1601年、岩崎山金山で財を成した金売橘次が霊泉を発見したのが始まりと伝えられる古
湯。その昔、三階滝の大ガニとの戦いに敗れた不動滝の大ウナギの切られた尾が流れ着い
たことから、足腰の病に効く温泉になったとの伝説が残る。

 岩崎山金山の伝説
仙台藩の大名となった伊達政宗が仙台青葉山に築城したのが仙台城
ですが、その建設資金となったのが遠刈田温泉から 西に数100mに位置する岩崎山に眠る
金脈でした。蔵王の山の神に願掛けをして採掘をはじめたところ、この金山は良質 の金を産
出し、政宗はたいそう喜び、当時の年号にちなんで「慶長金」と名付けたそうです。

 ところがある日、坑道に水が噴き出し、多くの坑夫が犠牲となり、たまった水のためそれ以
上掘り進むことも出来ず、 やむなく廃坑となり、坑内には後に犠牲者を供養するため観音像
がまつられたということです。

 見上げる蔵王連峰は、強酸性水のため生物が生息できない「御釜」や新緑、紅葉など見所
が目白押し。蔵王の大溝から立ち上る湯煙が、昔ながらの湯治場の雰囲気を漂わせる。かつ
ては蔵王連峰へと至る信仰客、登山客の宿場街として賑わいを見せたが、近年では周辺ス
キー場や付近の高原地帯などへの観光客が多い。

 東北の伝統と魅力の華麗な花模様と前頭に施された赤い放射線状の模様が特徴の「遠刈
田こけし」名湯とこけしの大自然、温泉街から「こけし橋」を渡ると広がる集落には、こけし工
房が軒を連ねる。

◎泉質:ナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉など。
◎効能:神経痛、リウマチ、婦人病、皮膚病、動脈硬化症、消化器系疾患など。

 



第一回世話人会
(準備会)

 平成20年5月23日(金)午後6時30分、そば万2階で会費1500円(当日払い)で15名出席し(1名欠席)最終人員確認、支払い状況報告、旅行の細目、第2回世話人会開催案・部屋割りの日程、旅行前日準備打ち合わせ案、反省会日時案、その他の細目を縷々細かく決めて解散。

第二回世話人会
(部屋割り)

 平成20年6月10日(火)午後6時30分、あおぎり集会場2階、会費1000円 16名全員出席、開会の挨拶、会計からの最終報告、部屋割りを各世話人によって自発的に書き込みを行い決定すると、幹事長から配車が発表され、部屋番号カード、旅行会の胸章リボンがわたされ、1号車は金子副幹事長、2号車は佐藤副幹事長と正式に決まり、両車両とも35名ずつで、1号車9名の世話人と2号車6名の世話人が車両長を助けて“明るく、楽しく、賑やかく”のモットーの達成に努力を誓った。

 最後に大師観光の平塚課長から旅行の最終説明を聞き、何時もとは違う旅館内では冷蔵庫はあっても飲物その他は一切入っていないで、飲物は館内の自動販売機で購入し冷蔵庫で冷やすのは一向に差し支えないなど質疑応答あり、最後に旅行の安全についての質疑応答で安全を再確認してお開き。

第3回世話人会(反省会)

 平成20年7月4日(金)午後6時30分、そば万2階14名出席(欠席2名)、会費2000円で、開会挨拶、会長の挨拶に続き、会計から第41回旅行会の収支決算報告3つの来年度旅行先選定が行われ,”伊勢神宮参拝鳥羽温泉”と思いも寄らぬ候補が選定され決定し、旅行代金も据え置きの27000円と決まり、旅行会費の集金方法は今年度と同じ方法で各自に任せるということになり、印刷された世話人用大判袋と一般会員用の封筒が渡され、懇親会となり乾杯後もアレコレ反省やら要望など雑談の中にも真剣な討論があった。(私は病欠で欠席) 



佐野サービスエリア(休憩)

 


那須高原サービスエリア(休憩)

 



白石インター

所属路線名 東北自動車道
IC番号 24
本線出口標識の表記 白石 蔵王
川口JCTからの距離 299.5km
所在地 〒989-0731・宮城県白石市福岡深谷字土手下5

 東北自動車道独特の渋滞の多い時期として、夏の旧盆、秋(10月・11月)の週末・祝日はと
んでもない渋滞に巻き込まれる。

磐梯カステラ本舗 (昼食) 所在地:〒989-0731・宮城県白石市福岡深谷字梅の木11

 



七ヶ宿ダム(休)・・・雨で車中見学

  七ケ宿を通る国道113号線は、山中通小坂越(俗称、山中七ケ宿街道)と呼ばれ参勤交
代に使われた街道のことで七ケ宿という。白石側から上戸沢・下戸沢・渡瀬・関・滑津・峠田・
湯原と続くが、渡瀬が湖底に沈んだので、残っているのは六ケ宿。


