第1回目の世話人会(5月28日・火)も、午後6時30分から、例年通り5月に入ると会長・幹事長・会計の3名が、大師観光の平塚課長の運転する車で、一路首都高・東名と、コース通りのを走り下見に出かけた後で開かれた。あおぎり集会場2階の和室で1000円の会費にて14名が参加して開催された。

 まず会長の問きり挨拶に続き、会計の参加申し込みの員数が公表され、百年に一度と麻生首相がいうように世界不況の真っ只中にも拘らず今日の時点で43名の積み立て旅行代金が届けられ、そのほかに一括申し込みが10数名毎年いるので、第2回目までには合計で世話人の努力で60名まで引き上げようと申し合わせて、旅行全般の説明が大師観光平塚課長から懇切丁寧に行われ、下見を交えながら行程全体や使用バス会社・休憩場所や時間、2回の昼食場所・食事内容、観光場所や土産店等、ホテル到着時に記念写真・部屋や浴室そして宴会場など、そして伊良湖港から乗る船も天候によっては陸路に変更するなど配慮の行き届いた説明を聞き一安心。

 続いて幹事長からは車中で行う催事案のビンゴゲーム・賞金は第30回旅行会から採用している単純な細工を施した小銭入り封筒を選り取りみ取りで自分で引き当てる方式が今年も行き帰り行う。そして車中でのカラオケの賞品は、ご芳志品がある場合のみ提供する。また行きの昼食時のみビンビールが25本が会から提供、帰りのバスでは3時ごろおやつとしてプリンが全員に配られる。お土産として行きのバスの中で赤福の予約受付もするなどが全員一致で決まり、懇親会になったが、ご芳志のお願い案内状配りや御寄贈品やお祝い金は会計宅まで、宴会場の舞台や席順配列・来賓席は設けない・おみ足の悪い方には座椅子用意・日本舞踊出演者はテープ持参・カラオケ出演者は車中にて車両長の独断専行で決めるが出演者は各車で5名までとする。ジャンケン大会は敗者復活を含めて6位まで賞品を出す。抽選会は御寄贈品次第で全員に行き渡るかもしれない。最後はすみだ音頭を時間があれば2回テープを回してお開き。など、かなり綿密は打ち合わせとなったが8時過ぎには解散した。

 第2回は6月16日(火)、前回同様に場所も会費も員数も同じメンバーで行われた。会長挨拶のあと会計から最終参加人員が61名と報告に胸を一撫ぜし、まず部屋割りから行われ各世話人から希望の部屋を指定し終わると、残された少人数同士が相部屋となって完了。配車は幹事長一任なので別紙印刷された用紙が配わられて了承。車両長も幹事長から指名され、封筒に入った部屋番号カード・号車リボンなどが各世話人に渡され、再確認という事で土産店や真珠工房見学、伊勢神宮参拝、そして昼食後のお陰横丁の散策などなどののち、懇親会に入り全体の確認をしながら8時過ぎには解散した。後は当日の天気が良い事を祈りながら毎日の明け暮だった。



 当日朝は快晴とは行かないが、それなりの青空が拝めた。集合時間にバスを横付けにする城北信用金庫前に行くと、もうバスは到着していて、参加者が続々やってきた。1号車のバスガイドは見慣れた顔だと思い声を掛けると、会社で八広だといわれた時から、同じ旅行会だと薄々感じていたといって、何処へお供した時だったかねえと、聞き返されたが答えられなかったが、ガイド曰く一昨年の下呂温泉だったかと思うわよといわれ、ヤット思い出し暫く談笑してしまった。

 今年は都議選や9月までには否応なしに衆議院選挙も行われるので、自民党の地元の区議の出羽邦夫や都議選に立候補予定の桜井浩之、そして衆議院議員の松島みどりの各氏が出発前30分も前から本人達が来て各車内で見送りの挨拶と証として、笑顔を振りまいて積極的に政局を絡めて選挙の話も熱気を帯びている。午前7時には3氏の見送りで素晴らしい旅立ちとなった。

 向島や鐘ヶ淵からではなく高速は午前7時14分には錦糸町のインターから首都高速に入り、6号線と合流して、環状線は外回りに入り三宅坂トンネルを抜けて霞ヶ関トンネル、そして3号線と渋滞もなくスイスイと走り六本木や渋谷を通過し三軒茶屋、工事中の地下50m下から地上に上がってくる中央環状線の池尻大橋インターのループ状の巨大な構築物(ジャンクション)を見ながら用賀を過ぎ、砧公園の横を過ぎると一気に多摩川まで下り勾配は厳しく、気が付く暇もなく東京から川崎と走る走るバスは渋滞を知らずに東京料金所、静まり返った横浜インター、横浜町田インターを過ぎ大和市に入るとアンダーパスになった生活道路が、数えて行くと37もあって、海老名サービスエリアの第1回目の休憩所は、空も曇がちだったが何ら雨の心配は要らない。

 午前7時55分到着し20分間の休憩が終わると、予定時間よりかも早めの出発で、東名は右に緩やかにカーブしてJR相模線を跨ぎ、あっという間に相模川の上に来ていた。広い川幅の真中を何筋もの流れがあるが浅く釣り人も見かけられた。遠くてよく分からないが鮎釣りでもしているのだろう。
 
 厚木の市内に入ると直ぐに厚木インターで厚木道路と分かれ直進した。小田急小田原線や国道246号線を跨ぎ左にカーブして、次第に右側から建物が少なくなり小山が続き、左側も田畑が続き、更に左にカーブすると伊勢原市内となり高速に沿っては工業団地のように、市光工業伊勢原製造所、吉野工業所神奈川工場などが防護壁越えに分かる。右側は丘陵になっていた疎らに住宅などが上の方まで建っている。

 秦野市内へ入ると小田急小田原線は右側に線路は変わり、遠ざかって見えなくなると金目川の上を走り抜け秦野松田インターまでは田畑や雑地ばかりになった。インターの付近は家も建っていたが、それもあっという間になくなり、丘陵や雑地ばかりになって左に旧カーブし、右にはゴルフコースもあるようだが、右にカーブし始めると下り線中井パーキング、そして上り車線のパーキングが現れ、緩やかに4回も左右にカーブすると左側に第1生命保険の目立つビルが見え始め、天気が良ければ富士山のビューポイントであるが、今日は曇っていてここでは全く見えなかった。

 左側の第1生命保険のビルのある辺りに家屋が建ち並んでいるがインター付近は左右とも家並みはなく、インターから先で上下線が2本に分かれて、そして下り線は従来の上り下り線が4車線が下り線となる。怪しげな空模様ではあっても、なぜか富士山は良く見える。小田急小田原線、川音川、国道246号線を一跨ぎにして、足柄上郡松田町に入った。国道246号線は左側の並行してJR御殿場線も国道の向うを並行し始め、更に酒匂川も滲み寄って来る。足柄上郡山北町に入ると、酒匂川も離れ支流が並行し、支流を跨ぐと大きく左にカーブして上下線は2段になり、右側は山が迫り、左側の御殿場線山北駅付近からは新設された3車線の上り線と、下り線は昔の上下線が下り線となってどちらかを選択して、大野山トンネルの先で上り線は左にカーブしながら下り線を跨ぎ、ほぼ真直ぐな都夫良野トンネルと上り線の新都夫良野トンネルと鳥手山トンネル内で上下線は最大で1.5キロ遠ざかってしまい、どちらもJR御殿場線谷峨(やが)駅を挟んで酒匂川やJR御殿場線を谷峨高架橋で跨いだりして、上り線は鳥手山トンネル、太郎ヶ尾トンネルを経て、上下線は近寄って平行に走り、まず下り線の鮎沢パーキング、そして上りのパーキングとなってパーキングをを過ぎると再び離れしまうと静岡県小山町に入る。曇っていた空にも拘らず富士山は大歓迎してくれてるように、ここから富士川サービスエリヤまでズット見ることが出来、晴れ渡った時ならいざ知らずこの空模様では珍しい。桜平トンネル、高尾トンネル、その他2つのトンネルを経て、馬伏川を経て、再び上下線が入れ替わり、静岡県駿東郡小山町竹之下で上下線は合流した。JR御殿場線足柄駅からここまでは国道246号線まで行く道があって丁度1.2キロで徒歩15分あれば来られる。以前は鉄骨だけで赤錆びたみっともないものが風雨に晒されていたが何時しか撤去されて緑豊かになっている。

