜園・岐阜県恵那市大井町恵那峡・電話 :0573ー26−3195)に着いた。

 三菜園の美濃焼きセンター前の駐車場に着き、セトモノを見ながら別棟のうたげ小路を抜けて、和風ガーデンの中央に座って庭園を
眺めながら和食(ふるさと膳「さわら」夏用1365円)と4人1本のビールを飲み50分間の昼食時間を持て余した。昼食そのもは口に合い残らず平らげた。雨が降っていなければ評判の庭の散策したり展望台からパノラマの景色も眺められたが、今日は店内をブラブラ時間まで歩いて過ごした。

恵那峡

 民謡の「大井栄舞」「大井恵那峡とんとん節」を作詞。恵那峡のさざなみ公園に「薄のにしろくかぼそく立つ煙あはれなれども消すよしもなし」の歌碑がある。1918年の来恵那時に詠んだ即興詩が長島町永田の白秋歌碑に刻まれている。

大井ダム
 わが国水力発電の親、福沢桃介(ふくざわももすけ)
の手で木曽川がせきとめられ作られた、重量ダムとし
て日本最初・最大・最新の当時では前例のない大規
模ダム。
 堤高53.9m、幅275.8m、総貯水量2,783㎥。大
正10年6月着工、同11年7月本体着工。13年(192
4年)11月28日完成。
 12月から出力48,000kwで阪神方面へ送電開始。
 昭和58年(1983年)にされ、計80,000kwの発電
能力。 
 大同電力(現関西電力)が大正13年に日本で初め
て建設した水力発電用ダム。関西方面に送電してい
る。発電所は現在無人で、八百津制御所で遠隔制御
されている。設備は更新され、52,000kwの発電能力
を持っている。
笠置ダム
日本の電力王と呼ばれた福沢桃介(ふくざわももすけ)により、昭和11年(1936年)に難工事のすえ、大
井ダムの下流に完成したのが笠置ダム。ダムの建設によって生まれた風光明媚(ふうこうめいび)な人造
湖と峡谷は笠置峡と名付けられた。

 恵那峡のダム湖北側にある遊園地。恵那峡を見渡せる大観覧車や、大車輪が傾きながら回転する絶叫マシンのエンタープライズなどが人気で、30種類近くある。その他、展望ガーデンやフラワーガーデン、天界洞、天界橋、キャンプ場などもある。

恵那峡ワンダーランド (遊園地)

〒509−8301岐阜県中津川市蛭川村5735−209
TEL:0573−45−3333・ FAX:0573−45−3334 
恵那峡ワンダーランドは、2001年に閉鎖された恵那峡ランドを、リニューアルオープンした遊園地。
入場料金;大人(中学生以上)700円 子供(3歳以上)500円
乗物料金;全機種オール 300円・とくとくパック2800円







日本映画ロケ地
「青い山脈」1957年(昭和32年)に1週間ロケーション。中津川、恵那が撮影場所。東宝としては最初のシネマスコープ
                     総天然色映画。1作目は伊豆で撮影された。宝田明・司葉子・雪村いずみ・水谷良江。

これ以外の映画としては 
「流賊黒馬隊」(昭和27年、東映、市川右太衛門、長谷川裕見子)
「山を守る兄弟」(昭和28年、東映、美空ひばり、東千代之介)
「青蛾」(昭和22年、松竹、木暮実千代=大井ダム・恵那峡)
「夜明け前」(昭和28年、新東宝、滝沢修、乙羽信子=馬籠・落合)
「白馬童子」(昭和30年=根ノ上高原)
「月笛日笛」(昭和30年、東映、伏見扇太郎、千原しのぶ=旧坂本練兵場)
「憂愁平野」(昭和37年10月、東宝、森繁久弥、仲代達矢、新珠三千代=恵那市大井町古山家・古屋家)
「男はつらいよ 第44作 寅次郎の告白」松竹、=蛭川

 






 
昼食場所の三菜園を出たが、どんなルートか詳しく分からなかったが気が付くと雨が横殴りに吹き付ける恵那峡大橋を渡っていた。渡り切った蛭川は中津川市になっていた。恵那峡の入り江や遊園地も大まかにしか見えないが壮大さは手に取るように分かった。遊園地を巻くように走り蛭川の町中からガイドの説明では抜け道を少しばかり走ると説明が聞こえてきた。岩寿温泉旅館岩寿荘の看板には鯉料理をお楽しみにと書かれ、やがて下呂高山の指示標識があって、往来する車もない雨の山道だがスムーズに走りやがて付知川を渡り三叉路に来た。想像していたよりも家屋が密集して橋は高台だったので町中が一望でき、下流には生活道路の赤く塗られた橋も見えた。町の名前は福岡高山という所で500mも行くと国道257号線の信号のある高山交差点だった。雨でバスの窓からは流れる滴が邪魔をしてヤット見える程度で合流をあっという間に通過してしまった。

 2キロ足らずも行くと信号が見えてきた。道路の両側は山が迫り来ている訳ではないので、点在しているとはいえ住宅や多分木工工場の大きな建物も見え、信号のある交差点を過ぎると、右側にはジョモやエネオスがあり、左にはコンビニかスーパーの“ユーロンストア”スマイル福岡店が見え、(酒・生鮮食品・生活雑貨・生花・テレビゲーム・駐車80台)などと書かれた看板に、反対側には岐阜信用金庫もある。ここから3.5`も行くと256号線が合流する下野交差点を過ぎ、20分間予定の休憩場所白川園本舗福岡城に40分かかって到着した。


中津川市


 中津川市は岐阜県の東南端に位置し、東は木曽山脈、南は三河高原に囲まれ、中央を東西に木曽川が流れ、恵那山をはじめ中央アルプスを配し雄大な自然に恵まれた町。

本庁舎位置・東経137°30’12”0・西経35°29’7”3・海抜323.11m

市制 昭和27年4月1日  
人口   平成19年5月末
世帯数   平成19年5月末
面積 676.38ku 東西28km・南北49km
東極 阿木丸山 東経137°38’
西極 加子母舞台峠 東経137°19’
南極 阿木三森山 北緯 35°21’
北極 加子母三国山 北緯 35°48’

平成17年2月13日・合併時現在

区     分

中津川市

付知町

福岡町

山口村

坂下村

川上村

加子母村

蛭川村

人口(外国人含)   56,423    6,879   7,428   2,043   5,520   1,031   3,477   3,881
世帯数(同じ)   19,198    2,019   2,154     659   1,748     302     994   1,039
面積 (ku)   275.98    73.36   84.29   23.67   29.77   29.33  114.16   44.82
市町村の木




高野槇


ヒノキ


高野槇


ツバキ


椛の木


ヒノキ


ヒノキ


ヒトツバタゴ

市町村の花




サラサドウダン


石楠花


紅満天星


紫ツツジ


ツツジ


フジ


ササユリ


シュンラン

市町村の章


 中山道69次のうち、46番目に当たるのが中津川宿です。家数は228軒で、旅篭屋は、大小あわせて29軒あって商業の中心地として栄え、町並みは長さ1100mで本陣・脇本陣・ 2軒の問屋、庄屋宅があったとされています。庄屋宅や卯建(うだつ)を持つ家が今も残っている。 島崎藤村の「夜明け前」の舞台となった中津川本陣や、維新時代の中津川会議の開かれた桂小五郎の隠れ家「やけ山」などが残っている。中央線開通(1902)後は近隣町村の商業中心地となり、また機械、製紙などの工業都市として発展。

 1952年に市制施行。2005年2月13日恵那郡北部、長野県山口村と合併し 現在の人口は約87
,000人。市の木は「コウヤマキ」、市の花は「サラサドウダン」。

 雨が土砂降りの休憩場所の駐車場には他の観光バスが3台しか入っていなかった。城を模した建物内でお茶の持て成しが行われていたので傘も差さずに入城した。正面に試飲のサービスコーナーになっていて小さな湯飲みに注いでくれた。昼食から1時間も経っていなかったが美味しく味わった。お土産コーナーには新茶がズラリと並んで、白川茶・深むし茶・水だし番茶が一袋2000円〜3000円ほどで売っていたが日頃買物をしない私には値段が高いか安いかは分からない。2階には宴会場、座敷(円空像など)は靴を脱いで、お茶で休憩もできる。外に出ると堀があり錦鯉が悠然と泳ぎ、周りに植えられたツツジは満開だった。駐車場を挟んで反対側の特産産品売店では漬物・お菓子などのみやげ品が山積みになっている。館内には演歌が客層に合わせたかのように流れて気分を和らげていた。休憩時間も20分が短く感じバスへ急いだ。

 休憩場所を出ると、点在する家の間の畑も多くビ二ールハウスなども見受けられたが何が栽培されているかまでは分からなかった。付知川は道路脇を流れゴロゴロ転がる石が点在し、岩にぶつかって白く波立ち流れを感じた。1分も走ると頭上に木で拵えた歩道橋が現れた。ガイドの説明でこの地方では木工を主産業のとする家々が道路を挟んで営業していると聞かされていたが、まさか角材や板で拵えた歩道があるとは聞いた事も見たこともなかったが大変驚いた。その上歩道側には6角形の東屋風の屋根がついていた。1`先で付知川を渡りそれから先はズウット右側を流れ中津高校恵那北校入口まで並行していた。ここから5.5`も走ると付知町の中心部だが、3`ぐらい手前の稲荷と書かれた信号で道路は二股に分かれた先に付知川の橋を渡ると1`先には右に付知南小学校、少し先左には道の駅・花街道センターがあり、付知町総合事務所が川向こうの市街にある。

付知町総合事務所(平成17年2月13日・合併・東経 137°25’50”・北緯 35°39’20”、海抜 465m)
 北東部は飛騨山脈の西端に交差する阿寺山脈に属し、山岳地帯となって長野県と境界をなし、西部は海抜600m前後の丘陵地帯となっている。この東西の両地帯を分けてほぼ中央を流れる付知川が南下し、その両側に沿ってゆるやかな平坦地が開けた。町の中心を北西-南東方向の活断層・阿寺断層が通過しており、断層谷に沿って付知川が南流する。 主な集落は付知川沿いに分布する。付知川の最上流部は付知峡と呼ばれる渓谷を形成している。 付知峡は森林の森日本100選に選ばれており、複数のキャンプ場がある。

 五月のゴールデンウィークには第17回つけち森林の市(木のゴールデンウイーク)木工業・建築業及び関連事業者が加わり職人の町に相応したイベントも道の駅にある花街道センター内で開かれ、建築材としてはブランド品として名高い東濃ヒノキの産地でも有り、ヒノキ特有の心地よい香り、柔らかな木肌と美しい木目、そして木の持つ温かみは製品を通して、座卓・花台・衝立・変木・奇木など2つとない珍しい木・インテリアとしての彫刻品
などなど。

中日新聞東濃版
 付知の2つの小学校では2000年の2学期の始業式から6年生全員(90人)の机と椅子が町特産のオール
桧作りに変更された。従来は合板とスチールの何処でも使われているものと一緒だった。今年から高学年より
6年かけて全部取り替えることが決まった。値段は倍以上かかるが町の産業の基になる木の温かみを子供た
ちに伝え、地域の産業振興を考えふみきり
付知町商工会木工の会(早川直彦代表・23業者)が地元の材料
と技術を使って木の温かみを21世紀に生きる子供たちに伝えたいと、学校と町に要望
当町の主要産業は
木材産業であると私達は自負しいてます。小中学校での社会教育の1つとして地場産業の視察、体験
授業もあると思います。私達、木工業界では昔ながらの伝統を継承しつつ、近代技術も取り入れ現在の
ニーズに沿った物造りを行って生活をしています。今般、小中学校の学校での学習机・椅子を「木材の
町・職人の町」を子供達の肌に触れて育ってほしい、それがひいては、私達の後継者作り、又、将来の
付知町の活性化につながると考え要望致します。)
し町教育委は従来の合板スチール製だと1万円程。こ
れに対し今回切り替えた桧製は1組2万6000円。町内には南北2校があり、今回6年生90人で234万円か
かった。概算では6年間で全部切り替えると460組・約1200万円かかる。桧の机は、これまでの机に比べ広
く習字や図画の授業も楽に使えそうで、6年生の生徒たちは一様に“新しくて気持ちいい”を連発して評判は上
々。(2000年8月28日・木曜日)