 七ケ宿ダムは、昭和48年以降19年の歳月をかけ平成3年に完成した中央コア型ロックフィ
ルダムで、堤高90m・堤頂長565m・109百万㎥・総工費1260億円とのこと。このダムの
建設で、国道113号線沿いの3つの集落(追見、原、渡瀬)158戸が湖底に沈んだ。

@ダム管理所
 洪水の調整や渇水の時の放流などを川や雨の様子を見ながら行う。亦、ダムや貯水池周辺
 の安全を 確保します。
A上水取水塔 
 水道水の取水口、ここから仙台市などへ水道水を送ります。
B共同取水設備
 川の水の取水口、ここから農業用水や川の水として川へ 流す水を取り込みます。
C係船設備
 湖を巡視する船の発着場です。
D洪水吐
 ダムの水を川へ流すための水門が付いています。雨が降った時に、ダムの水を計画的に
 流します。
Eエレベーター棟
F発電所
G流水止施設
 ダムに流れてきた木材などのゴミを止めるた
 めの網。ゴミは後で集めて燃やします。
H展望公園
Iコア(遮水ゾーン)
 ダムの水を止めるための層で粘土のような
 細かい土を固めて作ります。
Jフィルター(半透水ゾーン)
 コアを保護するための層で、土や石で作り
 ます。
Kロック(透水ゾーン)
 ダムがくずれるのを防ぎ、安定させる層で石で作ります。
Lリップラップ(表面保護)
 ダムの表面が波などでくずれるのを防ぐために、大きな石を張ります。

◎監査廊
 ダムの安全を確認するために、ダムの底に作った通路、ダムの安全を観測するためのいろ
 いろな機器が入っています。
◎グラウチング
 ダムの基礎地質を水を通さない地質にするために、ボーリングにより穴をあけセメントミルク
 により改良します。

 



材木岩公園(見学)

材木岩の成因は巨斑紫蘇輝石石英安山岩が水成岩(白石川の水面の近くに見える水平層)
の基盤を貫いて地表面に噴出し、急激に冷え固まる時にあらわれたもの。

 材木岩公園は水と親しむことができる。 白石川の七ヶ宿ダムの真下にそびえる山は、石英
安山岩の材木状の岩壁(柱状節理)が高さ65m、幅100mにもつらなる景勝地。多角形や5
角、6角などのさまざまな結晶をみせ、材木が連なっているかのように見える。

 また、春になると桜並木が咲き誇り、夏になると公園内の親水路で水遊び、秋になると燃え
るような紅葉の名所でもある。

 その昔、飛騨の匠が一晩で不動堂の堂舎を建てようとしたが果たせず、削った材木を川に
捨てたところ、やがて岩になったという伝説が残っている。

 公園からは、昭和5年(1930)5月1日、国指定天然記念物の“材木岩”を一望できる。また、
公園内には天然の風穴を利用した“材木岩氷室”が復元され、先人の知恵に触れることが出
来る。

材木岩氷室(白石市小原字上台)

 明治時代、小原地区は養蚕・製糸業の盛んな地域でした。ところが、明治時代の初めの頃
は養蚕に欠かせない蚕種(かいこの卵)を地区内でつくることができず、福島県伊達郡から入
手していました。

 しかし明治13年、古山長吉氏が小原黒森で天然の風穴(ある地点だけ1年中冷風が噴出
す自然現象)を発見し、これを利用して蚕種貯蔵のための施設をつくり成功しました。それが
氷室です。氷室は3方を石積みした中に簡素な小屋を建てた簡単な構造でした。やがて、小
原地区のアチコチで風穴が発見され、明治40年頃までに多くの氷室がつくられました。材木
岩氷室もその一つです。その後、材木岩氷室は大正時代に生糸の値段が大暴落したため
廃絶されたと見られますが、2棟の氷室の跡が残っていました。
 現在の建物は絵馬に描かれた氷室の様子などをもとにして新たに建てられたものですが、
身近な自然現象を上手く利用して生活の中に取り込んだ先人の賢い知恵を今に伝えていま
す。

 氷室は周囲の環境を殆んど変えることなく活かしてきた人間と自然の共生の恒例といえる
でしょう。

 公園周辺には、かつて多くの氷室が存在し、明治から大正にかけて”天然の冷蔵庫”として、
養蚕の養殖貯蔵施設に利用していたという。
氷室の役割と種紙

 蚕を育てるのになぜ氷室が必要だったのでしょう
か?という疑問には、氷室があると1年のうちに何
度か養蚕が行えるようになるからです。氷室が出来
る以前、小原では暖かい季節に蚕種(蚕の卵)を保
存しておくことができませんでした。卵は自然な状
態で置いていると孵化してしまうため、秋には養蚕
をするための卵の保管ができなかったのです。