 足柄サービスエリアを横目で見ながら通過して、JR御殿場線、鮎沢川を過ぎると左側には御殿場プレミア・アウトレットの広大なエリアが、足柄森林カントリー倶楽部まで続いている。

御殿場プレミアム・アウトレット
 
御殿場プレミアム・アウトレットの建物や駐車場を過ぎるとなだらかなカーブによいしれながら車窓を眺め緑濃い富士カントリークラブが高速や生活道路に面して疎らに建つその先にそれとなく感じさせる木立がある。御殿場市東山地区に入り、間もなく国道138号御殿場バイパスへの出入口のインターが現れ、よく観察していると箱根裏街道と名前は変わったが、自分がよく利用していた頃の旧道の見慣れた御殿場インターもある。

 右側奥手にあるJR御殿場線の御殿場駅もあり、駅前から国道246を横切って陸上自衛隊東富士演習場や陸上自衛隊滝ヶ原駐屯地を過ぎ、富士太郎坊線・表口登山道・富士白糸滝公園線・富士山スカイラインなどを通じ朝霧高原などを経由して山梨県側や新五合目へ行くことが出来る。

 淡々と西に向って下り坂を下り県道394号線(基点:沼津〜終点:駿東郡小山町生土)を跨ぐ辺りから左にカーブし始め、高速の上り車線に登坂車線がなくなり国道246号線(起点:東京千代田区三宅坂交差点〜終点:静岡県沼津市上石田交差点)が、右から交差して左に抜けて行き、久保川支流を越して駒門パーキングとなり、左から擦り寄ってきた国道246号線が陸上自衛隊駒門駐屯地で並行に走り、自動車教習所横から離れたりくっ付いたりを2度繰り返して市街のほうへ離れて行った。

 すると関東自動車工業東富士工場の広い敷地に建て込んだ建物が左に見え、本線を跨ぐように右側へ行く裾野インター、出入口は左に行くと国道246号線裾野インター入口交差点に向かう。右に行くと裾野市下和田方面に行ける。この道を挟んで本線出入口付近には高速道路交通警察隊沼津分駐隊裾野分隊なんかもあって下り線は本線を跨いで左側車線に合流して来る。付近には結構工場も多く。関東自動車工業東富士工場関連会社や寮や社宅、団地等は虫食い状態で高速を挟んで建っている。高速も西に向っていたがこの辺りでは完全に南に向って走っている。

 左側の裾野市金沢地区に田園が多くなり始めると右側は虫食い状態が狭く家数がグッと多くなっている。御宿辺りまで来ると左右の家数も同じようになってくるが、軒数は少なくなっている。千福まで来ると離れていた246号線裾野バイパスがピッタリ寄り添い、黄瀬川を渡り桃園地域まで並行している。隣の富沢地区まで来ると一転して両側は住居も田畑もなくなっている。裾野市と駿東郡長泉町の境を流れる小川が見落としてしまうような流れもある。

御殿場市


 GOTEN
BAの頭文
字Gを図案
化。中央に
富士山を、
外枠に箱根
外輪山を表
現し、美し
い自然に囲
まれた御殿
場の伸びゆ
く市勢と市
民の協和を
表現。

 富士山麓
に多く自生

 樹高は3
〜4mぐら
いで、小さ
な花が木い
っぱいに咲
き、清純に
して気品が
ある。

 春の御殿
場を代表す
る美しい花
市制施行 昭和30年2月11日
 富士山麓
に自生し、
建築材(大
黒柱)として
多く用いら
れます。

 巨樹に成
長するたく
ましい樹勢
は、発展し
てゆく市の
姿を象徴す
るにふさわ
しもの。

 4月から5
月にかけて
、南方から
富士山麓に
渡来する夏
鳥です。人
家の近くの
比較的低い
林の中に
住み「キョロ
ッ、キョロッ
、コケキコ
キョキ」と美
しい声で鳴
く。
市役所 御殿場市萩原483
海抜 459.8m
位置 東経138°56′16″0、北緯35°18′19″4
面積 194.63ku
範囲 東西24km、南北16km
人口 90395人(男46301、女44094)
世帯数 34469世帯(平成21年11月1日)
市の 富士桜
市の木 けやき
市の鳥 くろつぐみ
 富士山と箱根山系に挟まれ、黄瀬川と鮎沢川の源を有する御殿場地方に人々が住み着き始めたのは、今か
ら6〜7千年前の縄文時代早期と呼ばれる頃であった。当時の人々が残した土器や住居の跡が箱根外輪山の
中腹から多数発見されている。この頃は、富士山が盛んに火山活動をしており、噴火があると逃げ、おさまると
住み着くということを何度も繰り返していたようだ。

 弥生時代になって、この地方はあまり変化がなく、やがて稲作を中心とした農耕技術の伝播により、今まで山
間に住んでいた人々は、稲作可能な沼沢地へ下っていった。その沼の縁に稲作を主とした人々が集団で住み
始めたのは、古墳時代と呼ばれる頃からであったといわれている。

 やがて、富士山麓一帯のあちこちに「むら」がつくられていった。8世紀以降、律令制度による中央集権体制が
確立すると、都と地方を結ぶ官道が整備され、都と東国(相模以東の諸国)及び甲斐国を結ぶ古代東海道の要
所であるために、駿河国で最も大きな駅、横走(よこばしり)駅が置かれた。

 国時代、この地は駿河・甲斐・相模の境界地帯として幾多の戦いに巻き込まれた。深沢城跡は、永禄12年(
1569)と天正8年(1580)にかけて武田氏と北条氏が争奪戦を繰り広げた城である。
関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。元和2年)1616)、沼津代官はこ
の地方の土豪“芹澤将監”に対し、家康が使う御殿の造営及びその周辺に新町を建設することを命じた。御殿
を中心に御殿新町が生まれた。“御殿場”という地名はこの“御殿”に由来している。

 昭和28年9月「町村合併促進法」が制定された。これにより御殿場町、富土岡村、原里村、印野村および玉
穂村が合併し、昭和30年2月11日人口約4万2千人の御殿場市が誕生した。翌31年1月1日高根村が編入
され、翌32年9月1日小山町の古沢地区が編入され現在に至っている。昭和44年東名高速道路の開通によ
り市の様相が一変した。わずかな地場産業と、農業観光が主であった当地に年々各種企業が進出し、昭和59
年には駒門工業専用地域に10社余の優良企業が誘致された。