木目 (もくめ) grain
 板を製材したときに現われる年輪などの模様。木理のこと。板目、柾目、杢目に大別される。
板目 (いため) flat grain
 丸太の中心からずれて挽くと、年輪が平行ではなく山形や筍形の木目が現れ、これを板目と言う。
柾目 (まさめ) straight grain
 丸太の中心に向かって挽いたときに現れる年輪が平行な木目を柾目と言う。板目と比べ歩留まりが悪くコス
ト高になるが、反りや収縮などの狂いが少ない。
杢目 (もくめ) figured grain
 木目などの紋様で、特に装飾価値が高い紋様を「杢」と呼んでいる。ブナ科の虎斑杢やメープル等に現れる
鳥眼杢、トチ、シカモア等の縮み杢の他、縞杢、葡萄杢、牡丹杢、鶉杢、如鱗杢などがある。

 現代でも伊勢神宮の20年目ごとに行われる遷宮に御神木(御樋代木・御船代木)を木曽山(東濃森林管理署)にて伐採し、神宮へ送りだす。「みのの国つけち山」などの名称が記録されていることから「付知」の呼称はかなり古くから使われていたようであり、かつ山林資源の豊富な村であったことがうかがえる。戦国時代になってからは織田、武田の抗争及び豊臣の台頭により、領主の交代が頻繁に行われた。

 その後、徳川時代になり尾張藩に所属したのであるが、山林行政にあっては山林に精通していた木曽、山村氏に支配されており、寛文5年(1665)からは山林役所が設けられ尾張藩の直轄支配となっている。

 こうした措置は、ヒノキをはじめとする良質な大木が生産されていたことによるもので、その規制も年と共に厳しさを増し「桧一本、首一つ」の言葉は当時の林政をよく物語っている。

 伊勢神宮の御正殿を新しく建て直す際に執り行われる諸神事(遷宮に際し約33もの神事が執り行われるが、3番目に行われるのが御杣始祭)のうちのひとつで、御杣始祭の「御杣(みそま)」は遷宮の御用材を伐り出す山「御杣山」から由来している。

 神宮式年遷宮の歴史は古く、西暦685年天武天皇の代に定まり、690年持統天皇の代には1回目の神宮式年遷宮が行われ、その伝統は受け継がれ今回の神宮式年遷宮(平成25年予定)で62回目となる。

 「神路山」「高倉山」(現在の伊勢市南部の神宮の宮域林)に御杣山は定められていたが、木材の欠乏もあり、江戸時代(宝永6年)の第47回神宮式年遷宮で初めて木曽の湯船沢が御杣山とされてから木曽で行われる御杣始祭は今回で22回目を数える。

 ご神体を納める器に使われる木材の伐採式が、2005年6月5日、中津川市加子母の裏木曽国有林で行われ、
杣夫(そまふ)と呼ばれる人たちが声を掛け合いながら、3つの方向から斧を入れる伝統技法の三ツ紐伐(みつひもぎ)りを行い、樹齢300年のヒノキ2本を切り倒し、切り出された御神木は、6.6メートルの長さに切りそろえられたあと、付知町の護山神社に据え置かれ6日には、奉送祭や御神木を運ぶ「お木曳(ひ)き」が行われた。

 木遣音頭は民俗芸能としての価値よりも、神聖な神事として伝承されてきたことを高く評価されるべきである。「大一」の幟を先頭に、法被姿に手甲、脚絆、草鞋ばき、腰には腰皮をつるし、指揮者が采配を握り、声高らかに音頭をとれば、全員これに唱和する。
 この神事によって地域の住民が数百年に亘る長い年月、森林を愛護し広大な自然を守り、山は鳥や獣の安住の地となりそれが治山治水に役立ち国土保全に果たしてきた効果は計り知れないものがある」と評価し、岐阜県重要無形文化財にも指定された。

 などとバスガイドの説明は刻々眠けに襲われながらも耳に入ってきた。伊勢神宮で20年経った御神木も次の行き先も、その次の行き先も決まっていると聞いたが、どうにも思い出せないので書くことが出来ない。ただ300年以上も木曽の山中で育まれた桧が20年ばかりの歳月で無駄に処理されていないことだけは良く分かった。

 雨の降りしきる道路だったが視界は頗るよく、バスガイドの説明も何時もならカラオケで賑やかな車中では、出番もないが今日はタダタダ素直に聞く耳を持ったせいかよく理解でき人生死ぬまで勉強ということを地で行く気分だった。山梨の南アルプスの山、そして、八ヶ岳山ろく、諏訪湖周辺、
付知町で伊勢神宮の式年遷宮話といい、カラオケを歌い扱けっていては聞きける話ではない。

 町並みも途切れがちになると左側を流れていた
付知川も、サークルKの店を過ぎると橋を渡り右側になって、二股になった付知川渓谷入口の信号から右に反れて消えて見えなくなった。幾分上りながらカーブが多くなって700m以上ある塞の神トンネル、塞の神トンネルを抜けると急な下りが続き、1.5`も行くと200m足らずの飛出山トンネルを出ると前方が開け、256号線は左に分かれて行った。
 
 この交差点は万賀と信号機の横に表示されていた。交差点の周りには家が建ち並び、昔の田舎の万屋のような郵便ポストがあったり、宅急便の幟がはためいたり、喫茶店のような寛ぎ場所や商品も並んでいたような建物があった。暫くすると加子母川(白川)の流れが左に現れ、目指す舞台峠までは8キロ以上もある。

 右側にはサークルKがあり、左に材木がゴロゴロ、積み上げられて直売されているらしい銘木東濃桧原産地・間伐材直売(間伐材利用推進センター・森林組合の木材市場と加子母林材振興会の事務所)と屋根の上に看板がたっていた。僅か先には道の駅ゆうらく館、郵便局、消防署が次々に目に入った。

 この辺りには、加子母総合事務所がある。昔から裏木曾と呼ばれており、伊勢神宮の20年ごとに繰り返される遷宮のご神木を切出す神聖かつ山深いところである。標高は720m、年間降水量は2,400mm、平均気温は11.5℃で、盛夏でも30℃を越える日は少なく、ナス、トマト、お茶等の栽培が盛ん。交通機関は、村を還流する加子母川に平行して走る国道257号線のみで、村落も川に沿って帯状に形成させている。平安末期には既に、加子母より木曽谷への道が有ったようで、唐塩山と高時山の間の木曽越峠を越えて渡合に至り、さらに、白巣峠を越えれば大滝村滝越へ、真弓峠を越えれば氷ヶ瀬に至る道である。

 川の流れは付知川の流れと殆んど変わらないので、居眠りしていたら加子母川とは気が付かないだろう。家も時たま目に入るぐらいで寂しい空間だったが、村の中心部らしい所に来ると、バスガイドがいきなり左を見てくださいというのに促がされて、緑濃く育った田んぼの稲とその先の川向こうには、平凡な平屋建てが7軒並んで、その後ろに4軒連なり建っていた。村営の総桧作りの分譲住宅だと説明された。総桧作りと聞くと羨ましくも聞こえたが、今の都会では高嶺の花と、遠くて大きさも見当もつかなかったがさぞかし立派な地元の山から生産された材料で建築されたものだろうなと、ボンヤリ眺めていた。

 時間にして2分ばかり離れた所には、左の川向こうの高台に“日本の木の家づくり集団 (協)東濃ひのきの家”と白壁に大きく書かれた工場風の家が2棟建っていた。並行して流れていた加子母川も加子母大橋を渡ると一気に右の山の中に消えていった。舞台大橋をを過ぎると峠になった。

 雨の舞台峠は視界が悪く殆んど見えずバスガイドの説明を大人しく聞いている以外寝ているしかなかった。標高約693bの峠で古来飛騨の国と美濃の国を結ぶ国境であった。現在は国道257号線が走り、登り口以外は比較的ゆるやかなカーブが続く峠である。

 舞台峠の名前には由来があり、「鎌倉時代、時の執権北条時頼が、大威徳寺に参詣の折り、この峠に能舞台を設け疲れを癒し、民衆にも鑑賞させた。以後、この峠を舞台峠という」と、峠に建立された石碑にはある。また、鎌倉幕府2代将軍源頼家が父頼朝によって立てられた大威徳寺(語有家のふもと)へ参詣したときに、峠で一服し、猿楽を鑑賞したことから名付けられたという節もある。いずれにせよ鎌倉幕府にとって大威徳寺があるこの地は重要な地であり舞台が作られた。大威徳寺は弘治2年(1556)に飛騨の三木氏が東濃の遠山氏とここで戦った時、兵火にかかり焼失してしまいました。さらに天正13年(1585)11月29日の飛騨大地震のため全く壊滅してしまいました。









下呂市

 下呂市は益田郡萩原町、小坂町、下呂町、金山町、馬瀬村の合併により平成16年3月1日に誕生した新しい市。千年の歴史を持つ下呂温泉。山の頂の湯壷に始まり、河原に湧き出た温泉は訪れる人々の心と体を癒した。急峻な地、南飛騨の湯治場はやがて温泉地となった。

 傷ついた白鷺が発見したという伝説のある下呂温泉は、兵庫の有馬温泉、群馬の草津温泉と並ぶ日本三名泉の一つで、84度という高い温度で湧いている天然温泉。河原にも温泉が湧き出ていて、そこでも入浴できる。

 岐阜県の中東部に位置し、北は高山市、南は加茂郡、西は郡上市、関市、東は中津川市と長野県に接している。ほぼ中央を飛騨川が南へ流れ、西には馬瀬川があり、御嶽山をはじめ河川の両側には山並みが迫り、飛騨木曽川国定公園や県立自然公園なども位置する自然豊かな地域。また、飛騨川に沿って国道41号やJR高山本線が通り、横断する形で国道256号、257号が通じる。

市役所(下呂庁舎)の位置 東経137°14′49.0″・北緯35°48′10.8″
面積 85,106km2
人口 38,688人(男18,547人・女20,141人)
世帯数 12,865世帯・平成19年4月1日現在
海抜 365.7m
市章 平成16年6月21日(応募は全国から826点)

 舞台峠をが下呂市との市境だった。下り坂の緩やかなカーブを下っていると、雨のわりには周りの景色はハッキリと見え、前方にヘヤピンカーブがあることもよく見え、ヘヤピンカーブも難なく曲がりきって1`足らずで右側に流れが見えてきた。野尻の信号辺りから川幅も広がり角にはコスモのガソリンスタンドがあり、川の名前も竹原川と分かり、通称南北街道ともいわれる257号線も擦れ違う車も余りなく、ガイドの説明に耳を傾けたり居眠りしながら、宮地の信号手前で橋を2つ渡り、右から乗政川が合流してきた。信号の右側にはコスモ・エネオスと間髪入れずにガソリンスタンドが並んでいた。左にはサークルKもあった。
 
 急カーブを曲がっているとコンクリートの橋脚に赤く塗られた橋台の橋を左に見ながら通過して、野尻の信号辺りから2.5`も行くと2キロ足らずの竹原トンネルに入った。そしてやや大きくカーブすると“飛騨川カントリークラブ”、“自然を大切にしましょう”下呂ロータリークラブの看板が目に入った。