 ですが明治13年に古山長吉氏が氷室の建設に
成功して以来、長期保管が可能になったばかりか
都合のいい時期に養蚕を行うことができるようにな
りました。その後も氷室は増え、明治45年には小
原地区全体で10万枚もの種紙が貯蔵されるほど
の規模に成長しました。

 明治の初めまでは小原地区でも蚕種(蚕の卵)を
伊達郡から入手していました。卵は運搬しやすいよ
うに“種紙”を箱に入れた形で送られたようです。

 “種紙”というのは厚手の和紙の表面に蚕の卵を
産み付けさせたもので、タテ35.5cm×ヨコ22.5c
mほどの大きさです。なんと、1枚当たりに産み付
けられていた卵の数は4万〜5万個もあったといい
ます。当時1頭の雌が産む卵の数350〜400粒ほ
どですから、種紙には125蛾以上ものメスが必要
になる計算です。その数の多さにはとても驚かされ
ます。“種紙”を入れた箱は(搬送箱)は東北歴史
博物館所蔵ののを参考に複製して展示しています。

氷室の発掘

 明治時代、小原地区に蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設
が設置されてことは以前から知られていました。し
かし、これまでその施設がどのようなものだったとい
うことについてはほとんどわかっていませんでした。

 まず、2棟ある氷室の大きさは、手前に位置する
ものが4.5m×7.2m、高い所に位置するものが3.
8m×7.2mでした。氷室の石積みの高さはそれぞ
れに1.9mと、大人の頭上ほどの高さがあります。
これを尺貫法に直すと、間口2
間半×奥行き4間となり
ます。

 氷室は山の斜面を必要な分だけ掘り下げ、周囲に
石を積んだ後、床に暑さ数cmの粘土を貼ってつくら
れました。そしてその石積みの内側にごく簡単なつ
くりの小屋を建て、養蚕の貯蔵施設としていたよう
です。

 発掘調査を行った時点では小屋はほとんど朽ちて
果て、周囲の石積みが残っているのみでしたが、内
部からは小屋の入口につけられていたとみられる
取っ手や釘、材の一部などが見つかっています。ま
た、石積みを外し、周辺の岩が風化などによって裂

けたものが沢山入っていました。そのための隙間が多くあり空気の通り道となって氷室を涼し
く保つのに役立っていたのでしょう。

氷室と風穴


 氷室とは昔の冷蔵庫です。ここでは氷室が天然の風穴を利用して作られているため、夏でも
冷たい空気で満たされ、とてもヒンヤリしています。この氷室の発掘調査を行った際に石積み
にタバコの煙をかざし見ると、煙は石積みの隙間から氷室内部に向ってなびき、冷風が噴出し
ているのをハッキリと確認することができました。

 では、なぜ風穴では冷風が出るのでしょうか?。それはどうやら地盤と関係があるようです。
岩は温まりにくく冷めにくい性質を持つことから、気温の高いときに空気が岩に触れると空気
が冷やされます。冷たくなった空気は重たくて下に沈んでしまい、山の下の方の岩の隙間か
ら噴出してくるため、風穴ができると考えられています。材木岩周辺の地盤は安山岩で構成
されていることや、風化などによって破砕された岩が山の斜面に暑く堆積しているといった条
件がそろっていたため空気が通り抜けやすく、風穴となったのでしょう。冬には夏とは逆に、
周囲が寒い時でも岩が僅かに空気を暖めるため、風穴内は夏は涼しく、冬は若干暖かく、と
いった環境が保たれるのです。

 氷室はこのような自然現象に地域の産業を上手く取り入れ各種養蚕の保存に利用した先
人のじつに賢い知恵だったといえます。

 白石川の上流にある七ヶ宿ダムの直ぐ下に、国の天然記念物に指定されている“材木岩”がある。材木岩は、新生代新第三紀中新生に堆積した赤井畑層(断崖右側中断から白石川河床にかけて見える白い水平な地層)に同時代後期に貫入したマグマが、冷却する過程で三角〜六角の柱状節理を生じたもので、斜長石と石英を斑昌とする典型的な斑状組織を持つ石英安山岩(デイサイト)から。なっている巨大な材木を垂直に並べたような断崖が、高さ65m、幅およそ100mにわたって続き、見飽きることがないといわれる。