市歌
作詞:佐佐木 信綱 作曲:信時 潔 
昭和35年8月22日制定   
1・大いなるかな 富士の心
  豊かなるかな 富士の姿
  日本の象徴 嶺めの山の
  生命を永遠に 継ぐもの我ら
  集いて成せば いよよ栄えん
  栄えんいよよ わが御殿場市
2・湧くや真清水 野地に里に
  花の広野 鳥は群れて
  平和の楽園 観光都市が
  新たに築く 産業文化
  手をとり共に 力協せむ
  協せむ力 わが御殿場市
3・長尾の峰の みどり深く
  清き谷川 絶えず流る
  うつくし国立 青年の家
  未来の空の 朝霧晴れて
  歌声いざや 高く讃えむ
  讃えむいざや わが御殿場市

 



裾野市


スソノの「ス」を
星型に
つ組
合わせ、外側
の結合部は日
本の象徴でも
ある富士の麗
峰を型どって
います。

スを5つ組み
合わせたの
は、富士の裾
野の旧5か村
が固く団結す
ることを表わ
し、中央の円
は、平和に栄
えることを表
わしたもので
す。
市制施行 1971年(昭和46年)
愛鷹山(あした
かやま)や天
子ケ岳(てんし
がだけ)に自
生する珍しいツ
ツジです。落葉
低木ですが、
越前岳にはか
なり大きいもの
もあります。花
弁は、径3セン
チ内外で紅紫
色、純粋種は
雄しべの数が
10本です。分
布は標高
〜1,500mの
間にみられま
す。

スギは、幹が
直立しているこ
とから「す(直)
き(木)」また、
すくすく立つ木
の意味といわ
れています。ま
っすぐに、素性
よくすくすく育ち
、樹木の中では
寿命が長く、市
内には樹齢40
0年を超える巨
木もあります。






スズメよりやや
小さい鳥で、「
春告鳥」の別
名があるように
、早春、ウメの
咲くころになる
と「ホーホケキ
ョ」と美声で鳴
くようになりま
すが、「法華経
」と聞こえるこ
とから、「経読
鳥(きょうよみ
どり)ともいわ
れています。




市役所 裾野市佐野1059番地
海抜 126.2m
位置 東経138度54分36秒
北緯35度10分22秒
面積 138.3ku
範囲 東西23.5km、南北23.0km
標高 78.5mから2,169m
人口 54,533人
(男27,893人、女26,640人)
世帯数 21,057世帯(平成21年11月1日)
市の花 アシタカツツジ
市の木 スギ
市の鳥 ウグイス
市章 昭和32年9月18日制定
花・木・鳥 昭和47年9月22日 制定
 富士山は成層火山のため、その雪解け水は麓の地下を通って三
島市など少し離れた場所に湧出し、他方で麓の一帯の表層部は火
山灰を含む地質で水もちが悪く、その一部である小田原藩駿河国
深良村(現在の静岡県裾野市深良地区)の農民は慢性的な水不
足に悩まされた。
 徳川4代将軍家綱の時代で、村人たちを思う大庭源之丞は、江
戸商人の友野與右衛門(とものよえもん)に資金と技術の提供を依
頼した。二人は、江戸幕府および地元の小田原藩、芦ノ湖の水利
権を有する箱根権現の許可を得て、寛文6年(1666年)に工事を
開始した。

 芦ノ湖の水を静岡県側へ流すために、1666年から約4年の歳月
をかけ湖尻峠の下に掘られたトン

ネル。全長1,280mに及び、出会
いに1m程の誤差しかなかったと
言われ測量技術の精度の高さに
驚かされる。この用水は、深良村
の名主・大庭源之丞が幕府と小田原藩の許可の下、箱根権現の別当快長の理解と
江戸浅草の商人・友野与右衛門の協力を得て完成。かんばつに苦しむ農民を救った
と言われている。尚現在は、用水を使った水力発電も行われている。深良側出口には
「深良用水300年記念碑」が建っている。
 この工事にかかった費用は7,300両あまり。これは現在の50〜60億円に相当す
るという話があります。工事に関わった人夫は述べ83万人だそうで、とんでもない大
工事だった。

 隧道完成以来300有余年、灌漑や飲み水、防火用水に、また明治末期からは発電
にも使用されるなど、深良用水の恩恵は計り知れず、今もなお現役の用水として地域
一帯で活用されている。
 
作  詞   遠藤 佐市郎
作  曲    勝又 勝右衛門
補作曲   服部 正

1・富士の高嶺を北にして
愛鷹山や、箱根山
西に東にそびえ立ち
朝日、夕日に照り映(は)ゆる
大いなるかな わが大地
壮んなるかな わが裾野

2・東海一の名どころに
わが裾野市は生まれ出て
世代のなやみ余所(よそ)にして
理想の郷(くに)に進みゆく
大いなるかな わが大地
壮んなるかな わが裾

 いくらか工場が建ち並んだりしているが、すぐに田園地帯になり左には県立がんセンターの建物もある。右に緩くカーブして南東に進み始め、坂も緩やかになり始めると、左に分かれる沼津インターへの誘導路になり、ラブホテルも目立つ横を尻目に我々は本線を引き続き西に向い、インター出入口に通ずる生活道路沿いには家並みも見えるが、それ以外には緑豊かな木が生い茂っている。そんな右側には東部運転免許センターの練習コースや建物が見える。



沼津市


沼津市の市章は、
ヌマヅ{ヌ}と、名勝
として名高い千本
松原の松葉を組み
合せて図案化した
もの。


富士山の威容を背
景として、寄る白波
に緑の映える千本
松原は、若山牧水
井上靖の作品にも
描かれている。

市 制 施 行 大正12年(1923年)7月1日
木瀬崎の砂地に群
生し、万葉集にも
歌われたこの名花
は、海浜砂地に自
生し、木面(ゆう)
のような花をつける
ことからその名が
付けられた。
特例市移行 平成12年(2000年)11月1日
人       口 208,749人(2009年4月1日現在)
世  帯  数 ,6292世帯
人 口 密 度 ,116人/ku
位        置 東経:138°52北緯:35°06
面         積 187.11ku
海岸線延長 62km
市  の  木
市  の  花 はまゆう
海         抜 ,380m(市内最高地)
 沼津市は、首都100km圏に位置する静岡県東部にあって恵まれた自然環境と優位な地理的条件のもと
で、東駿河湾地域、伊豆方面への交通拠点あるいは広域的な商業・文化拠点として、古くからこの地域の
政治、経済、文化の中心的役割を担ってきた。

 奥駿河湾ごしに見る富士山、緑濃い千本松原、香貫山、街の中心部を滔々と流れる狩野川などの豊かな
自然とその景観は、多くの文人たちを輩出すると同時に、新鮮で豊富な魚、温暖な気候と豊かな土壌に育ま
れるお茶やミカンなどの農作物、自然条件を生かした観光、東部地域の中心をなす商業、先端技術を誇る
工業など多様な産業をバランスよく発展させてきた背景ともなっている。

 他に誇る恵まれた自然環境を生かしながら、静岡県東部の雄都にふさわしい都市機能の充実を図り、人
々が訪れ、集い、にぎわい、かつ回遊性をもったまち、人々を引きつける魅力にあふれた個性豊かなまち、
そして何よりもここに生き、暮らし、活動する市民一人ひとりが「人が輝き、まちが躍動する交流拠点都市・
沼津」の実現をめざして、行政と市民が一体となり、よりよい沼津のまちづくりを進めている


沼津が誇る日本一

 ※国内ゲート設備全体重量順位(シェル構造ローラゲート単段)
 この水門の扉体は、通常、満潮海面から15mのクリアランスを保った位置で固定され、その下を漁船や客船が航行します。津波の想定水位は干潮海面から5.8m。これに航路の水深−3.5mを加えたものが、扉体の高さ9.3mとなっています。
 万一、津波が発生し、地震計が250ガル以上、震度6弱以上を検知すると、水門扉が急降下して閉鎖する自動制御システムを採用しています。
 なお、高さ約30mの水門最上部には展望回廊も併設され、公募により「びゅうお」と愛称決定されました。「びゅうお」はview(びゅう(景色、眺めの意味))と魚(うお)を組み合わせた名前。