 左側には赤く塗られたアーチ形の橋と青色に塗られた橋が見えてきた。橋の横まで来ると赤い方は水道橋であった。青い方は上り線と下り線が別々に分かれた国道41号線で帯雲橋だった。道路沿いに付き合って来た竹原川は橋の手前で前方から流れてきた飛騨川と合流して左に去って行ったが、今度は飛騨川が高山市内まで付き合ってくれる。
 
 道路も国道41号線と合流して狭い谷あいを流れ、川向こうをJR高山線が走り、民家は更に山肌に張り付くように立ち途切れ途切れになりながら3キロ強続いている。道路も川岸をくっ付くように走りやがて高台に上ると下呂の温泉街が一望できた。今日最後の見学場所が雨の“下呂温泉合掌村”なので、一先ずお別れして坂道を更に上り5分で到着。見学時間は50分。

下呂温泉合掌村

 「旧大戸家住宅」をはじめ、白川郷より移築した10棟の合掌造りの民家を配し往時の生活を知る貴重な博物館。村内には、散策の疲れを癒す「合掌の足湯」や、全国の有名劇団による旅芝居の公演が観劇できる演芸館「しらさぎ座」、陶器の絵付け・紙漉き体験・飛騨の味が楽しめる「民芸の郷」、狛犬を約200点展示した「狛犬博物館」。

 事務所・売店の(旧大溝家)の入口で入場券を一枚ずつ貰い狭い通路を通り中に入った。庭は雨でぬかるんでいて水溜りを飛び越えながら、各人思い思いにに各棟に入っていった。左に“しらさぎ座”、食事処の合掌茶屋(旧伊並家)右に民族資料館(旧岩崎家)、竹原文楽記念館、板倉、手前に“合掌の足湯”と並び夫婦杉が立ち、一番奥に“国重要文化財“旧大戸家住宅”と7軒の大小の合掌造りがあった。

 更に奥に進むと左には“ふるさとの杜へ”地下道がある。時間と雨降りだったのでそちらは遠慮した。入口で貰ったパンフレットの資料には“ふるさとの杜”はこんな施設だった。杜の生活文化、木材資源を利用する新技術の紹介をする「森の未来館」「山のくらし館」「かえる神社」の5つのパビリオンと、サイクルモノレール、ミニアスレチックゾーン、全長約175mの滑り台スーパーローラースライダーやドリーム館「プラネタリウム」がある。

  旧大戸家住宅は、広い1階は囲炉裏のある客間大広間に台所、女性の部屋など、2階は養蚕の部屋になっていた。階段が急勾配で、38代も続く豪農の家を原型のまま移築した立派な建物。釘を一本も使っていない建築法が特徴で、間口21m、奥行12.3、内部は合掌造では最大級の4階建て。しかも完成まで13年もかかった。

 ここ合掌村では足湯が無料。しかもタオル完備。温泉地・下呂の心意気を感じ夏の足湯は暑いって思ったけど、汗ばんだ足がさっぱりしてとってもキモチよかった。施設面積は約30u、浴槽面積は約6.7u、深さ約28cmで、一度に16人が利用できる。板塀、腰掛け板はヒノキ製で、湯口は小川石を使っている。


 名声名高い 下呂温泉足湯に入ってみると、お肌がすべすべつやつやになり、自然の温泉成分を肌から吸収し元気が温泉と一緒に湧いてくる。今も昔も名湯の証。
 散策の後は足湯に入って疲れた”からだ”と“こころ”を癒す。

飛騨高椅神社御縁起

(料理の始祖神の3体合祀は全国でこのお宮だけ料理の上達食べ物に一代不自由しない守り神)
当社は、益田調理師会の調理師法施行15周年を記念し古来、料理の始祖神と仰がるる。
「盤鹿六雁之命」(栃木・小山市)高山神社、「櫛八玉之神」(島根・出雲市)火守神社、「山陰中納言藤原政朝卿」茨城総持寺の御三分を御配祀申し上げ、その御威徳を顕彰し調理の精進を祈念して昭49年3月に建立された神社であります。

追記爾来、風雪に耐えること30年余鞘殿本田覆い」の御造営を益田調理師会創立50周年記念事業として御奉献申し上げるものであります。

御祭神と其の御事跡(略記)

盤鹿六雁之命

命は、孝元天皇の御孫比古伊奈許志別命」の御子にして、景行天皇(日本武尊の御父)東国巡狩の砌「膳夫」として供奉し給う。上総より海路淡水門に渡り給いし折に海中より白蛤を得給う。従いし命此の白蛤と堅魚にて「膾」を咋りて献ず。
帝、賞味し賜いて「膳の臣」賜う。爾後「大嘗」「神嘗」の「大神饌」に仕え奉う。命、老齢の為、此の地に永住し、後代(12世)に至り「高椅朝臣」を賜い以後高椅の性を名乗る。

櫛八玉之神

「古事記」に、≪「大国主神」出雲ノ国にて「御国譲り」の砌「水戸神」「櫛八玉之神」をして、多芸志の小浜に「天の御餐
」造らしめ「膳夫」と為し「天の御餐」を献ず。
時に
「櫛八玉之神」鵜と偽り給いて海底に入り、「波邇」を咋出て「天の八十昆良迦」咋りて「真魚咋り」を献じ給う≫と在り、古来「料理の始祖神」と仰がれています。

四条山陰中納言藤原政朝卿

平安朝の頃、四条流庖丁の始祖として光孝天皇と共に料理の掟を定め、亦「鯉の36鱗の御法」を始めた御方で、料理諸流の始祖とされております。以後四条流に続いて斯道一流の開祖と仰がれております。
                                         昭和49年3月祥日
                                                飛騨高椅神社 



 市倉、漉倉、菱太陶房の3棟の合掌造りでは、イワナ・アマゴ・アユの炭焼き、笹寿司、こんにゃくの刺身などが賞味でき、手すき和紙づくりの体験や、一見難しそうな絵漉なら簡単、茶わんや皿の絵付けができ、オリジナルの色紙や葉書が作れる。

 
また、平成5年7月にオープンした狛犬博物館は2階建で床面積は約500・。外装の腰壁は、なまこ壁で土蔵風の建物となっている。1、2階は、狛犬の展示室と温泉街を見下ろす展望台もある。展示する狛犬は、木彫り、石造り、陶製、絵画とあらゆる種類に渡っており約200点あり、特に木彫りのものは、日本一の収集量。年代は、平安、鎌倉、室町、江戸時代から、最近の有名作家の作品まであり、中国など外国のものも多数ある。

 狛犬は「高麗犬」、「胡麻犬」とも書き、神社の入り口や拝殿の前などに置かれている一対の獣像で、原形はインドにおけるライオン像。それが中国大陸から朝鮮半鳥を経て日本に来た。沖縄県では「シーサー」といわれる獅子が各家の屋根に魔除(まよけ)として置かれているが、神社の狛犬も同様に守護と魔除のために置かれている。一般的に狛犬は、二匹で一対になっていて、一方は口を開け一方は口を閉じ「阿吽(あうん)」を表している。口をあけているのが「阿(あ)」。物事の始まりを表し、閉じているのが「吽(うん)」。物事の終りを表わす。阿形(あぎょう)が獅子、吽形(うんぎょう)が狛犬というのが本来は正しいようです。

 下呂温泉合掌村の入村者が2007年8月6日、通算1000万人に達し、施設内の合掌の里で記念セレモニーが行われた。合掌村は昭和38年、合掌造り家屋などを白川村から移築し「飛騨郷土館」として開館。昭和44年に「下呂温泉合掌村」に名称変更し、現在は十棟の合掌家屋や狛犬博物館、ふるさとの杜などが点在する。下呂温泉随一の観光施設となっており、開村から44年目での大台達成となった。








水明館

式次第 
第一部 ・ 司会 岩井義治)
・開会の言葉 …………………→箭野  豊 副会長
・会長挨拶(代読)  ……………→岩井義治 幹事長
・ご来賓挨拶 …………………→渡邉直樹 支店長
・会計報告 ……………………→平子  力 会  計
・役員紹介 ……………………→岩井義治 幹事長
・日本舞踊(お祝い) …………→鈴木奈加    様
・乾杯発声 ……………………→川合  昇 副会長
             (懇親会)

・閉会・大締め  ………………→行方康之 副会長
                    (6時〜8時30分)

第二部 ・ 司会 金子 進
・ 1.日本舞踊(1名) →2号車
・ 2.日本舞踊(2名) →2号車
・ 3.日本舞踊(2名) →2号車
・ 4.カラオケ  ………→1号車
・ 5.カラオケ  ………→1号車
・ 6.カラオケ  ………→2号車
・ 7.カラオケ  ………→1号車
・ 8.カラオケ  ………→2号車
・ 9.カラオケ  ………→1号車
・10.カラオケ  ………→1号車
・(ジャンケン大会)
・(抽選会)
・(流し踊り)すみだ音頭
四十周年記念 吾嬬旅行介御一行様

   御献立
一、先 附  冷製茶碗蒸し
        白木耳 生湯葉 生雲丹
        鼈甲餡 山葵
一、前 菜  水無月荏胡麻豆腐 小豆 美味出汁
       小芋柚香ゼリ掛け
       焼エンリギ 鰻の笹巻寿司
一、凌 ぎ  茶蕎麦
        とろろ芋 なめこ 山葵 海苔
一、煮物碗  清汁仕立
        湯葉真丈 縮緬鱧 生水前寺海苔梅肉 柚子
一、造 里  鯛重ね造り 鮪平造り 間八剣大葉 山葵 穂紫蘇
一、焼 肴  鮎蓼酢焼き
        ワイン梅 青唐辛子土佐和え
一、名 物  和牛味しゃぶ
        水菜 柿の木茸 白葱 椎茸
一、焚合せ  三枚肉の柔煮
        
小玉葱 オランダ茄子 ミニアスパラ 馬鈴薯餡 粒芥子
一、酢 肴  蝦蛄と竹原蒟蒻
        青芋茎 芥子酢味噌 茗荷
一、御 飯
一、 汁   袱紗仕立
        蓴菜 陸蓮根とろろ 三つ葉 粉山椒
一、香の物  三種盛り
一、水 物  メロン
         都合により内容が変更になる場合もございます

                           水明館

 ホテルに着く前に聞いた名物の源泉は「下呂大橋」のすぐ下の川原には石でかこった噴泉地、入泉無料の自然の野天風呂がある。まるみえになるが一度は入りたい風呂でもあったが雨降りの夜は危険だったので部屋で飲んだくれ。

 翌朝は7時過ぎに目が覚め昨夜の二次会の酒もスッキリ蒸発して朝湯に入り、朝食は御膳でユックリ食べ、到着時にロビーでの集合写真や宴会場の写真を買って、部屋に戻り、チョッピリ布団に横になり寛いでから下に下り、土産を買ってバスに乗り込んだ。

 今朝方まで降り続いていた雨も殆んど止み、エンジンがかかりバスは出発となると女将や支配人、従業員が両側から手を振って見送ってくれた。左に折れ駅前の通りを右折して下呂大橋を渡り、国道41号線に入り、すぐ下呂トンネルを潜り温泉街から来た道路と合流して飛騨川沿いに“歓迎下呂温泉”と書かれた塔を左に見ながら、薄っすら霧がかかった山を見ているとバスガイドの朝の挨拶車両長の挨拶と続いた。