 昭和9年5月1日に国の天然記念物に指定され、この材木岩の対岸にある“水と石との語らいの公園”は平成3年に完成し、水と岩をテーマに、既存の石を生かして池・滝・噴水を演出、親水護岸と共に水に親しむ水辺づくりを。行っている夏になると公園内の親水路で水遊び、秋には燃えるような紅葉と、年間を通じて大勢の観光客が訪れる。


 

◎碧玉渓(へきぎょくけい) 市内を流れる白石川上流、4qの渓谷で上流には小原温泉がある
。別名小原渓谷というが、 白石川渓谷は明治時代にこの渓谷を訪れ、 明治の文豪.徳富蘇峰
がこの地を訪れた際に、その深い透き通るような碧と、緑色を宿した、玉のように美しい渓谷美
に感動し、感銘し命名したといわれている。。「碧」は「白・石・王」の3字でできているのでそれ
にちなんだといわれる。渓谷沿いに遊歩道が整備され、途中には無料の足湯もある。

 



 材木岩公園を更に七ヶ宿ダムに向かって行くと左には寂しげに木陰に碑が建っている。

飛不動尊堂跡地

 ご由来表記によると天正19年(1591)仙台藩主伊達政宗公が羽州置賜郡小松村より、この霊地に不動明王を創建され、武運長久、藩内安全、天下泰平を祈念する。野火の為お堂は焼失の際本尊不動明王は後方虎岩岩三十丈余りの高き岩窟に飛び込んで難を避け無事であることから御霊験を称え飛び不動明王と尊崇され大勢の参詣者を得た。

 現在飛び不動尊堂は旧七ヶ宿街道江志峠(後方これより約1.5km)に鎮座し災難よけ、家内安全の祈願者が絶えず訪れている。
                          別当 清光寺



小原の木挽鋸

 昭和初期の地誌に“小原地域は四囲悉く山岳にして、地勢一般に起伏多く”とある。このような一圓山地でありながら、藩政時代の地域の人たちは、山地資源による生活のうるおいは、きわめて少なかった。かっての仙台藩は、領内の山林はすべて直轄下に置き、山林の私有は認めず、屋敷林・居久根であっても、自由伐採は許さなかった。

 小原地域の領主・片倉家もこれに準じて、許可以外の樹木の伐採は禁じ、地域内に入会山や、部落共有林を指定し、一村共同かまたは数ヶ村共同持ち山として、薪炭の原木や雑用木にあてていた。

 このような状況は、当然林業生産もなく、職業としての木挽き家業も成立せず、わずかに臼・鉢など雑器作りとして、役金を払い特定の家が、木地挽きを家業とする程度であった。

 木村家の資料などを見ても、大木の伐採などには、越後地方などからの出稼ぎ木こりが使われていたようである。

 明治維新後、領主による山林支配もなくなり、さらに、小原新道の開通によって、白石方面への隘路も解消して、林業としての生産も成立するようになり、地域にも山仕事(木挽き)に、精を出す人たちが多くなっていったと考えられる。

 展示の大鋸(おが)=前挽き鋸は、明治末年から昭和前半にかけてのものと見られる。

木村家の住宅(旧上戸沢検断屋敷)

 県指定有形文化財・平成15年3月、江戸中
期とされる創建当時の部材を活用し、地元の材
木岩公園内に移築復原した。宿場町の象徴だ
った屋敷を忠実に復元し、極めて貴重な建築様
式を残していることが評価され、平成16年3月
30日県指定有形文化財に指定されている。

 
特徴点・上戸沢の町は南が高く、北が低い。
検断所屋敷もその地形上の影響もあり、南側
が高位、北側が低位となる。即ち、南側に客座
敷部を配し、北側に居宅部を配する形となって
いた。
 上戸沢の町では、街道に面した軒を一葉にはね出して“せがい”造りとし、、開口部は、しとみ
戸、出格子、まいら戸、腰高障子を用い、座敷部を上手の位置に、土間庭を下手に配して、町
並み全体に秩序感を与えている。この検断屋敷も例外ではなく、むしろ古くから、その典型とし
て存在してきた。

 規模、形状の面で、上手に当たる客座敷と居宅に分けられるが、木村家の主な間取り構成
は次の通り。

座敷部

とこのま
よじょう
こうしのま
げんかんまえ
なかのま

 表座敷で本陣入りした正客の居間
 次の間
 控えの間で付き人、家来衆の部屋にあてらたと思われる
 “げんかんまえ”として独立し、客人専用の玄関を設けている
 客賓休息時の警護用の部屋ともいわれるが、主人の居宅ないし寝室として、
 また、役宅としての執務室を兼ねたとも見られる。