 

順位 施設名 発注者 重量(トン) 純径間(m) 扉高(m)
びゅうお 静岡県 923.00 40.00 9.30
紀ノ川大堰(制水門) 近畿地方整備局 765.00 51.60 7.10
淀川大堰 近畿地方整備局 653.00 55.00 7.80
川原川水門 岩手県 509.00 25.00 8.40
新田原頭首工(洪水吐) 中四国農政 454.00 40.40 8.20
筑後大堰(制水門) 九州地方整備局 394.00 46.00 6.35
遠賀川河口堰(制水門) 九州地方整備局 377.00 46.50 6.50
中ノ口川水門 北陸地方整備局 371.00 30.00 11.10
妙見堰 北陸地方整備局 311.00 39.00 5.17
10 芦田川河口堰 中国地方整備局 257.00 41.40 6.00

 柿田川湧水量

 清水町にある柿田川湧水群の水量は、日量約100万トンで、日本一の湧水量を誇ります。
 (湧水量=柿田川の流量+飲料水の取水量+工業用水の取水量) 富士山に降った雨や雪が地下に流れ込んで地下水となり、三島溶岩流の間をゆっくりと流れ、三島市やこの柿田川などで地表に「湧水」となって現れ、この湧水の規模の大きいものが柿田川。
 また、柿田川の湧水は、水温15度前後と夏は冷たく冬は暖かく感じられ、地下で自然
浄化された水質は天下一品で透視度の極めて良い清水が、「日本の名水百選」(環境省)や 「21世紀に残したい日本の自然100選」(財)森林文化協会・朝日新聞社に選ばれている。
 なお、貴重な飲料水の水源として沼津市、三島市、清水町、函南町、熱海市など周辺市町に清水を供給している。

 世界初斜張定着PC張弦桁橋あゆみ橋

<橋の概要>
名称
長さ
備考
あゆみ橋
178.13m
7.8m
歩行者・自転車専用

 伊豆の天城山にその源を発し、沼津市街を流れる狩野川の両岸、中央公園と香貫公園をつなぐ場所に、平成11年3月、歩行者と自転車のための橋が誕生し、歩行者の交通安全の確保と、利便性が向上した。
 主塔からシャープにのびる斜張ケーブル、見る人に圧迫感を与えないスリムな主桁、そして魅力的な曲線を描く桁下の張弦ケーブルが印象的なこの橋には、 斜張定着PC張弦桁橋と呼ばれる世界初の新しい構造が採用された。
 沼津市街地の景観とも調和し、中央公園・香貫公園・狩野川緑地や遊歩道を
一体化して水辺で憩う、ゆとりある空間が生れた。


駿河湾

順位

名称

水深

所在地

1位

駿河湾

,500m

  静岡県

2位

相模湾

,500m

神奈川県

3位

富山湾   900m   富山県

 伊豆半島最南端の石廊崎と御前崎を結ぶ線に囲まれた海域が駿河湾で、その最深部は2,500mに達し、日本の湾の中では一番深い湾で、駿河湾は、湾の間口も奥行きも約60km、 表面積は約2,300ku。
 その水深の特徴は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境に位置し、1,000mより深くに海底峡谷が湾口から湾奥部まで南北に連なっている。
 また、湾内には約1,000種の魚類が生息しているといわれています。(日本の魚類は淡水魚を含め約2,300種)イワシ、アジ、サバをはじめ、サクラエビ、メダイ、ムツ、ヒラメ、ソコダラ類、ボタンエビ、アカザエビ、クルマエビ、イセエビ、タカアシガニ等が生息している。

アーケード街


 百貨店や大規模な商店街などがあり、商業の売上高も静岡や浜松に次ぐ規模である。物流の上でも
浮島沼辺りの国道1号沿いに倉庫街があり、地域の商業を支えている。しかし、旧来の商店街は個人
経営の店が多いことや後述する人口減少にも伴い活気が往年ほどには見られず、沼津駅の南に少し
離れて位置する「アーケード名店街」と呼ばれるかつての高級商店の並ぶ通りにおいては、シャッター
通り化といった現象も見られる。

 ※鰺の干物、雑節()の生産量が日本一。
 ※政令指定都市になるには面積も人口もりないので頭を抱えている。三島市およびその周辺市町村と合併すれば実現   の可能性もあるが、それに伴い市名存続争い起そう。
 1876年8月21日の静岡県成立以降、静岡市や浜松市と並ぶ拠点都市として発展してきたが、近年は人口減少が続き、人口規模では富士市が上回るなど、拠点性は残念ながら縮小傾向

千本松原(せんぼんまつばら)
 静岡県沼津市の狩野川河口から、富士氏の田子の浦港の間約10kmの駿河湾岸(正式名称富士海岸、通称千本浜)に沿って続いている松原。
 この中を旧東海道とほぼ並行して走っている道が千本松道りである。
 天文年間(1532〜54年)、増誉(ぞうよ)上人がここにやってきた時は、武田勝頼により伐採され、荒涼としていた。地元の人が、塩害を防ぐため松を植えようとしていたが、なかなか根がつかず難儀していた。
 それを見た上人が、1本1本お経を唱えながら、手植えしたところ根がついたとのこと。村の人は感謝し、草庵を建てたのが乗蓮寺である。

  先へ進めば進むほど家数は少なくなり、足高地区から宮本地区に入ると、愛鷹山の裾野に広がる丘陵地帯で、茶畑が、アチコチに広がり愛鷹パーキングになり、過ぎると西椎路地区、そして、東原地区に入り、すぐに鳥谷地区と高速南側葉茶畑が続いているが、北側は建物が建て込んでいて宮本地区には富士通沼津工場の一連の建物が茶畑に取って代わっている。

 柳沢地区に入ると、茶畑は相変わらず続き、高橋川に沿って民家が大きな部落をなしている。




湘南色電車

 東京ー静岡特急東海・JR東海ダイヤ改正
JR東海のダイヤ改正(18日)に伴い、オレンジと緑の二色の車体が「湘南色」などの愛称で親しまれた旧国鉄時代の車両や東京-静岡を結ぶ特急「東海」が、十七日の運行を最後に静岡地区から引退する。
 「湘南色」と呼ばれる「113系」「115系」は旧国鉄が昭和38年に導入した鋼鉄製車両。静岡名産のミカンとお茶を思わせる鮮やかな色使いで、鉄道ファンはもとより沿線住民にも親しまれた。車体の老朽化が進み、ステンレス製の新車両に入れ替わる。
 「113系」のラス下ランは東海道線で、上りは浜松発(午後7時55分)ー静岡行へ同9時7分)。下りでは三島発(同10時)ー静岡行(同11時11分)。   「115系」の最終運行は身延線で、西富士宮発(午前8時29分)ー富士(同8時50分)ー沼津行(同9時10分)。
 特急「東海」は、昭和30年に東京ー名古屋間の準急として導入された。同47年に区間が東京ー静岡に変更、平成8年から特急になった。1日2往復、同区間で新幹線が停車しない駅の補完列車として運行してきたが、利用者が減って廃止となった。最終運行は静岡発(午後5時23分)ー東京行(同7時40分)。当日の指定席はすべて完売している。
 身延線ではこのほか、クリーム色の車体にオレンジと緑の線が入った「123形電車」(愛称「ポニー」)も同日、引退する。西富士宮発(午後11時2分)ー富士行(同11時23分)が最終。
(静新平成19年3月15日(木)朝刊)