 バスガイドの説明では、ここは当然の如く下呂だが先へ進むと中呂、上呂と町の名前があるといわれ、一先ずなるほどと納得し、この地へ3度も4度も来ていたが何の疑いもなく下呂下呂といって何か他のものを想像するような発音だけは気にしていたが、今日の話しでなるほどと合点がいった。下呂市の街も平成の大合併で4町1村(
益田郡萩原町、小坂町、下呂町、金山町、馬瀬村)が一緒になって下呂市になり、3年目の新しい市になり、何々郡といっていた所が町村合併で市になっていたり、ガイド曰く全国の観光地の地名は日々変わって覚え直すのに泣かせられるといいながら川向こうの町並みを指差しながら説明に余念がなかった。萩原町中呂の手前で高山線は飛騨川を渡り、国道41号線を跨ぎ禅昌寺駅を過ぎると右側にJRが見え始めると257号線は左の萩原大橋を渡って見えなくなった。
 
 国道41号線はJRの線路から離れたが飛騨川は離れもせずホームセンターやエネオス、昭和シェルなどのガソリンスタンドが並び、益田橋の信号を過ぎると朝霧橋の信号までが萩原町の中心地で、エネオスの手前角の信号を右に曲がるとJR高山線飛騨萩原駅がある。朝霧橋の信号を越えると右側に見えなかったJRも道路脇を走っている。左側にかなりの広さの飛騨川公園が現れ、飛騨川大橋の付け根の信号を過ぎると萩原町下上呂、スーパー・タイムリー前の信号辺りが中上呂、浅水大橋の信号辺りが上上呂で御丁寧に上呂には、このように信号機があり地名が表示されていた。右にはJR上呂駅、駅を過ぎると、道路を真中に、右にJR、左に飛騨川が並行して走りゼネラルのスタンド、サークルKを行過ぎると三者が90度近く右にカーブし終わると下呂〜中呂〜上呂と変わり行く町並みに関心を寄せて見守り、緊張していたせいか、何時しか眠気には勝てず寝入り白河夜船で40分ばかりお休みタイム。

 目が覚めると、もう高山市内だった。ホームセンター・バローが見え、飛騨高山温泉・高山グリーンホテルの指示看板が、次の信号右折とあり、国道158号線との交差点、上岡本町南を右折して高山グリーンホテル前を通り、JR高山線高山駅南の陸橋を渡った。


 、





 高山の中心街に入ってくると高山線を跨いだが、丁度左の高山駅に特急のパノラマ車両が滑り込んで行った。エネオスのスタンドを過ぎると日赤北交差点で158号線は左に曲がった。前方の川原町の信号を曲がる辺りは、陣屋のこんもりした木々や建物が見え始め200m足らずで陣屋門前だが、朝市の店はまだシートがかぶせられていた。信号を右折して宮川の中橋を渡り、神明市営駐車場に10時10分に到着した。

 駐車場から下の道路に全員が集まると、バスガイドに誘導されて信号を渡り高山市政記念館前を通り、2本目の筋に入り両側の酒屋店前を通り、飛騨民族考古館も素通りして上三之町の黒く塗られた古い町並みが並び、国道158号線を左に曲がり宮川に架る鍛冶橋で手前の朝市会場へ吸い込まれていった。

 今回は来る前から1時間半の自由時間を生かして東山寺院散策を計画していたので、駐車場を出るとみんなとは反対の右に坂道を登って、城山への坂道を登り始め城坂通りに出て右に行くと、高山の市街地に接しながらも「高山城跡」として、城山一帯は生息する野鳥の種類が80種を数えるといわれ、全国的にもその種類の多さと稀少性が注目され、岐阜県指定文化財の史跡と天然記念物の両方に指定されている。

 写真を撮りながら左に行くと、神社横より飛騨護国神社へ入れた。本殿のほか、菓子の神様を祀る久和司(くわし)神社、大工の神様の飛騨匠(たくみ)神社、鉱山の神様の黄金神社(かねのかみ)など、珍しい3つの神様がそれぞれに祀られている。境内には農民一揆の責めを負って獄死した初代高山県知事梅村速水(はやみ)の遺愛碑も立っている。そして遺品館もある。   

 山門を出て石段を18段下りると、コンクリート製の大鳥居があって左右に狛犬が鎮座し、更に10段石段を下りると左右に石燈籠があって飛騨護国神社の社号石が右側の建っている。更に3段下りると池というか掘りといった方がいいのか分からないが、石橋が架っているが4段ばかり石段になっている。

 堀沿いに右に行くと、歩道脇に桜の木が4本枝ぶりもよく満開時には綺麗に咲くことだろう。僅かながらの坂を下ると大小の祠があり、奥に入ってゆく道路もあり、そして高山米穀東山営業所と並び、水晶米の幟旗が風にはためいている。またタバコの自動販売機や丸い真っ赤な胴体の昔ながらのポストも立ち、反対側はお馴染みの赤白青の三色の床屋の回転灯が回っている。

 更に東に向って坂道を下ると橋が見え5mばかりの江名子川でコンクリートの川底にサラサラと流れがある程度の小河川で古柳橋(平成12年5月)と橋名が書かれていた。橋を渡ると今度は上り坂になりT路地を左に曲がり、法華寺の石段を10段ばかり上がると山門があって、斜め右に本堂がある。山門前の道を西に向うとJR高山駅に行く“さんまち通り”。

 道路に出て来て更に右に行くとキツイ坂があり途中右に天照寺がある。本堂と鐘楼がありがシッポリ濡れて輝いていた。お寺を出て坂を更に登ると鳥居があり石塔が幾重にも並んでいる。その左脇には石碑があり飛騨慈光園跡地刻され、奥のほうでは話し声もしていたが、奥がどの位あるか想像もつかなかったので、先程の道路まで引き返し、松倉山馬頭観世音菩薩(本尊・馬頭観世音菩薩は8センチあまりの小さな木彫仏)、そして駐車場の後ろに階段があり一段と高く石垣に囲まれた城塞のような寺。かぎの手になった石段を登った境内には、薬医門、本堂、庫裏、鐘堂(高山城の矢倉門遺構


 素玄寺から次の寺の間には、国道158号線が通っていて、地下道で渡れるようになっている。国道を横断して最初の寺は洞雲院。本堂、子安地蔵堂。子安地蔵堂は本堂と渡り廊下でつながっていた。このあたりからは、散策路は寺の境内を抜けて行けるほど隣り合っている。

 国道158号線に出て歩道橋を過ぎると桝形のように折れ曲がる突き当たりの場所に重層門があり大雄寺がある。山門手前左には、六角堂の正面3間には、3間×2間の裳階のようなものが付いている珍しい作り。「日本太道連盟奥旨塾」という看板がついていて、寺町の中でも一番見栄えのする寺かも知れない。石段を登った境内には、本堂、庫裏、鐘楼、薬医門(裏門)、十王堂など。

 国道を158号線歩き若達町1丁目で右折すると、ほぼ前方が見える程度直線道路も江名子川に架る鉄砲橋辺りに来るとこうを描き左にカーブし始め、先ほど渡った古柳橋辺りから見ると川幅も広くなり、人だけが通る生活道路の橋や車両も行き来
する一般道路の橋に変わってきている。上流から「古柳橋」〜宮川までに名もない橋まで含めると16橋もあり、更に上流にも幾つもある。「古柳橋」「桔梗橋」「ななし」「愛宕橋」「葵橋」「寶橋」「金毘羅橋」「若達橋」「鉄砲橋」「左京橋」「屋台橋」「縄手橋」「寺内橋」「桜橋」「布引橋」「千鳥橋」と僅か1キロ強の間にこんなにもある。

 左京橋、屋台橋、縄手橋と続き、ここで右に曲がると桜町を抜け十字路に来ると平屋作りの“からくりの館”棒からくりや糸からくり、歯車を利用した座敷からくりの人形の実演が見られる獅子会館前に来た。50mも行くと高山祭屋台会館、桜山八幡宮の入口の看板が見え門前には車祈願以外乗入禁止の立て看板の白さが目立ったが門の中に入る。

 左に桜山日光館、(
 大正時代に、当代の左甚五郎ともいわれた長谷川喜十郎をはじめ33人の技術者たちによって、15年間の歳月をかけて製作された日光東照宮模型は、実物の10分の1で、陽明門をはじめ、本殿、拝殿、五重塔など28の建物と、鳥居などの付属物をすべて再現)。

 
右に神輿庫、絵馬殿、そして、桜山八幡宮神門に続く19段の大石段、神門を潜ると拝殿、本殿が現れ、左に進むと大原代官寄進の燈籠、境内に祀られている秋葉神社、照前神社、天満神社、稲荷神社、琴平神社などの末社が並び、その後ろを回廊が参集殿まで続く。
◎照前神社は、両面宿儺討伐の戦勝祈願に應神天皇の御尊霊を奉祀され、当宮を創祀された神。社殿は平成2年に新築造営。武勇の神・  歯の神。年の数だけ煎った豆を御供えすると歯痛が治ると言われている。
(浪速根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)
◎天満神社は
宝暦4年(1754)、京都の北野天満宮より勧請。学業成就の神。筆塚に筆供養をすると書道が上達するといわれてい     る。(菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
◎稲荷神社は、陣屋から鬼門の方向にあり、火防鎮護の神として祟敬され、明治8年の大火でも類焼を免れた。また、高山旧火消十組内の  秋葉講の本拠である。(倉稲霊神(うかのみたまのかみ)
琴平神社は、海上交通安全の神。相殿の少名彦名神は医療の神で、病気平癒の信仰がある。社殿の天井に天狗の絵があり、それにロ    で噛んだ紙を投げつけ、天井につけば病気が全快すると言い伝えがある。庖瘡神(ほうそうしん)が祀ってあるとして桟俵に赤飯を盛り赤い御幣  を立てて祈願した。(大物主神(おおものぬしのかみ)・崇徳天皇(すとくてんのう)
参集殿&社務所は、結婚披露宴、各種会議、講演会、パーティーなど。(和室100名、洋間130名までのご宴会ができる)。
放生会とは、八幡神をまつる神社で執り行われる重要な祭儀で、生きとし生けるものの平安と幸福を願われる八幡神の神恩に感謝申し上  げ、国家の安泰と国民の繁栄幸福を祈念する。

 ぐるりと一回りして、参集殿前を通り大手水切前の元に戻ると玉砂利が敷き詰められた境内に通路用に敷石が3列敷締められている。三の鳥居を潜り高山祭屋台会館前を通り、二の鳥居を出ると左に社号石碑が建ち、一般道を横切り、広い記念通りを宮川に進むと一の鳥居があり宮前橋を渡り本町通に入り、左に曲がり歩道を歩いていると白塗りの春慶館が、少し奥まったと所にあったが見てみぬ不利をして写真を一枚撮って、先を見ると頭上に道路一杯の三角形をした、看板があって歩道の敷石には矢印で施設方面への方向が彫り込まれていた。

 国分寺入口を過ぎると、飛騨高山味とのれんの一番街の看板を見終わると鍛冶橋の交差点、信号待ちしている内に考えが変わり、ここで左折して橋を渡ったが、安川通りと国分寺通りをつなぐ両方の欄干に面白い彫刻を見つけた。川上方には・手の長い妊婦のようなお腹をした婦人像、川下方には・足の長い大きなお腹を抱え、右手をかざしたポーズの男性像が目に入った。嘉永元年に、名工、谷口与鹿(たにぐちよろく)が、出雲神話の登場人物・足名稚(アシナヅチ)と手名稚(テナヅチ)をモデルとして彫刻したといわれている。説明書きによると、足長像は足名椎命(アシナヅチノミコト)、手長像が手名椎命(テナヅチノミコト)とある。足長像と手長像は夫婦なんです!。足長が父、手長が母。