居宅部

おかみ

みせ
 居宅部を構成する“みせ”・“なんど”・“ひらき”・“うちには”・“おかみ”の中で
 中心となるのは、おかみである。主人及び家族の日常の場である。
 検断・問屋業務を行う仕事場であり、帳場であった。

 寛永年間から明治維新に至るまで上戸沢宿で検断役を勤め、さらに問屋や本陣に準じた役割も担った木村家の住宅。平成15年3月に材木公園内に移築復原された。仙台藩の古い形態を残す検断屋敷の遺構として評価され、旧宿場町の風情が漂う。

 
建築年代・平成5年の解体・調査によっても、直接創建年代を示す確証は得られなかったが、その間取り、架構技法、外環及び内部の意匠、材質の腐朽度などから推して、江戸中期頃の建築と推測される。

 また、解体後、木村家の仏壇の戸裏に墨書が発見され、それによると仏壇の製作年時が、享保20年(1735)9月とある。

 そのまま建築の創建時を示すものでないが、創建時に関する重要な傍証の一つとしても参考にすべきであろう。

 
復元後の検断屋敷の家構・この建物は、平成5年まで白石市小原の上戸沢に所在した旧検断屋敷、

修理の概要
構造形式

規   模





木造、平屋建て、直ご屋、寄棟造り、茅葺

客座敷と居宅部とから成り、梁間を異にする

桁間  10.5間(19.544m)

梁間  客座敷部 5.0間(9.090m)
     居  宅 部 5.5間(9.938m)   

木村家の主屋を移築復原したものである。江戸時代〜明治初年を通じて、一部突部を付けて、まかり屋の形を示す時期もあったが、平成5年3月、市文化財指定ちょくごである解体調査時点、即ち、直屋形式を基に、努めて古い形に復原・修復された。

 
検断木村家の由緒・歴代木村家の履歴を記した「先祖代勤功留」が残っている。木村家は、初代の惣兵衛から10代の三郎兵の明治維新まで、代々世襲で検断役を務めている。

初 代  惣兵衛  寛永元年(1624〜20年間勤士)
2  代  惣輔  正保元年(1644〜19年間勤士)
3  代  太郎吉  寛文3年(1663〜33年間勤士)
4  代  太郎右衛門  元禄9年(1696〜21年間勤士)
5  代  三郎衛門、後に、太郎右衛門と改名  享保2年(1717〜23年間勤士)
6  代  源七郎、後に、源太左衛門と改名  元文5年(1740〜14年間勤士)
7  代  惣七、後に、三郎兵衛と改名  宝暦4年(1754〜38年間勤士)
8  代  源七郎、後に、三郎兵衛と改名  寛政3年(1791〜29年間勤士)
9  代  太郎右衛門  文政3年(1820〜21年間勤士)
10 代  三郎兵、後に、三郎平と改名  天保3年(明治維新まで約30年間勤士)

 元禄12年より上戸沢町と宿名が改正された。以前は上戸沢を戸沢新町、下戸沢を本戸沢町と称してた。

 木村家の古文書・木村家の古文書は、木村家住宅を解体したときにははずされた襖から発見されました。昔はいらなくなった紙を襖紙の下に張る裏張りとしてよく利用していたので、このような形で古文書が発見されるのは珍しいことではありませんでした。しかし、貼り付けられた紙を1枚1枚剥がして解読した結果、これらの古文書から、これまでに知られていなかった様々なことがわかってきました。

 そのひとつとしてあげられるのが“折り紙の離縁状”と呼ばれている文書の存在です。ふつう離縁状は“三くだり半(三行半)”ともいわれるように短いものが一般的ですが、今回発見された離縁状は14行にもなる大変長いものですまた、この離縁状は妻側から聟(むこ)養子にあてたものであり、藩政時代の女性の地位を検証する上で重要な史料となっています。

 また、その他の文書からは庶民や商人が旅するときに必要だった手続きなどについてうかがい知ることができ、当時の交通や運送などを考える上で貴重な史料です。

 木村家の関札・木村家には古文書のほかにもにまつわる色々なものが大切に保管されていました。関札(せきふだ)もその一つです。

 関札は大名が参勤交代などで七ヶ宿街道を通った時に、木村家で休憩を取った場合などに掲げられたものです。これは“げんかんまえ”と呼ばれる部屋の長押(なげし)などにならべて残されていました。

 これまでに確認されている関札の数は7枚で、それらには“5月3日・六郷佐渡守 休”、”3月13日・秋田侍従娘 休”、“佐竹石見 寓”、“10月14日・秋田故少将柩宿”、“4月18日・荘内故少将柩 休”、ほか2枚は判読不明。