 東名は新幹線や東海道本線などより高台の山側を通っていることで、沼津市内や海岸線まで望め、その内に富士山もご機嫌よく右側に見え出し、東海道で一番のビューポイントとなり、煙突が林立する富士市吉原を左に見ながら、富士川を越え後千9時15分と予定していた時間よりも15分も早く到着した。富士川サービスエリヤにやってくるとパラパラ雨が舞いだしてもきた。



広重の東海道53次浮世絵から
 (沼津〜原〜吉原〜蒲原〜由比〜興津〜江尻〜府中)

 



富士市

市制施行 1954年(昭和29年3月31日)昭和41年11月1日吉原市・鷹岡町の合併により富士市誕生
市役所 静岡県富士市永田町1丁目100番地
人口 261,565人(男:129,590人 女:131,975人)
世帯数 95,898世帯
面積 245.02㎢
範囲 22.7q(東に沼津市、西に静岡市)27.5q(南に駿河湾、北に富士山)
海抜 海 抜 最高 ,421m 最低 .7m
自慢アレコレ





○富士川の河口幅が1,958m
○駿河湾の水深2,500m(相模湾は1,500m)
○駿河湾の海底こう配が3分の1〜10分の1の急こう配
○高潮堤防の高さが17m(標高)
○工業専用都市下水路(岳南排水路)の排出量は1日に約106万㎥ (100工場が利用、延長約38q)
○製紙会社62社、73工場(平成20年4月現在)
○トイレットペーパーの生産量 310,216t 全国比 30.3%(平成18年)

友好都市





アメリカ合衆国

カリフォルニア州・オーシャンサイド市 温暖な気候
を生かした果物の栽培や、軽工業、
電子工
業などが盛んなオーシャンサイド市。富士
市とは平成3年
12月2日に姉妹都市提携を結び
ました。

中華人民共和国

浙江(せっこう)省・嘉興(かこう  平成元年1月1
3日に富士市と友好都市提携を結んだ嘉
興市は、7
,000年もの歴史を持つまち。豊かな自然に恵 まれ、
紡績や製紙業などの工業も盛んです。

 日本最古の物語、「竹取物語」の舞台となった20世紀から今日まで、富士市は快適な気候や立地に支えられ、多くの
人々が住むまちとして、長い歴史を重ねてきた。
雄大な富士山を仰ぐ富士市は、いわば日本全体のふるさとであり、「ま
ほろば」だと言っても過言ではないでしょう。
市内の各地域には、こうした長い歴史を物語る貴重な史跡や文化財、個性
的な祭りなどが、今も脈々と受け継がれ、市民の営みの根元を支えている。

 平成20年11月に旧富士川町と合併した新富士市に、先人が残した化の足跡が新たに加わった。 江戸時代に富士
川の渡船名主と間宿(
あいのしゅく)を務めた常盤家の邸宅「小休(やすみ)本陣常磐邸」や旅行者の目印として一里
ごとに設置された「岩淵の一里塚」(江戸から37番目)、明治後期に時の宮内大臣の田中光顕(
こうけん)伯爵の別荘
として建てられた「古谿(
こけい)荘」など、往時を追想させる。
 富士市の四大祭り(@甲子(きのえね)神社祭典A毘沙門天大祭B吉原祗園祭C富士まつり)は、多くの市民が集い
参加する大きな行事で、季節の歳時記でもあり、古くからの風土や信仰に基づき受け継がれたものや、新たな市民の
活力創出のために生み出した。

市章:(昭和42年3月制定)

 「市章」は、真ん中に富士市の誇りである「富士山」を配置し、外円は円満に合併した旧2市1町を、下の
3本の曲線は田子の浦港から外国に向かって限りなく発展する富士市の産業を表現しています。外円と
色彩の緑及び富士山の両側の空間は、「太陽と緑と空間のある都市」をそれぞれ表しています。
 
(昭和43年7月制定)
  「バラ」は、わが国はもとより、世界の人々に最も愛されている花であり、国際港のある富士市にふさわ
しい花です。各家庭においても容易に植栽することができ、花の美しさと親しみやすさは、市民の融和と
潤いのある「美しいまちづくり」を進めるうえにも最もふさわしいと言えます。平成13年度には富士市オリジ
ナルのバラをつくり、一般公募により名前は「かぐや富士」と決定しました。 
 
市の花:クスノキ(昭和43年7月制定)
 
 「クスノキ」は、暖地に多く分布し、本市にも自生しています。常緑樹ですので「緑のまちづくり」に適し、
特に新芽の美しさは格別です。大きいものでは、樹高50m、直径2mにも達し、樹齢は1,000年を経る
ものもあります。新生富士市の限りない発展を象徴するのにふさわしいとして選定されました。
かぐや姫の里 富士市
だれもが知っている、竹取物語のかぐや姫。富士市比奈の竹林に「竹採姫」と刻まれた石碑があり、かぐ
や姫伝説の発祥の地とされています。
比奈という地名も 「姫名郷(ひめなのさと)」から転じたものと言わ
れています。富士市に伝わるかぐや姫伝説では、姫は月の世界に帰るのではなく、富士山へ登っていっ
てしまいます

富士市民歌

(昭和42年3月制定) 
作詞:柴田忠夫  作曲:宇野誠一郎
太陽の丘陵(おか) みどりの裾野(すその)
萌(も)える希望の 木の芽が花が
光り、光り、光り
一つのまるい輪になった
真白い富士の高嶺(たかね)をめざし
高い文化の輝きみちる
富士市 富士市 われらの富士市
朝やけの海 行き交(か)う船は
息吹(いぶ)きさかんな 工業都市の
進む、進む、進む
姿をここに田子(たご)の浦
未来をつかむ大きな夢を 
強くゆたかに育(はぐく)みながら
富士市 富士市 われらの富士市
青い林道(りんどう) 富士川(かわ)の水
治山治水の たくみをあつめ
伸びる、伸びる、伸びる
メトロポリスの美しさ
愛鷹山(あしたかやま)よ 栄える市街(まち)よ
つねに変わらぬ理想を映す
富士市 富士市 われらの富士市

 20分の休憩が終わると昼食場所になっている袋井観光センターを目指した。蒲原から由比の間で新幹線と入れ替わり、海岸線に出てきた。由比パーキングは細長いが波うち際で左は駿河湾でその先の太平洋の水平線彼方には行き交う船も見えたりと、バス旅行も一段と華やぎ始めカラオケがと相成り今日の宴会の代表選びとなった。 



静岡

市制施行 平成15年4月1日
本庁・ 静岡市役所
(東経 138°23′10″・北緯34°58′18″)
静岡庁舎:静岡市葵区追手町5番1号
清水庁舎:静岡市清水区旭町6番8号
人口 723,323人 :351,319人    368,855人)
世帯数 287,985世帯
面積 1,411.82ku 
範囲 東西 50.62km 南北 83.10km
市の木 ハナミズキ
市の花 ハナミズキ
市の鳥 カワセミ
姉妹都市 アメリカ:ストックトン、オマハ、シェルビービル、市室蘭、上越
友好都市 佐久市、ベトナム:フエ市
年間平均気温 17.1℃ (最高 36.3℃ 最低 -1.2℃)
全国から寄せられ
たた,774件の
インの中から、
市民投票を経て決
定しました。
 静岡、清水、そし
て新“静岡市”の
頭文字“S”を発想
の基本に、自然と
都市機能が調和し
た豊かな都市イメ
―ジを表現しいえ
います。
 日本のシンボル
である富士山と駿
河湾の波のシンプ
ルな造形が、飛躍
する新しい都市、
広がる市民の豊か
な暮らしを感じさせ
ます。シンボルカ
ラーの“ブルー”は
、清潔感と透明性
を表し、空や海の
ようにどこまでも
続く国際性、開放
感を表現していま
す。
大正時代に東京
市長がワシントン
に贈ったサクラの
返礼として渡来し
た日米親善の木
です
。贈ったサクラの
苗が清水区興津
の果樹研究所で
栽培されたもので
あることから、本
市にゆかりのある
木となっている。
春に花を咲かせ
ますが、大きな花
びらに見えるのは
総ほう片で、ピン
ク色と白色がある
。また、秋には紅
葉する。