 橋を渡ると宮川沿いの朝市会場が川下に向って並んでいたが、写真一枚撮って、二筋目の古い町並み上三之町、(国選定、重要伝統的建造物群保存地区・上三之町町並み保存地区)に入り、人力車に乗って見物して
いる人、各店に首を突っ込んでいる人、からくり水車に見とれている人、お土産を両手にぶら下げれ駐車場に向かう人等々、出格子の連なる軒下には用水が流れ、造り酒屋には看板ともいわれる杉の葉を玉にした「酒ばやし」が下がり町家の大戸や、老舗ののれんが連なっている人気スポットとはいえ大変な通行だった。

 
飛騨の小京都といわれるだけに江戸時代からの建物が保存され説明書きによると、城下町の中心、商人の町として発達した上三之町を中心に、江戸末期から明治期に建てられた屋敷等が軒を連ねる古い町並み。景観を維持するために電線をすべて軒下配線にするなど、徹底した保護を続けている。通りには地酒や朴葉味噌など、飛騨高山ならではの名産品を扱う店がずらりと並んでいる。

 さるぼぼとは、飛騨高山で生まれた郷土人形で、その昔子供が産まれたときの御守として、玩具の代わりに与え、「猿の赤ん坊」という意味赤い顔と体が猿の赤ん坊に似ていることが由来。「さるぼぼ」の色は以前は赤だけでしたが、今ではイエロー、ブルー、ピンク、グリーンなど、とてもカラフルな色がそろい大きさも大小さまざまで、「猿」という読みをかけて、≪災いが“さる”≫、≪家庭“猿”満(かていえんまん)≫、≪“猿”むすび(えんむすび)≫など、厄除けや縁結び、女性の安産のお守り。(孫の土産に4つも買った)。


 バスを降りて飲まず食わずで歩き回ったので流石に咽喉が渇き、自動販売機で500cc入りのペットボトルのスポーツドリンクを買い日影で一気に飲み干すと、飲んだだけ汗になったように噴出してきたが、身体は補給されたという事で元気を取り戻し、陣屋まで行くだけの時間もなかったので、下二之町、下一之町を回って来たが、こんなに違うかというほど人出はなかった。

 駐車場に戻り、バスに入り一休みすると昼食場所の獅子苑に向った。中橋を渡り陣屋前を通りJR高山駅南の陸橋を跨ぎ来た道を国道41号線の
上岡本町南交差点を横切り国道158号線を西に向かい、上岡本町南交差点から一つ先の信号を越すと右側に太陽に照らされてキンキラキンに光まぶしい屋根を見ながら獅子苑に到着。
 
 店員に案内されながら2階に上がった。先ほどのキンキラキンの屋根は正面見え“あれはなんだ”で、話題になり店員に聞くと崇教真光(すうきょうまひかり)総本山というが詳しいことはわからないとのこと。いわいる新興宗教で、「真光の業」といい聖書も聖典もない「手かざし」という精神的な救いを生業にした団体らしい。

 飛騨牛焼きしゃぶ付松倉会席@1,575円で長テーブルにズラリと並び、30分ほどで食事も終わり、寄付を頂いた人へのお返し物の整理をするともう出発の時間になっていた。500mも走ると158号線に出て、またまた、国道41号線を横切りJRも跨ぎ、陣屋裏を通り、国分通りから上、
下三之町、上、下二之町、上、下一之町、を隔てる安川通りを通って江名子川の宝橋を渡り、大雄寺角をクランクに曲がり一気に東山寺院群の坂を登り、2,3分もすると松之木町西、松之木町東の二股を左に取って大八賀川の橋を渡り、3キロも行くと町方の交差点角を曲がり500mも行くと右側の板蔵ラーメンで試食とショッピング休憩。

高山市

 飛騨国(ひだのくに)は、東西を険しい山に、南北を厳しい河川峡谷(きょうこく)に囲まれている。古墳時代、高山市では早くから古墳が築造されてきた。国府、古川盆地の豊かな水田地帯の経済力を背景に、地方豪族権威の象徴である古墳文化が開けたのである。

 飛騨の匠制度は、家50戸ごとに10人ずつが労役として割り当てられ、飛騨からは100人前後の匠が都へ行き、宮殿や門、寺院などを造る仕事にたずさわっている。

 天正14年(1586)、金森長近は飛騨国3万3千石の国主として入府し、ここから金森氏6代、107年の政治が始まる。関ケ原の戦いでは徳川方について前線で戦い、美濃国上有知(みののくにこうずち)1万8千石、河内国金田(かわちのくにかねた・大阪府)3万石が加増されている。入国した長近は、城の建設を天正16年(1588)から始め、慶長5年(1600)までの13年間で本丸、二之丸を完成させ、以後3年かけて三之丸が築かれた。日本国中に5つとない見事な城だと記録が残っている。

 明和8年(1771)から寛政元年(1789)までの大原父子2代、18年間にわたる農民一揆が起きた。その中に主な事件が3つ含まれており、明和、安永、天明騒動と名づけられている。明和、安永騒動では9千人余の農民が罰せられ、若き指導者本郷村善九郎ら、多くの農民代表が犠牲になった。善政をつくした代官・郡代もいる。7代長谷川忠崇(ただたか)は『飛州志』を著している。第8代幸田善太夫(こうだぜんだゆう)は飢饉のために馬鈴薯(ジャガイモ)を農民に作らせ、飛騨では「善太夫(ぜんだゆう)いも」、「せんだいも」とも今も呼ぶ。

 明治元年(1868)5月には飛騨県がおかれ、同年6月高山県となり、さらに明治4年(1871)筑摩県に移管されるまでの3年6ヶ月間、梅村速水、宮原積の二人の知事により飛騨が治められ、また、明治9年(1876)、美濃と飛騨を合わせた岐阜県が成立し、現在に至っている。明治8年(1875)に高山町になり、岐阜県では一番大きい町であった。大正15年(1926)に灘村を合併、昭和11年(1936)に大名田町を合併して高山市になる。昭和18年(1943)に上枝村、昭和30年(1955)に大八賀村を合併した。平成17年(2005)2月1日、10市町村が合併して新高山市が合併した。

市役所の位置 東経137度16分・北緯36度09分
面積 東西に約81km、南北に約55kmあり、
面積は2,177.67kuの日本一広い市
人口 95,778人(男45,737、女50,041)
世帯数 34,236世帯(平成19年5月1日現在
市章 『岳』の形象体文字を図案化したもの
  市の木・花・海抜 いちい・こばのみつばつつじ・573m

高山城

 飛騨の小京都高山。日本列島の中央に位置するこの町は山深い奥地ながら古くから文化の開けた場所だった。源平合戦や
鎌倉時代の動乱を経て高山の町が発展したのは室町時代に高山外記(たかやまげき)が高山城を建ててからと言われている。
戦国たけなわの頃のこの城には高山氏が在城し、これを益田郡から北進して来た三木氏によって滅ぼされ、三木氏は同じ高
山市内の松倉山の山頂に松倉城を築き、飛騨国内に覇を唱えました。

 三木自綱は信長亡き後の旧織田家系の大名の中では佐々成政と同盟を結んでおり、天正13年、羽柴秀吉の命を受けて飛
騨に侵攻した越前大野城主金森長近は、松倉城主三木自綱を滅ぼし、
飛騨3万石を秀吉から与えられた。長近は、最初鍋山
城を居城としたが、天正16年に天神山城趾を大拡張して近世城郭高山城を築城した。

 織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城を模した豪壮な建築物が並び山頂の一角には望楼型の天守閣も建築された。その
ため完成まで15年もの歳月がかかったが「天下に三指と数えられる名城」と謳われていた。

 この高山城を中心に京都のような町屋や寺社が配列されて「小京都」と呼ばれる華麗な城下町が広がっていった。そして107
年間、金森氏が飛騨を治めたが、1692年に五代将軍・綱吉の不興を買って出羽上山に移封されてしまう。その後飛騨は幕府
の直轄地になり陣屋を設けて支配した。

 そして107年間、金森氏が飛騨を治めたが、1692年に五代将軍・綱吉の不興を買って出羽上山に移封されてしまう。その
後飛騨は幕府の直轄地になり陣屋を設けて支配した。

 外観二層、内部三階の構造を持つ天守をそなえているのが特徴で、本丸屋形には台所、風呂、大広間、茶室などがあった。
南の大手方面には南之出丸、北の搦手方面には東北曲輪、中段屋形が配置。

 城坂は高山市街の東南寄り、高山市馬場町あるいは神明町から、字城山にかけて位置する。市街地から城山(標高687m)
に登るための坂である。

現存する遺構 石垣 土塁 郭群

陣屋跡

 天正14年(1586)、金森長近は秀吉の命により飛騨を平定し、領主に任ぜられた。それ以来、明治維新にいたるまでの177年間に、25代の代官・郡代が江戸から派遣され、領地の行政・財政・警察などの政務を行なった。この御役所を「高山陣屋」と称す。

 飛騨代官は関東郡代の兼任ではじまり、現在地の向屋敷に代官所を移した。その後(4代)から専任、7代から常駐となり、11代まで代官、12代から郡代に昇格している。殖産振興に尽す等善政もあったが、飛騨一円を揺るがした明和・安永・天明の大原騒動、明治初年の梅村騒動二代一揆もあり、数々の歴史がこの陣屋で展開した。

 内部は、玄関の間が文化13年改築のままでのこり、10万石格を示す2間半の大床や、大名も使用をはばかった青海波模様が目を引く。式台も駕篭(かご)を乗りつけるため低くしつらえてあり、幕府の使者等、身分の高い来客専用であった。御役所大広間も非常に体裁を重んじた意匠となっている。吟味所、白州はグリ石敷で屋根のあることが特徴的である。事犯の大半は幕府の裁決を仰いでいた。御蔵は、高山城三ノ丸に米蔵として建てられていたのを、元禄8年現在地に移築されたものである。

現在遺構
御門 天保 3年(1832) 切妻造柿葺(こけらぶき)平家建
門番所 天保3年(1832) 切妻造熨斗(のし)葺平家建 
御役所 文化13年(1816) 切妻造熨斗葺(一部柿葺)平家建
御蔵 慶長年間(1596〜1615) 片入母屋造石置長樽葺平家建
御勝手土蔵 天保11年(1840) 切妻造熨斗葺2階建
書物蔵 天保12年(1841) 切妻造熨斗葺2階建
その他 供侍所、腰掛、中門


高山陣屋とは
 
 陣屋とは、江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所で、役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称して陣屋と呼び、飛騨代官は安永六年(1777)に飛騨郡代に昇格し、当時4ヵ所あった郡代役所の中でも重要な直轄地となった。幕末には全国に60数ヵ所あったといわれている郡代・代官所の中で、当時の建物が残っているのはこの高山陣屋だけ。全国で唯一建物が現存する遺構で、昭和4年には国史跡に指定された。

直轄領に至るまで

 直轄領とは、江戸幕府直轄地で、幕府の経済的基盤をなした領地をいう。なぜ幕府は天正14年(1586)から金森氏が6代(106年間)にわたり支配してきた飛騨の国に着目し、元禄五年(1692)に直轄領とした。その理由は、豊富な山林資源(木材)と地下資源(金・銀・銅・鉛)であったと言われる。

高山陣屋の推移

 高山陣屋は、高山城主金森家の下屋敷として使われていたが、直轄領となってからは陣屋として代官や郡代がここで飛騨の政治を行なった。以来慶応4年(1868)に至るまで176年間、江戸幕府は25代の代官、郡代を派遣して飛騨の国を支配してきた。
 明治維新以後、陣屋の建物は高山県庁舎等として使用され続け、昭和44年に飛騨県事務所を移転した後、岐阜県教育委員会は高山陣屋の保存に乗りだし、工事は平成8年3月までかかり、足かけ16年の歳月と、約20億円という費用をかけて復元された。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼ再現された。