 これらの(内容から、木村家では大名のほか、何らかの原因で亡くなった人の棺(ひつぎ)を故郷に送る道中での休憩所としても利用されていたことが分かります。


 
歴史的背景(上戸沢町と検断木村家)・上戸沢の町は、近世、江戸時代を通じ“山中七ヶ宿通”といわれ、奥羽13名の大名が往来した。七ヶ所の宿駅の一つであり、木村家は代々そこの検断役を勤めた家であった。

 
上戸沢の町は、少数の仙台藩にお百姓戸、その他の多数の片倉家の不断組み、足軽組と併せて30戸前後の住人で構成され、これら三位一体となって伝馬、輸送の業務に当たって来た。

 
検断は、仙台藩においては町場に置かれ、伝馬をはじめ、宿駅関係の一切を取り締まり、総括する重要な職務であった。また、上戸沢の町は、本格的な大名の宿泊する本陣は置かれなかったが、木村家は、本陣に準ずる宿泊、休憩所としての役割をもたされていたし、町の伝馬問屋の仕事も兼ねていた。居宅であると同時に検断、問屋の役宅であった。更に大名やその家族たちの宿泊。休息の場ともなり、、その時の関札が多数残されている。



遠刈田こけし工房(見学)

 昭和59年5月に開館したモダンな建物のみやぎこけし館、1階は展示コーナーで、全国の伝
統こけし、木地玩具、実演コーナーや販売コーナー等がある。2階には遠刈田を訪れた思い出
に、こけしの絵付け体験コーナーとある。裏手に回ると「こけしの道」と名付けられた遊歩道が
あり、左手の擬木の階段を上り、木立の中の砂利道を約400m行くと、新地こけしの里に出る。

 遠刈田温泉から歩くこと約10分、松川に架かる、その名もこけし大橋を渡ると、昔からの木
地師集落の姿をそのまま残す「新地こけしの里」がある。

 赤い放射線状の模様が、頭頂と、額からびんにかけたあたりに描かれるのが、遠刈田こけし
の大きな特徴。他には、頭頂部に飾りのない黒いオカッパ頭も見られ、眼は、三日月型で切れ
長のものが多く、微笑みをたたえているようなやさしい表情が大きな魅力で、小寸物には、放
射線模様の代わりに蝶型の飾りを描いている。

 遠刈田こけしは、頭部がさし込み式で比較的大きくなっているのに対して、胴が細目で、施さ
れる模様は、手描きの花模様が中心で、その他、図案化された菊花や梅の模様、木目模様な
ど、華麗さにおいては、こけしの各系統の中でも一番といわれる。

丑蔵庵

 現当主・英裕の祖父にあたる丑蔵の強烈な個性を受け継ぎながら、見る者の心を和ませるこ
けしを作る。温泉街からこけし大橋を渡ると、遠刈田こけしのふるさと新地こけし集落。現在7
軒の工房がある。

原木伐採→枝落し→運搬→乾燥→玉切り→木取り→木地挽き→穴あけ→仕上げ



遠刈田温泉・宿泊(遠刈田ホテル・さんさ亭)

TEL 0224-34-2211 FAX 0224-34-2088
〒989-0916 
宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉東裏30
http://www.zao-sansatei.co.jp/
特色 : 雄大な蔵王の大自然に抱かれた標高330
      mの高原、遠刈田温泉郷。
施設 : 客室数84室、収容480名様、大・中・小宴
      会場、大浴場、展望露天風呂、コンベンショ
      ンホール、クラブ、カラオケBOX、味処、日本
      庭園他。
泉質名    : 含食塩芒硝泉
温度      : 65.7度
温泉の効能 : 神経痛、リューマチ、切り傷など
浴室設備   : シャンプー、リンス、化粧品類、ドライヤー、          湯上りコーナー
客室備品   : 浴衣、スリッパ、洗面セット、バスタオル、冷蔵庫、TV、金庫、トイレ(和式、
          洋式)
館内施設   : カラオケボックス、クラブ、喫茶、お食事処、お土産売店、会議室、貸出(
          囲碁、将棋、マージャン)

◎喫茶去(きっさこ)

 約1,000年前、中国にいた趙州(じょうしゅう)という禅僧は、訪ね来る人の誰にでも『喫茶去
』と言ったと伝えられています。『喫茶去』とは、禅語で「よう来られた、まあお茶でもどうぞ」とい
う意味だそうです。

 ただ元の意味を辿ると、「去」は命令形の助辞で「お茶を飲んでこい」あるいは「お茶を飲みに
いけ」というような命令形ですから、少々突き放した印象になるのです。ですから「ゆっくりお茶
でもお飲みください」は、本当は、「且座喫茶(しゃざきっさ)」というべきなのです。