  静岡にゆかりの
「あおい」という呼
び名を持つものの
内でも、花が美し
いことで知られて
いる。背丈は3m
程にもなり、初夏
には茎に赤、ピン
ク、黄、白などの
花を咲かせ、栽培
は比較的やさしく、
公園、花壇などに
利用されている。
 なお、徳川家の
紋所「三葉葵」は
フタバアオイ(ウ
マノスズクサ科)を
図案化したもので
、タタチアオイとは
異なる。







翼や尾が翡翠色、
下面が橙色の美し
い鳥で、川面を飛
ぶ姿は「水辺の宝
石」と言われて、水
中に飛び込み、長
いくちばしで小魚
やエビなどを食べ
る。
 清流に棲むこと
から良好な環境の
指標とされ、姿が
見られる安倍川、
興津川など本市河
川の良好な自然環
境を象徴する鳥と
なっている。











わたしの街 静岡
詞:静岡市選歌 補作詞 作曲:小椋 佳 編曲:川辺 真

特産品
       
 おいしいお茶を作るため、茶農家は1年中お茶の木を見守り、気象や土壌などいろんな要素がうまく整ってこそ、本当においしいお茶が生まれる。
 一番茶、二番茶、三番茶、秋番茶と摘む時期によってお茶の呼び名も変わる。
●お茶の木のルーツ
 
学名はCamellia sinensis O.Kuntze。ツバキ科の常緑の潅木(低木)、発祥地は中国南西部の亜熱帯地方といわれて、数    千年の歴史を持ってい 
●お茶の木の種類
  中国小葉種、中国大葉種、シャン種、アッサム種などがあり、日本で栽培されている緑茶の多くは葉が小さくて低木、寒さ  に強い中国小葉種です。代表的品種として、静岡市の杉山彦三郎氏が生み出した「やぶきた」が有名で。 
●お茶の木の形
  本来のお茶の木は普通の木のように上へ向かって広がる。しかしそれでは葉を摘むのが大変なので、お茶を効率良く摘  むためにカマボコ型に苅られるようになった
●お茶の木の寿命
  本来のお茶の木の寿命は約150〜200年。とはいうものの、新鮮な茶葉を摘むためにはやはり若くて勢いのある木でなく  っちゃ。ですから茶畑の茶樹は、20〜30年を目安に植え変えられています。
 静岡市を中心に、西にも東にも富士・沼津、清水、本山(ほんやま)、志太、川根、牧の原、中遠、天竜・森・春野などお茶の名産地がいっぱい。
 春から夏のシーズン中、摘まれたお茶の葉は、すぐに製茶工場に運んで荒茶に仕上げ、お茶の鮮度や香りを逃さないように、素早く手際良く、荒茶作りの工程が進んでいる。製茶工程の中で重要な「揉む」技術。現在は機械化されていますが、明治の頃は手揉みが中心でした。この手揉みの腕で色つや、香り、水色、滋味などが違い、いくつかの流派があり、力の加減、手づかい、息づかいなどが異なり、現在、手揉み名人は15人ほど。だんご状になったお茶葉をほぐし、細長い形になるように手のひらで揉みながら、弱火にかけた鍋の中に落とし、。これを繰り返して全体の形を整える。
 お茶の種類も味も実にいろいろ。おもてなしのお茶、食後のお茶、ひと休みのお茶。暮らしのTPOに合わせて、上手にお茶を飲み分けたい。健康や美容に効果的といわれる
煎茶・深むし煎茶・玉露・抹茶・番茶・ほうじ茶・茎茶・玄米茶・ぐり茶などお茶の成分として、カテキン、カフェイン、ビタミンC、E、フラボノイド…。お茶にはからだにいい成分がたくさん含まれていて、
●口臭を防ぐ
  食後にお茶を飲むと口の中の食物のカスが洗い流され、お茶の抗菌作用で口の中の細菌の増加を防ぎ、 お茶のフラボ  ノイドは口臭を押さえる作用があるので、お茶でうがいをするといっそう効果的。
●虫歯を防ぐ 
  お茶に含まれているフッ素は、歯を強くし虫歯への抵抗力をつける働きがあり、またお茶に含まれているカテキン類(タ  ンニン)の殺菌作用も虫歯を防ぎ子供たちの食事やおやつの後には、ぜひお茶を飲む習慣を身につけよう。
●胃腸の働きを促す
  お茶に含まれているタンニンは、胃腸の働きを活発にし、便秘の解消にも効果的で、 ストレスに弱い胃腸を、まろやかな  お茶でいやす。
●食中毒を防ぐ
  お茶に含まれているカテキンの殺菌作用は、食中毒の原因となる腸炎ビブリオ菌撃退に効果を上げ、寿司と日本茶という  絶妙な組み合わせには、食中毒予防の意味もある。
●ストレスへの抵抗力をつける
  お茶に多く含まれているビタミンCはウイルス感染への抵抗力を高め、風邪や病気にかかりにくい体質を作り、身体の免  疫機能が向上するとストレスや疲れを感じることも少なくなり、いつも元気に暮らせる。
●細胞のガン化を防ぐ
  お茶に含まれているカテキン類やビタミンCには、発ガン物質の作用を抑制する働きがあるといわれ統計的にも、お茶を  多く飲んでいる地方ではガン発生率が低いまだ研究段階でが、お茶が不老長寿の妙薬として公認される日もそう遠く  はないだろう。 
●からだのPH、コンディションを整える
  人間の身体は弱アルカリ性がベスト。しかし不規則な食生活や疲労で身体が酸性に傾くと調子を崩しお茶に含まれて  いるミネラルなどの微量要素は、身体の酸性化を防ぎ、体調のバランスを整える。
入れ方分量 
●番茶
・分量…お茶の葉は小さじ山盛
杯(約g)、お湯の量/約400ml(人分)
・お湯の温度/熱湯 ・煎出時間/
30秒くらい
●冷茶
・分量…水出し用煎茶ティーバッグ
袋(10g入り)、水/約リットル
・水の温度/常温 ・煎出時間/
1015分 
  ティーバッグを絞って濃いめに抽出  絞ったあとはティーバッグは取り除く

●玉露
・分量…お茶の葉は大さじ
杯(約10g)、お湯の量/約60ml(人分)
・お湯の温度/
70〜80度 ・煎出時間2分〜2分30秒
分量……お茶の葉小さじ山盛り3杯(約6g)、
      お湯約
180270ml(人分) 
・お湯の温度……
7090
・煎出時間……
3060
保存法
 お茶は、よく売れているお店で少しずつ買い足すのが一番で、まとめて買った時は茶缶に入れてラップと粘着テープで密封し、冷蔵庫(又は冷凍庫)に保管。(但しあくまでも非常手段と
して。)冷蔵庫から出して使う時には、結露による湿気を避けるため、使う30分前ぐらいに前にあらかじめ出しておき、常温にならしてから開封。