朝市


 朝市は江戸時代の桑市が始まりで、1年の内6月〜8月まで開かれていた。その3年後には夕涼みがてらの夜市も繁昌していた。桑市には野菜や花などの物売りが客目当ての出店だった。明治になると人口も増えだし弥生橋あたりや中橋あたりで夕暮れ5ツ時まで下向町の農家の組頭より届出が出されている。

 明治26年になると一之町の総代者より、夜市の開設の届出があり、期日は7月5日より9月10日まで、場所は一之町四丁目から安川まで、販売品は各種商売品と町役場に届出がある。翌27年6月から8月まで、別院前の桑市には自作の野菜も売られている。朝5時〜10時までと夜6時〜10時まで、東側50間と西側50間、別院の境内から文右衛門坂のあたりまでとかなり盛んだった。明治31年飛騨地方特有の出買い制度で主要道路の辻に7〜8箇所に農家の野菜を買い占め、朝市はさびれ、振り売りが盛んにる。

 大正11年大野農会(農業会)の主催で郡役所(陣屋)前広場で昼市夜市が開設した。出店者に先着順にバケツ1個づつ与え、夜市の方が人出も多く広場いっぱいに農家は野菜をならべた。
 昭和期の朝市は主に別院の付近において、続いていたが、各所でイベント的な市も行われていた。

昭和 9年 高山線開通
昭和10年 本町で夜市を開催
昭和11年 市制施行
昭和12年 11月防空訓練のため中止していた朝市を再開
昭和13年
3月夜市の再開
野菜に正札を付けることを決める
昭和14年 9月1日第2次世界大戦が始まり、やがて食料不足、統制により朝市も停滞期に入る。
昭和16年 市農会が陣屋前で午後5時から8時まで市を開くと通達を出す
昭和18年 陣屋前、国技館横、別院前の3箇所で20万貫目の野菜を販売
昭和19年 同3市場で買占め、闇取引を取り締まる
昭和20年 全生産品の販売を禁止、一括配給となる

 戦後は端板葺きの九尺二間程度の長屋で20数件が、コの字型に並び、販売品は魚類、野菜、味噌、果物、雑貨、米、菓子、嗜好品、海産物、金物、古道具から電球まで多種多様であった。品物の不足していた時代であり、午前中に売り切れ、午後は買出しに走り回る状態であった。

 陣屋前から名田町6丁目に移転(場所も狭く3ヶ月足らず)で、再三の移転を余儀なくされた朝市が次に移った場所が安川通りであった。昭和35年安川通りが国道に編入されることになり再び立ち退き命令が下された。県土木より河川敷きの占用許可がおり、昭和35年5月1日『宮川市場』が始まった。

 昭和39年東京オリンピックを機会に、日本の景気上昇とともに高山の町も活気出て、当朝市もかなりの賑わいを見せるようになり、夏場には、300店舗を越す大市となった。

 昭和47年『朝市廃止』の話がが持ち上がり、朝市は2年間の猶予をもって、は廃業することになったが、県は開催場所の河川敷を条件付きであるが、従来通り使用許可が認められ、朝市は今日まで続く事になる。

 その後バブルの崩壊、省資源運動買い控え、大型両量販店の進出、土産店の急増などと、朝市における売り上げは年々低下をたどり、最近に至っては、道の駅や農産物直売所など公費補助による朝市に、顧客ばかりか出店者まで取られているが、高山の朝市は今や日本一となったのである。盛者必衰というが、まさにその道を通って来たのが朝市の歴史であった。

高山まつり

 高山祭(たかやままつり)とは、岐阜県高山市で毎年開催される祭のうち、屋台が複数出る祭の総称で、京都の祗園祭、秩父の夜祭りと並んで日本三大美祭及び日本三大曳き山の一つに数えられる。

 高山市内を歩くと、正面に大きな扉のついた白壁の土蔵のような建物を見かける。祭以外の時は、この屋台蔵で大切に保管される。祭の際は、屋台蔵から引き出され、神社前などに引き揃えられる。日枝神社主催で4月14日〜15日に行われる春の山王祭と、桜山八幡宮主催で10月9日〜10日に行われる秋の八幡祭とがある。

 高山まつりの起原がいつかということは、はっきりわからない。しかし、飛騨の領国大名であった金森氏が、天正14年(1586)に飛騨に入国して、元禄5年(1692)に転封するまでの間であったことはまちがいない。

 すなわち、元禄5年(1692)8月29日、板坂平内より加賀藩士永井織部に宛てた書簡に、「3年1度3月時分山王祭御座候」としるし、「右私家来野崎弥兵衛、40ヶ年以前五、六年飛騨高山に罷在候付、口上覚書如此御座候」とある。

 元禄5年より40年以前といえば承応元年(1652)で、将軍は4代家綱、高山城主は4代頼直の時代であった。このころ既に3年に1度ずつ山王祭礼のあったことがわかるが、その他の神社の記事はなく、山王(日枝神社)だけをしるしている。高山城の山つづきに鎮座し、氏子である川原町に住む扶持人によって神輿をかついで高山城に入ったと記録もあり当時の祭は領主の祭であった。

 屋台はいつごろできたかというと、記録の上では天領となってからの正徳6年(享保元年)山王祭も八幡祭も行列を整えて陣屋の前に行き代官に伺候して氏子に帰り祭を行なっている。この時以後町衆の祭となったのであろう。屋台を曳いた記録はその翌々年享保3年(1718)高山陣屋の地役人、上村木曽右衛門が書いた「高山八幡祭礼行列」があり、それによれば「だし1本、笠鉾七五三、国センヤの2本、屋だい、高砂、猩々、湯ノ花、浮嶋太夫夫婦の4台を曳いている、これは江戸の天下祭といわれた赤坂山王、神田明神祭を模したものである。

 高山の町衆の経済力が東西の文化を良く吸収していたこと、従って旧形や伝統にとらわれず、新しいものを求めたこと、またそれに答えうる、大工、塗師、彫刻師がいたことであり、他の組の屋台より美しくしようと互いに競いあったからである。昭和54年祭行列、行事が国の無形民俗文化財に指定され、記念切手にも採用された。

春祭の屋台(日枝神社)

秋祭の屋台(八幡宮)

神楽台(上一之町) 屋台行列の先頭で囃子を奏す 神楽台(八幡町・桜町) 屋台行列の先頭で囃子を奏す
三番叟(上一之町) 三番叟のからくり 布袋台(下一之町) 布袋と唐子のからくり
麒麟台(上一之町)
谷口与鹿(よろく)の彫刻など、
絢爛豪華
金鳳台(下一之町)
神功皇后と武内宿禰の人形
石橋台(上二、神明町) 美女が獅子に変化するからくり 大八台(下一之町) 三輪の構造、御殿風の屋台
五台山(上二之町) 彫刻、刺繍幕、見送幕などが見事 鳩峯台(下二之町) 三輪の屋台、綴錦織幕が優れる
鳳凰台(上二之町) 三色の胴幕。堅牢で技巧的 神馬台(下二之町) 神馬と馬丁の人形
恵比須台(上三之町) 純金鍍金の金具、与鹿の彫刻 仙人台(下三之町) 唐破風の屋根など、古風である
龍神台(上三之町) 竹生島(ちくぶじま)龍神のからくり 行神台(下三之町) 役行者を祭神とする
崑崗台(片原町) 台名は中国の金の産地にちなむ 宝珠台(下三之町) 屋根上の大亀が特徴的
琴高台 鯉づくしの意匠 豊明台(大新町一) 御所車、彫刻など多様な装飾
大国台 屋根柱に鴬張りの工夫をする 鳳凰台(大新町
一・二・三)
谷越獅子の彫刻など気品の
ある屋台
青龍台 天守閣風の屋根、三層の台形

日枝神社

 高山市城山に所在。三仏寺城主・飛騨守平時輔朝臣が、ある日狩にでて山野をかけめぐり、片野山中で奇瑞のことがあったので、永治元年(1141)に日吉山王を勧請し崇めたのが起源とされている。

 その後、時輔の曾孫・景家は片野村の石光山に拠っていたが、養和元年(1181)、源義仲に攻められて落城し、社殿も兵火にかかって焼失したので、辛うじて御霊代を片野ヶ丘に奉還し、片野村の産土神(うぶすながみ)とした。

 天正13年(1586)、金森長近が飛騨を平定して入国するや高山の天神山に築城し、片野村の産土神を現在の地に奉還して高山城の鎮護神として崇めた。

桜山八幡宮

 高山市桜町に所在。この神社の起源は古く、仁徳天皇の65年、高山に隣接する丹生川村出羽平に、2面4手4足に両面宿儺という怪人がいて背いたので、天皇は難波根子武振熊に命じて征伐したが、このとき戦勝を祈願して祀ったのがこの神社であると伝えられる。

 和漢3才図会にも「八幡宮高山にあり、大永年中(1521〜1528)石清水神を勧請」とみえているが、その後、金森家の崇敬があつく元和9年(1623)には居城北面の守護神として再興せられ、神領を寄進して別当を置いた。祭礼には2名の奉行を特派して神事を管理せしめたので奉公祭とも称した。天領になってからも代官・郡代の尊崇があつかった。

からくり人形

 最初江戸にいた竹田近江は既に万治元年(1658)に子供の砂遊びにヒントを得たカラクリ人形を作り宮廷に献上して出雲掾(じょう)を受領したが、翌年近江掾を再受領し、カラクリ芝居の興行を思いたって大阪に出て寛文2年(1662)に道頓堀に竹田の芝居を創立した。大阪で消えたカラクリ人形が山車の上に曳山カラクリとして残されていることは実に幸いといわなければならない。

 高山のものなどは往年のカラクリを偲ばせる貴重な資料で、現在各地で行われているカラクリ形式には3種類がある。京都系統のもの、名古屋系統のもの、関東系統のものがそれで、高山のものは名古屋系統を引くものである。

 現存して演技をしているのは三番叟、龍神台、石橋台、布袋台の4台だけで、屋台正面上段の高欄の間を、箱型の9尺余りの樋を突き出し、人形の綱は樋の中を通り、遠隔操作によって、前後進させたり、演技をさせる仕組で、その巧妙精緻さがすばらしい。

宮川

 源を岐阜県大野郡宮村川上岳(標高1,625.9m)に発し、大八賀川、苔川、宇津江川、荒城川、小鳥川等の各支川と合流しながら高山市、国府町、古川町などを貫流し、岐阜県・富山県の県境で高原川と合流し、神通川と名前を変えて、富山湾に注ぎ込む一級河川です。

 大部分は森林で占められ、その地形は高山市を中心とした高山盆地のまわりを飛騨高原がとり囲み、東に乗鞍岳、西に白山がそびえ、地質は飛騨高原を中心とした、船津花崗岩類、高原火山岩類、濃飛流紋岩類、飛騨変成岩類が分布し、年平均降水量は約1,800mm〜2,000mmであり、梅雨時期の6月から台風時期の9月までが降水量の多い、年平均気温は10.4℃で、名古屋市(太平洋側)、富山市(日本海側)と比較すると年平均気温で名古屋市より4.7℃、富山市より3.1℃低くなっており、かなり寒冷な地域です。歴史は非常に古く、また川による交通の発達により独自の文化を築き上げてきました。

 高山市はその昔国府がおかれ、国分寺なども建立されており、飛騨地方における中心地として栄え、伝統工芸では一位一刀彫に代表されるように、高い技術を持った飛騨の匠によって作りだされる木製家具や飛騨春慶がある。岐阜県北部で唯一市制を施行し、宮村、清見村、高山市、国府町、古川町、丹生川村、河合村、宮川村であり、人口約95,000人のうち、半数以上が高山市に集中している。