 しかしながら「喫茶去(きっさこ)」の眼目は、来訪する雲水たちに一様に「喫茶去」と接した趙
州の真意を悟ることにあります。喫茶という日常(茶飯事)の生活のあり方が、実は仏法そのも
のであるということです。



都内の居酒屋(日本酒好感度)山形県がトップ

 東京都内の居酒屋を対象に行った「日本酒好感度ナンバーワン調査」で、山形県が1位に輝
いた。首都圏で地道に開催してきた県産酒の利き酒会などのPRが功を奏したとみられ、本県
の得票率は5割を超え、2位の静岡県を大きく引き離した。飲食店関係のプロの間で評価が高
まっていることで、一般消費者への波及も期待される。

 調査は、日本酒関連本の出版などを手掛けるフルネット(東京都)が実施。都内300店の日
本酒を扱う居酒屋を対象に、各店が好感度の高い都道府県を選ぶ形で調べた。回答は68店
から得た。

 結果は、山形県が得票数36票(得票率52.9%)でトップ。2位は静岡県で26票、3位の新
潟県が10票、4位はともに9票の福島県と石川県、6位が広島県で8票などとなった。

 山形県酒造組合は、全国新酒鑑評会の前哨戦として、県内を含め全国約180の蔵元を招
いた歓評会を独自に開催。首都圏では、山形讃香やDEWA33の統一ブランドをアピールした
り、イタア料理と県産酒のマッチングなど提案型のイベントも展開している。また、各蔵元が首
都圏市場を意識した販売活動を繰り広げていることも、好感度アップにつながったとみられる。

 一方、首都圏の一般消費者を対象に調べた同様の好感度調査で、山形県は新潟県、秋田
県に次ぐ3位だった。県酒造組合需要開発委員会の佐藤一良委員長(鯉川酒造社長)は「こ
れまでの活動が実を結んできた」と喜ぶ一方で、消費者好感度でもトップになるよう、今後も効
果的なイベントを重ねていくとしている。
                                                     山形新聞より



第二日

 蔵王お釜は残念ながら雨と霧で行けなかった。今回の最大の見どころだったが、行くことが出来なかったが、何時の日にか行ってみたい。

蔵王お釜

 蔵王エコーラインは、蔵王連峰を東西に横断して、宮城県と山形県をつなぐ山岳路で昭和3
7年11月に開通。宮城側からは火山岩むき出しの蔵王の男性的な姿を見られるほか、11月
初旬から翌年4月まで閉鎖され、ゴールデンウィークには最高で約10mになる雪の壁が見
られる。

 蔵王に自生しているアオモリトドマツの葉に強い西風に乗った氷の粒が衝突してできるた
め、風上に向かって"成長"するその姿は『エビの尻尾』に例えられ、毎年1月中旬から3月下
旬まで、樹氷が楽しめる。

 滝見台からその景観をのぞむと、澄川には三階滝(細く3回に流れ落ちる三階の滝。落差1
81m、後烏帽子岳東面を流れる石子沢から澄川へ三段に落下する滝で、標高700m〜57
2mの間にあり、日本の滝百選に選ばれた三階滝)、不動滝(蔵王山中の瀑布のうち、もっと
も規模の大きな滝で、高さ54m、幅は約16m、水量が多く、しかも深山の中の滝といった趣
があり、数多くの文人墨客に親しまれ、傍らに「蔵王不動尊」を模刻した大石碑と、「万緑の
底に滝あり轟けり」という句碑も建つ)、地蔵滝(高さ42mすみかわスノーパーク辺りを集め
て流れる新滝沢が澄川に落ちる滝で、昔登山者が安全登山を祈るため、お地蔵さんを建立
してこの滝で身を清めたことから地蔵滝と命名)がある。

 蔵王刈田岳・熊野岳・五色岳の3峰に抱かれた円型の火口湖で、釜状なのでお釜という名
前がついている。今まで26回の噴火を繰返し最近では、明治28年2月15日に噴火しまし
た。昭和14年測深した当時は、深さ63mありましたが五色岳断崖の崩壊により年々埋まり
昭和43年測深時では、最大深度27.6m、平均深度17.8m、周囲1,080m、東西径325m
南北径335mでした。

 太陽光線の当たり方で、さまざまに色を変えるため「五色沼」とも呼ばれ、南西から流れ出
て濁り川となり、賽の磧の北側を迂回して太平洋側へ流れ出て、水温は表面から10数mの
深度で摂氏2度まで下がり、それより深度を増すと温度が高くなる特殊双温水層で世界でも
例がない湖。