3区役所の位置

駿河区

旧静岡市のうち、概ねJR線以南の区域及びJR線以北のうち旧長田村の区域

面積

72.89平ku 成21年3月31日現在

人口

212,108人
平成21年3月31日現在(住民基本台帳及び外国人登録数の合計)

駿河
区役所

駿河区南八幡町10番40 電話:054-202-5811

駿河区
長田支所

駿河区上川原13番1号 電話:054-259-552

葵 区

旧静岡市区域のうち、概ねJR線
以北の区域(旧長田村の区域を
除く。)

面積

,073.42平方ku 
平成21年3月31日
現在

人口

260,852人
平成21年3月31日
現在

葵区役所

葵区追手町5番1号
電話:054-254-
2115

葵区
井川支所

葵区井川656番地の2 電話:054-260-2211

駿河区

旧静岡市のうち、概ねJR線以
南の区域及びJR線以北のうち旧長田村の区域

面積:

72.89平ku平成2
1年3月31日現在

人口:

212,108人平成21年3月31日現在
(住民基本台帳及び
外国人)登録数の合
計)

駿河
区役所

駿河区南八幡町10番40号 
電話:054-202-5811

駿河区
長田支所

駿河区上川原13番1号電話:054-259-5522

 
 静岡市清水区になると新幹線と入れ替わり、清水エスパレスのサッカー場や日本平が左に見え始め、東京からは早約200kmも移動している勘定になる。草薙駅手前で新幹線と入れて変わり右にカーブしてJR静岡駅の南側を通行して安部川を渡った。
 



広重の東海道53次浮世絵から
(鞠子〜岡部〜藤枝〜金谷〜日坂〜島田〜掛川〜袋井〜浜松〜湖西〜二川)





焼津市

 焼津市は、東京から西へ193km、名古屋から東へ173km、京浜・中京のほぼ中間の位 置で、その玄関口としてJR東海道線に「焼津」「西焼津」の二駅、東名高速焼津ICがある。
 静岡県の中央部で、北は遠く富士山を臨み、高草山(501m)、花沢山(449m)などの丘陵部を境に県都静岡市と藤枝市に接し、東に駿河湾を臨み、西南は一望に広がる大井川流域の志太平野で、平坦に西で藤枝市と接している。
 年間平均気温16.5度、冬季の降雪もまれな温暖な気候で、面積は70.55ku、北部山間部を除き平坦な区域に、約5万3000世帯、約14万7千人の市民が生活している。

市制施行 昭和26年3月
市役所 焼津市本町2-16-32
市役所位置 東経:138゜19´23"北緯:34゜52´01"
人口 146,828人(男:72,290人、女:74,538人)
世帯数 146,828人(平成22年1月末現在)
面積 70.55ku
範囲 東西:5.km、南北12.km、海岸線11.km
姉妹都市

 焼津港所属のマグロ漁船がオーストラ リア沖で操業する際に燃料や
食料補給のための寄港地としていたことが縁でホバート市と昭和52
年に姉妹都市縁組の調印をした。
 ホバート市はタスマニア州の州都で、人口は約20万人。オーストラリ
アではシドニーの次に古く、19世紀の雰囲気と自然美あふれる景観を
持ち、バレエ団、合唱団、中高校生が訪問し、タルーナ高校生や州政
府一行が来訪するなど幅広い交流がある。

 市章

 広く市民から公募し、昭和27年11月に制定カタカナ
の「ヤイヅ」 を図案化したもので、市民の協力と伸びゆ
く市勢を象徴しています。
 市の木

 マツ科の針葉樹、常緑高木。正月の門松などの風習
に見られるように、長寿や繁栄を象徴する木として親し
まれ、市の木にふさわしい風格を持ちあわせています。
 市内では、海岸線を中心にクロマツが多く見られ、防風
・防潮の役割を果たしています。
 市の花

 ツツジ科の常緑低木。5月〜7月ころ、紅紫色の「ろう
と型」の愛らしい花が咲きます。焼津の気候によく合
い、街の景観を美しく彩ってくれます。
 市の鳥

 チドリ目カモメ科の海鳥。10月頃、日本に飛来し、4月
頃ユーラシアへと帰る渡り鳥。全長約40cm、白い体に
翼の上面は青灰色、くちばしと脚が赤い美しい鳥です。
 たくさんの野鳥が生息できる豊かな郷土をという願い
のもと、水産都市にふさわしい鳥が選ばれました。

焼津市民歌

服部順市 作曲;古関裕而

1海が、呼んでる、とうとうと
 黒潮、しぶく、わが焼津
 いくたび試練は、すさぶとも

 七つの海に、かぎりない

 幸を、もとめて、君はゆく

 海の、市民に、栄あれ
2富士が、呼んでる、れいろうの

 景勝の里、わが焼津

 たちばなかおり、みどり萌え

 土の息吹に、たくましい

 心とからだ 育まれ

 生きる、市民に、栄あれ
3空が、呼んでる はてしなく

 世界にのびる わが焼津

 千古の歴史 伝えきて

 今打ち鳴らす あかつきの

 希望の鐘よ どこまでも

 進む 市民に 栄あれ
焼津漁港

 焼津港の水揚げ数量は、18万3056トン。金額は、425億3200万円(税抜)小川港の水揚げ数量は、1万6030トン。金額は、16億7000万円(税込)
 
平成19年に焼津漁港では1年間で199,.086トンの魚が水揚げされ、これを365日で割ると1日平均約545トン水揚げされることになりる。
 
マグロは、「アフリカ大陸南のケープタウン沖、南インド洋、オーストリア大陸の南、タスマニア沖、ニュージーランド沖」が主な漁場です。メバチマグロ・キハダマグロは、「大西洋のラスパルマス沖・アンゴラ沖・ソマリア沖・北沖・ニューヨーク沖、インド洋のジャワ沖、大西洋のサンゴ海・西経」などです。カツオ・ビンナガは、「三陸東沖、太平洋中南、マーシャル・ミクロネシア水域」などです。
漁法
 マグロは主に『はえなわ』によって獲ります。海中に150kmにも及ぶ幹縄を流し、この幹縄に、50〜60m間隔位で30m位の枝縄を下げ、先端の釣針に餌を付けて仕掛けます。餌は冷凍したサバ・サンマ・コノシロ・イカ・イワシなどを解かして釣針に付けます。仕掛けてから数時間待って、縄を引き上げます。獲ったマグロは、急速凍結(-65℃)し、超低温の魚倉(-50〜60℃)の中に入れて保存します。魚倉がいっぱいになったら(通常1年〜1年半)、日本に帰ってきます。乗組員は18〜22名です。
 カツオは『一本釣り・旋網』で獲ります。一本釣りは散水を行いながら生きたイワシをカツオの群れへ撒き、擬餌鉤 (餌に似せた釣針)により竿で釣り上げます。遠洋かつお一本釣り漁船では自動釣機やブライン凍結装置を装備して赤道付近からハワイ近海にまで行きます。乗組員は30〜40人位で、10〜50日にも及ぶ航海となります。旋網は約2,000mの網を用いて魚群を囲み、網を絞って獲ります。海外旋網漁船は、20人位の乗組員で、主として南太平洋を漁場として、30〜50日の航海に及びます。その他に、サバは『たもすくい・棒受け網』、ヒラメ、イセエビ。
 