 板蔵ラーメンの休憩所も、まず麺打ちの工場見学をさせてお土産と飲食のできる別棟で小さな茶碗に入れられた一口ラメーンと箸を手渡され試食が始まり、あっという間に食べ乾すと一箱5食で1050円の箱入りを数買うごとに値引きがあり、一人で5箱も10箱も買って宅急便で送るように手続きをして大賑わいで、他の物はトント売れてないのではないかと思うほど人気だった。
 
 そんなわけで休憩時間もあっという間に終わり、時間にはバスは出発した。時間も1時40分を過ぎていたが昼食跡すぐの試食もあって、お腹は満腹で昼寝タイムとばかりバスの中は静まり返って、国道158号線は緩やかにカーブしながら道路沿いのエネオスや昭和シェルのガソリンスタンドとスーパーのタイムリーなどがウシロへ過ぎ去って行くと、皆に仲間入りするように寝込んでしまった。

 後で地図を見ると、国道は小八賀川に沿って20キロ近く小刻みにシュプールを描いて尚且つ九十九折や急坂をカーブして10キロほどを登り平湯峠を越えて、やっと乗鞍スカイラインの登り口辺りで目が覚めたが、瞬間何処を走っているのか分からなかった。それでも真新しい平湯トンネルの入口に表示されていたのが見え、平湯温泉や奥飛騨温泉の入口看板を左に見ながら大きく口を開けた安房トンネルに吸い込まれていった。

 全長4,370mトンネル内は明るく左に左にとカーブして最後は右にカーブして走る抜けたが長いトンネルだったが5分少々で中ノ湯の出口だった。自分で峠越えをした頃の九十九折の道路は左から下りて来た。時計を見ると2時20分を過ぎていた。梓川を渡ると上高地から来る道路と合流した。








安房トンネル

 調査開始から33年、着工から17年の歳月をかけて完成した安房トンネル。誰も掘ったことのない活火山地帯でのトンネル工事は、土木史上類のないプロジェクトだった。高熱と火山性ガス、そして熱水と大量出水、計り知れない自然の脅威を前に過酷な条件を克服していかなくてはならなかった。

 安房峠は、松本市から岐阜県を福井市に至る国道158号の最大の難所。豪雪地帯の為11月中旬から5月上旬まで約6ヶ月にわたって通行止めになる上、長さ4.4kmのこのトンネルの完成により、通年通行が可能になった。

 安房峠は約700年前、立正大師日蓮上人が峠越えをした際に、郷里安房(あわ)の国にちなんで安房峠と名づけたと伝わっており、戦国時代には甲斐の武田軍がたびたび峠を越えて飛騨へ侵入した。昭和13年に岐阜・長野間に自動車道路が開通した。観光シーズンの渋滞が緩和され、急な坂やヘアピンカーブ、狭い道幅での危険性がなくなり、安全で快適なドライブができる。

 トンネルのルートは標高3,000m級の北アルプス(飛騨山脈)の南端に位置する。北には割谷山(標高2,224m)、焼岳(標高2,458m)、白谷山、アカンダナ山、南には十石山(標高2,525m)、乗鞍岳。安房峠の南、安房山とアカンダナ山の間に位置する安房平や細池はかつて湖であった。

 1977年(昭和52年)学識経験者や専門家からなる「安房トンネル施工法検討委員会」が設立され、1980年(昭和55年)長野県中ノ湯側、1983年(昭和58年)岐阜県平湯側から調査坑の掘削が始まった。第1は中ノ湯側の高熱帯・火山性ガス区間の施工、第2は平湯側の熱水帯区間の施工、そして第3に同じく平湯側の低速度帯の施工の3つの難関を超えなければならなかった。幾多の艱難辛苦を乗り越えて構想以来25年目にしてようやく、安房トンネルは本坑着工にこぎ着けた。時代は、昭和から平成へ変わろうとしていた。

 1989年(平成元年)安房峠道路は高規格幹線道路「中部縦貫自動車道路」の一部として格上げされ、同年10月、平湯側の本坑工事に着手。翌1990年(平成2年)中ノ湯側の本坑工事が始まった。水抜きが進んだ平湯側では湧水の温度も水圧も低下し、低速度帯へ突入した本坑の掘削状況は良好、水の出ない現場だった。また中ノ湯側でも排気用送風機の設置によって掘削環境を気温28℃に常時維持することができた。1994年(平成6年)7月には、換気立坑の工事も始まった。

 平湯側・中ノ湯側の坑口からトンネルの中央へ集められ、2本の排気坑を通り排風機で大気中に拡散される。直径7.5m、深さ450mの巨大エントツは、霞ヶ関ビルが3つ入る高さだ。立坑の位置の選定には、中ノ湯側も平湯側も谷や盆地があるため、排気ガスがたまりやすく課題だったが、立坑は国道158号を挟んだ岐阜県と長野県の県境やや南東、安房峠の頂上に建設が決定した。

 トンネル工事には立坑工事はないし、標高1,815mの高所ならば植生への影響もない。低速度帯掘削の際に悩まされた地下水との闘い、深度は進んでも硬い地層に突き当たると、ボーリングの先端は穴曲がりという微妙な狂いを、経験と勘による職人の技で凌いだ。

 安房トンネル開通予定は当初、平成17年度末だったという。それが16年度、さらに14年度、12年度と、効率的な工程に組み替えながら目標を決定してきた。しかし長野五輪は1998年(平成10年)である。

 しかし1995年(平成7年)2月、中ノ湯側の取り付け道路工事で火山性ガスを含む水蒸気爆発事故が発生した。6,000立方メートルの土砂は4人の作業員の命を奪い、梓川を塞ぎ止め、作業中の重機をもふくめて一帯を埋め尽くした。

 その2ヶ月後、本坑が貫通し、飛騨と信州の風は一つになった。10月には喚起立坑が貫通した。調査開始から33年、着工から17年、860億円の巨額を投じた大プロジェクト安房トンネルは、1997年(平成9年)12月に完成した。長野五輪の開催まで、あと2ヶ月だった。

乗鞍岳

 北アルプス乗鞍岳は、3000m級の山々が連なる中で、23の峰、7つの湖、8の平原があり、壮大な自然を堪能、特別天然記念物のライチョウや高山植物の宝庫でもあり、初夏には、白、黄、ピンクなど色とりどりの花をお楽しめる。

 畳平は乗鞍岳の標高2700mにある火口原で、自動車道路の最高地点としても知られている。山頂付近には、コロナ観測所、国立天文台、東大宇宙線研究所などが設置されており、気軽に2,700m.まで来られることから、アマチュア天文家の観測場所としても人気が高い。畳平付近の山小屋などに泊まらなければ、気軽にご来光を拝むことは出来なくなった。

乗鞍23峰
剣ヶ峰(けんがみね 乗鞍岳の主峰 権現池火山体の外輪山3026m 恵比寿岳(えびすだけ) 2831m
大日岳(だいにちだけ) 権現池火山体の外輪山 奥ノ院 3014m 魔王岳(まおうだけ) 2760m
屏風岳(びょうぶだけ 権現池火山体の外輪山 2963m 大黒岳(だいこくだけ) 2772m
薬師岳(やくしだけ) 権現池火山体の外輪山 大丹生岳(おおにゅうだけ) 2698m
雪山岳(せつざんだけ) 権現池火山体の外輪山 2891m 烏帽子岳(えぼしだけ) 2692m
水分岳(みくまりだけ) 権現池火山体の外輪山 2896m 四ツ岳(よつだけ 2751m
朝日岳(あさひだけ 権現池火山体の外輪山 2975m 猫岳(ねこだけ) 2581m
蚕玉岳(こだまだけ) 権現池火山体の外輪山 2979m 大崩山(おおくえやま)2523m 2523m
摩利支天岳(まりしてんだけ) コロナ観測所設置 2872m 硫黄岳(いおうだけ) 2554m
不動岳(ふどうだけ) 2875m 十石山(じゅっこくやま) 2525m
里見岳(さとみだけ) 2824m 安房山(あぼうさん) 2220m
富士見岳(ふじみだけ) 2817m    

乗鞍スカイライン
 上高地方面側からは国道158号旧道の平湯峠から乗鞍岳、畳平までの約15kの有料道路。冬期通行止め、標高差約1500mの山岳ドライブ。
2003年5月より乗鞍岳の自然環境を保護するため、マイカーでの通行は出来なくなった。

乗鞍エコーライン(県道乗鞍岳線)
 道幅が狭くカーブもきつい、乗鞍高原から畳平への道です。
2003年7月より乗鞍岳の自然環境を保護するため、マイカーでの通行は出来なくなった。

 梓川の流れは最初のトンネルを潜ると、ワラビ沢を過ぎ橋を渡るとすぐさま新坂巻トンネルに入り、出ると川を渡り坂巻温泉があり、再び短いトンネルに入り、川を右に見ながらチョット長い清水トンネル、梓川を4度渡ると渡る度に小トンネルがあり、山吹トンネルそして相桜橋を渡り、湯川渡橋と渡り梓川に沿って沢渡、沢渡大橋を渡り小さな橋を4つ渡るがこの間4キロ近くトンネルはなかった。

 そして、長めの日向窪橋を渡り木賊トンネル、乗鞍高原温泉・乗鞍高原・エコーラインとつながり乗鞍岳の畳平まで続く長野県側の道路の取付け口である前川渡の信号が見えて来た。信号の部分100m足らずで前川渡トンネルに入り、出てきた先にはトンネル、トンネルと続いたこの付近で一、二番という長さの親子滝トンネルが右に幾分カーブして、小さな橋を渡ると大きく広がり眼下に梓湖が吸い込まれそうに遙か下に水面がエメラルド色に見え、短いトンネルを潜り、奈川渡トンネルを抜け奈川渡のダムサイトの道路を走り、ダムの反対岸から来た道路合流しトンネルに入り、小さな橋を渡り、小さいトンネルを2つ潜り、すみの窪トンネルと、もう一つのトンネルを潜ると切り立ったダムサイトを覗き込みながらヒヤヒヤしながら19の大小のトンネルを潜り水殿ダム湖の水面が60mも下だというバスガイドの説明にバスの窓から覗き込んだがバスごと吸い込まれるのではないかと錯覚するほど恐ろしかった。1時間20分かかって、トイレ休憩の“道の駅・風穴の里に着きで20分の小休憩。

 バスを降りて戻ってくるとよくもまあ手にビニール袋をぶら下げて帰ってくること。いくらバスのトランクは広しといえど、毎度毎度ギッシリ詰められて、到着してから間違いが起き大騒ぎになると分かっていてもこの有様。狭いトンネルとダムが多いこと、この先にも、もう一つ稲核ダムを左に見てダムサイト下の稲核橋を渡り
、短いトンネルを潜ると左から島々谷川が合流する橋を渡り新淵橋を渡ると、1キロもすると町らし町にやってきた。右側の松本電鉄の新島々駅、左に電鉄の営業所や観光案内所、ジョモ、セブンイレブンなどが目に入り人里に戻った気がした。

 駅前は大変広くバス停もあるが、上高地や2003年から乗り入れ禁止になった事で一般車での観光はバスに乗り換えなければ行くことが出来ないことになって、バスに乗り継ぐ駐車場にもなっている。上高地も乗鞍岳も道路整備が良くなって車が走りやすくなった所で通行禁止とは如何いうことかと疑問に思う。決してバス代金も安くはないし高ければ山に来るなというのでは政治・政策は成り立たない。地球温暖化、環境問題もわかっるが、日本国中この様な場所ばかりではない。誰でも簡単に行ける3000メートル級高山世界の経験は日本広しといえどそんなにない。日本のヘソといわれるこの地に一番適した場所と思うがいかがか。