 湖面はエメラルドグリーンの水をたたえ、荒々しい火口壁で、湖水は強酸性のため生物は
生息できない。

 蔵王という山は存在しない。山形
と宮城に二股かけてた奥羽山脈
の南側一体を「蔵王」と呼んでい
る。
主峰の熊野岳(1,841m)、三宝
荒神岳(1,703m)、地蔵岳(1,7
36m)、刈田岳(1,758m)、杉ヶ
峰(1,745m)、屏風岳(1,817
m)、不忘山(1,705m)これ全部
で「蔵王」。その山をさして蔵王連
峰と呼ぶ。
※お釜の噴火※
1350年(観応)  噴煙を見る
1804年(文化 元) お釜付近噴火
1867年(慶応 3) お釜水沸する
1894年(明治27) 大噴火
1898年(明治31) 噴火

 



蔵王町 
(昭和30年4月1日、町制施行)

 昭和30年、宮村と円田村が合併して誕生した。東北の霊峰蔵王連峰の東麓、宮城県の南
西部に位置し、町域の約6割が山林・原野で占められている。町の中央を松川が貫流し美し
い渓谷の景観を作り出している。

 東北自動車道の開通や東北新幹線の運行開始など広域交通高速網の整備に伴い、名湯
遠刈田温泉を有し、毎年数多くの観光客や湯治客が訪れ蔵王観光の基地となっている。

東経:140゚42'24''
        140゚33'22''
23km
町の木:
五葉松
町の花:
桃の花
北緯:  38゚ 1'49''
          38゚ 8'46''
13km
町の鳥:
標高:
20m〜1825m
人口:男、6,593人・
女6,910人、計(13,503人)
世帯数:
,198世帯
面積:
152.85km

 



山形物産館(休憩)

 



上の山・さくらんぼ狩り(食べ放題・お土産付き)

 



高畠ワイナリー(見学・試飲)



高畠町(昼食)



飯坂インター



安達太良サービスエリア(休憩)

 



佐野サービスエリア(休憩)

 



スタッフ一同

帝産観光バス株式会社
 代表取締役社長 8代目・亀岡寛治
 〒140-0002
 東京都品川区東品川4丁目10番27号
 TEL:03-5460-1201
(上)1号車ドライバー:星 将憲
      1号車ガイド:伊藤久美子

(下)2号車ドライバー:酒井一孝
      2号車ガイド:河村准子
 STAR LINAR 三菱ふそうエアロエース BKG-MS96JP 2007年9月中旬 新型車導入
 先輩ガイドによる指導、さらに専門指導員の教育もある。一昨年、昨年と、某新聞社主催による大会で、プロが選ぶ優秀バスガイドの一人として、東京支店のガイドが表彰された。

 ドライバーの事故は保険扱いだけではない。ちょっとこすっても、事故扱いという帝産独自の厳しい基準がある。その中で無事故、無違反のドライバーを表彰している。

 この10年間で50万km達成者が7名、100万km達成者2名も誕生した。安全で快適な旅を提供し続ける功労者たちである。

 

旅行扱者:大師観光(株)
〒123−0841
東京都足立区西新井1−1−4
TEL 03−3890−2458 
FAX 03−3890−2459
添乗者:平塚和彦(営業課長)

●第1日目昼食地
  白石:磐梯カステラ本舗 1時間

●第1日目昼食地
  高畠町:旅館・エビスヤ 1時間

 八広到着午後7時40分、2日間に渡り大変長時間ご苦労様でした。また次回伊勢神宮参拝と鳥羽温泉旅行もよろしく。



山形方言

方    言

標   準

方     言

標   準

方          言

標       準

 1・ねずっぴ けち  2・わあばり 自分だけ  3・みながら 全部
 4・後代

子孫

 5・田もど

田んぼ

 
 6・まいどのごど

むかしのこと、
ずっと前のこと
 7・坊様

和尚さま

 8・三千刈

町歩の田

 9・もっ返っどごださげ

もっ返っどごだ
さげかそうだら
10・しめで 捕まえて 11・ぼっかけで 追い掛けて 12・しゃきんとしてる きっちりしている
13・なな お母さん 14・よべな 3ゆうべ 15・だれ知ろばや だれが知るもんか
16・童 男の子ども 17・はえっとう こんにちは 18・「ぐー」て言う 「参った」と言う
19・こがえた このような 20・わらわら 急いで 21・たぐづいで しがみつい
22・おかね 恐ろしい 23・じょさなえ 簡単だ 24・山姥金時 金太郎
25・あらえ 強い 26・ねっぴり けちんぼう 27・白木綿1反 木綿の織物1反
28・たがえで 持って 20・よばれで 招かれて 30・へさねで おならをできなくて
31・だだちゃ 母親 32・まっちゃ 父親 33・たもつぐ つかまる
34・けっち 何を言うか 35・いびず へそ曲がり 36・何こぐ 何を言うか