 松本電鉄の駅も新島々、遠藤、波田、下島、森口、三溝、新村、北新松本大学前、下新、大庭、信濃新井、渚、西松本、松本と14駅あって駅前の繁華街になるが、バスは長野道の松本インターから入線し長野方面に向った。

(追伸)

 平成19年8月1日の豪雨で158号線の一部はがけ崩れで道路が土砂で埋没して通行止めになり急きょ別ルートで片側通行を余儀なくされ、その後も土砂の排出が危険ということで、1ヶ月経った今も全通していない。


 



松本市

市制:明治40年5月1日
市章:外側の円は陽春の若松をあらわし、
円の中心は「本」の字によって六合を表す。
東経:1375819"
北緯: 36
1417"
面積:919.35km2
人口:228,533人
(男、112
,153人・女116,380人)
世帯数:91,785世帯
(平成19年8月1日現在)
市の木:あかまつ 市の花:レンゲつつじ 海抜:592.21m

 松本市は、本州及び長野県のほぼ中央に位置し、平安時代には信濃国府が松本の地に置かれ、中世には信濃守護の館の所在地として、また、江戸時代には、松本藩の城下町として栄え、 明治期からは製糸業を中心とした近代産業が勃興し、大正初年には日本銀行松本支店が開業されるなど長野県下の経済金融の中心地。

 近代工業化は第二次世界大戦中の工場疎開に端を発し、さらに昭和39年の内陸唯一の新産業都市の指定が契機となって、電気・機械・食料品等の業種を中心に発展し、最近ではソフトウエア産業の振興が図られ、中南信の商圏の中心として大きな商業集積を形成してきており、蔵のまち中町街なみ環境整備事業、縄手通り整備など個性ある商店街が出現している。

 古くから学問を尊び、学生を大事にする都、進取で議論好きの市民気質から、教育を尊重する気風が強く、明治初年の開智学校の開校に始まり、美術館が開館、まつもと市民芸術館、小澤征爾マエストロのサイトウキネンフェスティバル松本の開催、芸術文化の息づく教育のまちづくりを進めている。

 高速交通網は、平成5年に長野自動車道が全線開通、北陸地方を通年で結ぶ安房トンネルは平成9年12月開通、平成6年の松本空港ジェット化整備により、交流拠点都市として近隣の四賀村・安曇村・奈川村・梓川村と合併し、新松本市としての一歩を踏み出した。

 
 







 梓川SAで前もって予約してある全員に食べてもらうゼリーを受け取り、3時50分に全員に配り、梓川を渡り反対車線の梓川SAを過ぎ、豊科インターでビンゴを開始した。梓川SAで前もって予約してある全員に食べてもらうゼリーを受け取り、3時50分に全員に配り、梓川を渡り反対車線の梓川SAを過ぎ、豊科インターでビンゴを開始した。 

 何回も何回も番号は発表されるがリーチ一つかからず、JR篠ノ井線の下を抜け明科トンネルもビンゴで夢中で気付かずに行過ぎるところだった。会田川を渡り順調に走っていると、やっとビンゴのかけ声が上がり、残念のウゴメキもあった。横目で景色を見ながらビンゴカードを眺めゲームは続いたが、始めはビンゴの掛け声も聞こえなかったが次第に大勢が上がり始め、あと3人になってから幾度も回を重ねあと1人になっても本人が上がるまでやるというので最後の最後まで行ったので、立峠トンネル、3つの生活道路が上を通り過ぎ、筑北パーキング、高速を跨ぐ道路があって反対車線のパーキングを過ぎ生活道路を見やり、麻績インター、JR篠ノ井線を跨ぎ、麻績トンネル、一本松トンネルを出て左にカーブしながら高速上を2本の道路が見え、姨捨SA、そして3本が高速を跨ぎ、名前の分からないトンネル(芝山?)が2つ抜け右にカーブするとまた名前を見損ないで分からないトンネルが3つあり、更に右に大きくカーブするとJR篠の井線を更に大きく戻るように曲がると、千曲川を渡り長野新幹線の下をくぐり、更埴インター、第三セクター信濃鉄道そして更埴JCTで、上信越自動車道に入った。長かったビンゴゲームもここでピリオドを打った。

 JCTを過ぎ第三セクター信濃鉄道の湯田中へ行く線路を跨ぎ有明トンネル、森トンネル、5`前後の五里ヶ峯トンネル、短いもう一つのトンネルを出ると道路は右に右にとカーブして頭上を3つばかり横切る道路があって、上下がずれた千曲川さかきパーキングになり左に少しカーブして頭上を道路が横切ると坂城インターになる。

 ビンゴが終わり4時40分過ぎには、毎度お馴染みの“つりバカ日誌”のビデオが始まり、横川SAまでやっていたが所々でまだら居眠りの積りが実はスッカリ寝込みこの間の事は良く覚えていない。順調な帰路で、20分間の休憩をし予定時間を15分遅れとはいえ、順調にここまで来た。妙義山の複雑な山の形を眺め、曇り空の夕方はも早薄墨色の世界になりかけた5時40分過ぎに出発しビデオは終了したのかどうかは定かでないが、ここから今回の旅行会で初めてのカラオケが流れリクエストは最後まで続き楽しそうな歌声を聞きながら松井田妙義インターを過ぎ左右に本当に何回も大きくかカーブして上信電鉄を跨ぎ、下仁田インター、富岡インター、甘楽パーキング、吉井インター、藤岡インター・パーキング、藤岡JCT、を過ぎると埼玉県に入った。
 上里SAを過ぎ右にドンドンカーブすると上越新幹線の下をくぐり、本庄児玉インターを更に進むと陸橋があり直後に小山川を渡り、チラッと見えるゴルフ場は“岡部チサンゴルフカントリークラブ美里コース”で直ぐに寄居の上下線パーキングがずれており、5つばかり陸橋を見やり秩父鉄道の上を跨ぎ花園インターに来た。

 トラックセンターを過ぎると荒川で、嵐山パーキングまでは10個の陸橋があったが6時25分に通過、嵐山小川インター、市野川を渡り、東武東上線を跨ぎ、8つの陸橋があって国道254号線を跨ぐと東松山インターで6時31分通過、都幾川を跨ぎ右の森は“高坂カントリークラブ”で、その南側幾分離れた所に“こども動物自然公園”、13の陸橋を過ぎると高坂SA、越辺川支流を跨ぎ3つ陸橋を過ぎると高麗川、そして坂戸で東武東上線から分かれた越生線、鶴ヶ島インター、3つ陸橋を過ぎると鶴ヶ島JCT、そして陸橋は6つも次々に現れJR川越線を跨ぎ、入間川を過ぎると川越水上公園が左に見え国道16号線、川越インター、西武新宿線、やっと6時50分に三芳パーキングに到着し、最後のトイレ休憩を20分間取って、立て続けにやってくる陸橋を過ぎ国道463号線、所沢インター、埼玉県に幅1キロばかり張り出した清瀬市に入り、JR武蔵野線を跨ぎ再び埼玉県の新座市に入り中郷橋、愛宕裏橋、新屋敷橋の真東300b先には野火止用水に沿って平林寺の森があり、向橋、隅屋敷橋、高橋、中原橋、宮上橋の陸橋が過ぎると関越自動車道の料金所、渋滞もなく簡単に通過して、池田上橋、前原橋、境橋、関越富士見橋、西大泉橋をすぎると1.5キロも行くと大泉JCT、そして東京外環自動車道になり、和光インターまでの外環状には8つのトンネルを潜り1つの陸橋が走り和光インター、更に2つの陸橋と4つのトンネルを過ぎると北和光インターでパーキングもあり、幅の広い荒川を渡り始めた。

 橋の下には河川敷にある戸田パブリックゴルフコース上の幸魂大橋を渡り、戸田西インターを通過、右には荒川水循環処理センターのプールが幾つも並んでいる。500m先には美女木JCTが見える。交差する国道17号バイパスに首都高速5号池袋線が、上を跨いでJR大宮駅前に通じている。国道17バイパスは国道16号線につながっている。

 全線道路脇はアールの付いた塀で覆われ、少しばかり圧迫感は感じるが排気ガス公害を考えれば仕方がない。下は一般道の国道298号
線で、国道6号線の水戸街道まで通じている。JR埼京線の下を通り笹目川を渡り右左にカーブするとJR東北本線、京浜東北のを跨ぐ外環浦和インターを通過し、西川口インター、新芝川を過ぎると川口中央インター、川口JCTとなる。

 ここで、首都高速川口線と交錯する入線下線する取付け道路が複雑に絡み合い自分で運転するには自信が持てない。よく見ていると東北道の下り線へ行くのと一緒に分かれ、最高に高くなった所で二股になり右に行くと本線を跨ぎ上り線に合流する構造になっていたが他の合流は定かでない。

 首都高速川口線は新井宿のインター・パーキングがあり、安行インター、入谷インターを過ぎると新芝川左岸に出て入谷のインターから次の東領家インターの手前までの道路がが県境になっていて、東領家は埼玉県側になっている。江北公園を過ぎると東京都になり荒川左岸の土手に出てくる。

 都市農業公園(江北公園)を右下に見て左に90度近くカーブすると荒川の土手脇に橋脚が立ち高速からは土手の上を走っているように見える。荒川もこの辺りでは河川敷も緑地帯であったリパブリックゴルフコース(都民ゴルフ)があったりと長閑である。鹿浜橋インターの下は環七で内回りも外回りも渋滞でお馴染み、河川敷内は千住新橋まで緑地帯と遊歩道が続く。

 足立区左岸側はいろんな業種の町工場と住宅が続き、右岸側は町工場と住宅が建ち並び、大工場が移転後には大規模開発で出来たマンションが建ち並び、右に大きくカーブすると隅田川がはり付くように接近して高速は二手に分かれる首都高速中央環状線が右奥に消え江北橋になる。


 扇大橋インターを過ぎると、扇大橋の上には2008年3月に開通する新交通の試運転も開始して時たま見かける。高速はその線路の下をくぐり左にカーブするが所々に地肌がむき出しになっている。江北橋で一旦接近した隅田川も離れていたが再び扇大橋と西新井橋の中間で接近し、再び離れ、高速が中央環状線と分かれた6号線が荒川を渡った鐘ヶ淵インターで接近すると、もう顔合わせする事はなく東京湾へ流れ込む。
 
 西新井橋を過ぎると河川敷には緑地帯と右岸側には荒川区営野球場が緑地帯の間にある。近づいてくる千住大橋の手前には台東区営運動場、新橋の先には緑地帯の向こうに足立区営運動場、そして常磐線、東京メトロ千代田線、常磐新線の三線の鉄橋があり、少しはなれて東武伊勢崎線の複々線の鉄橋が並び、左岸離れた場所の一段高層の建物が小菅の東京拘置所で幾多の政治家も有名人も拘置され、話題の人物の入出所にはへリコプターが飛び交い騒然とする事もある。

 小菅の拘置所を過ぎると高速三郷線と合流する小菅JCTになり合流分散を短距離の間に車線変更をする緊張の一瞬のスリルと怖さは紙一重、今日も無事に6号線に入り荒川を渡った。今回の旅行もいよいよ最後になり、箭野副会長のお礼の挨拶があり鐘ヶ淵インターを出て一般道で堤通り、そして明治通り、曳舟川通り、はなみずき通りを右折して八広中央通りの城北信用金庫墨田支店前に午後8時5分に無事到着。バスの降り際に時期が早いのと天候不順で生育が遅くて、予定していた捥ぎ取りは出来なかったが旅行社で手配したお土産として長野県下で求めた桃、2つ入りの小箱が手渡され両手の手荷物にもう一つが加わり、おおわらわで家路に着いたが、今日も荷物を間違えた人がいて残念だったが、事故もなく40周年記念旅行も終了した。