販路
マグロ
 
44.8%が生鮮用として、55.2%が缶詰加工用として出荷されます。

ビンナガマグロ
 
26.1%が生鮮用として、73.9%が輸出や缶詰用などとして出荷されている
一本釣りカツオ
 
53%がたたき用として、33.6%が生鮮用として、8.7%が鰹節用として、4.7%が生利節や缶詰用として、出荷されてい る。
まきあみカツオ
 
70.8%が鰹節用として、12.2%が生利節用として、6.8%が輸出用として、10.2%が缶詰や佃煮用として出荷されている。
魚場と時間
 太平洋、インド洋、大西洋など遠洋漁業による水揚げが大部分。日の出前になわを繰り出し2〜3時間待って正午前になわをあげはじめ、日没後1〜2時間で終了する。
名前の由来
大昔はあまり食べられていなかったが、江戸時代のころから食べられ始め、泳いでいるとき背中が黒いことから真黒と呼ばれるようになった。それまではシビと呼ばれていた。サバの仲間で分類はスズキ目、サバ亜目、サバ科で大型サバ型魚類と呼ばれている。サバの仲間で分類はスズキ目、サバ亜目、サバ科で大型サバ型魚類と呼ばれている。

 JR東海の用宗駅が見えるか見えない辺りで、再度新幹線と入れ替わり約2kmの日本坂トンネルに入った。出る途端にアサヒビールの工場が左ある。焼津インターを左に見送り、新幹線を跨いで入れ替わり幅の広い水の流れも少ない大井川になる。昔は越すに越されぬ大井川といわれたが、3000mを越える山々が連なる南アルプスや赤石山脈の間を流れ、豊富な水源を下っていたが、今は主だったものでも畑薙第1、第2、井川、長島、千頭、大間、笹間川などのダムができ砂利と砂が一面にあり流れる水嵩も思いのほか少ない。



藤枝市

 
静岡市のベットタウンであり、静岡市へショッピングに行く者は多い。東海道本線藤枝駅の乗降客数は、静岡〜浜松間の各駅の中では最も多い。
 その一方、商圏人口は450
,417人(2003年度)と、志太・榛原地区で最大で、静岡県内静岡、浜松、沼津、三島に次ぐ第5位である。また、近年藤枝駅周辺では開発が盛んであり、BiVi藤枝(商業施設と映画館と図書館の複合施設)の進出に加え、藤枝駅南口直結の高層複合施設(地上70mの15階建て、ホテルと商業施設などから成る予定)、ホテル、複数の高層マンションなどが建設中、あるいは建設予定である。藤枝駅は2006年に改築・バリアフリー化された。
 サッカーが盛んであり、市内にある県立藤枝東高校は強豪である。藤枝のサッカーの歴史は古く、大正時代に旧制志太中学校(戦後の県立藤枝東高校)の校技として採用されたことに始まる。藤枝市の職員で構成する藤枝市役所サッカー部は全国自治体職員サッカー選手権大会で23回の優勝、天皇杯本大会への3回の出場などの実績があり、東海社会人リーグに属している。
 安部川と大井川に挟まれた地域の都市である。江戸時代には田中藩の城下町、東海道藤枝宿の宿場町であった。田中城は駿府の西の守りとしても機能していた。

市制施行   昭和29年3月31日
市役所
岡出山1丁目11番1号
東経138度15分39秒
北緯 34度51分51秒
人口 145,105人(男:71,072人、女:74,033人)
世帯数 51,687世帯(平成22年1月31日現在
面積 194.03ku
標高 22.65m
市章


市の花である藤に見られる高潔な気品を藤枝の姿
として、永遠に汚れない清潔な市として躍進と発展
を遂げることを願い、昭和
29月に制定された
市の木





「松」 わが国のいたるところに分布する松は、樹姿
に気品があり、栽培や管理が容易で、植木として
も親しまれています。
本市には、東海道の松並木が残り、日蓮上人お手
植の“久遠の松”など、伝説を持つ松がある。
市の花





松に花咲く藤枝の一王子宮居ゆたかに 幾千代を
経ん
と、平安時代の武将・八幡太郎源義家の歌に
も詠まれているように、“藤”は昔から藤枝の地とゆ
かりが深い花です。
また、市章も藤の花弁を象徴したものです。
市の鳥







「うぐいす」 うぐいすは野鳥の中でも特に声の美し
い鳥として知られ、古くからその鳴き声は珍重され
てきました。

本市では、うぐいすの泣き声が街中で聞こえ、その
姿を見ることができ、野鳥の中では最も親しまれて
いる鳥です。

地酒

   
知る人ぞ知る銘酒の里・藤枝。
      市内にある4つの蔵元は、一流ぞろい。
         いずれも、ぜんこくの品評会で高い評価を獲得しています。

 朝比奈川、瀬戸川、大井川と大きな3つの川の流れを有する志太平野。その中央に位置する藤枝市には「新」のつく「大人の楽しみ」があります。
 新しい年を寿ぐように、暮れから新年にかけて、新酒が出荷されます。知る人ぞ知る銘酒の里・藤枝。この時期、藤枝にある4つの蔵元(青島酒造、志太泉酒造、杉井酒造、初亀醸造)には、青々とした杉玉が吊るされます。杉球とは、スギの葉を集めてボール状にした造形物。酒林とも呼ばれ、造り酒屋などが軒先にこの緑の杉玉を吊るすことで、新酒ができたことを知らせます。実は、この杉玉と藤枝には深い関係があるのをご存知でしょうか。
 杉玉は、お酒の神様として知られる奈良の大神(おおみわ)神社の最祭神・大物主神の神木が杉だったことによって広まったといわれています。志太平野の北東に位置する高草山の麓には、この大神神社から分霊を勧請した神神社があります。祭神は大物主神。古くから、志太平野は、お酒の神様に見守られながら酒造りを営んできた土地なのです。
 もしあなたが、そのありがたみをより身近で感じたいのであれば、冬場に酒倉の前を通ることをお勧めします。凛とした透き通った空気が支配する夜明け前、酒蔵の1日は始まります。藍色に染まる世界に、酒米を蒸す蒸気がもくもくと立ち上がる中、浮かび上がるのは、酒造りに没頭する蔵人とたちのシルエット。きびきびとした無駄のない動きが、印象的です。」
 酒の仕込みは、寒さの厳しい真冬が最盛期。しかも、早朝から深夜までの作業が連日続きます。穏やかで、ノンビリとした藤枝の時間軸とは、あきらかに一線を画しています。なだ街が寝静まっている傍らに存在する異空間・・・・・。酒の神の存在に触れたような錯覚に陥ることでしょう。
 藤枝の蔵人たちが作るお酒はどれも、華やかな香りと、やわらかなうまみ、さわやかなのど越しを楽しむことができます。1人の熱心な技術者が生み出した静岡酵母を使用。果実のような香り、酸味の少なさ、この酵母の特徴を活かし、4つの酒蔵が、それぞれに独自のお酒をつくっています。
 「名水どころに銘酒あり」といわれるように、仕込み水は酒造りの命です。水は、含まれるカルシウムイオンとマグネシウムイオンの量によって、軟水と硬水に区別されます。一般的に、硬水は甘口でまろやかなお酒を生み出すといわれます。藤枝で使われる大井用水系の南アルプスの伏流水は、両イオンが少ない軟水です。軟水は、酵母の働きを緩やかにするため、低温で、じっくり時間をかけて発酵させる吟醸酒に向いているといわれます。
 4つの酒蔵は、志太平野に点在しています。同じ軟水でも、汲み上げる場所が違うため、味や性質は異なります。そのため、各酒蔵は汲み上げた仕込み水に最も適した酒造りを追求してきました。華やかな香りと、やわらかなうまみ、さわやかなのど越しという言葉だけで藤枝のお酒を表現しきれないのは、、このこだわりがあるからです。藤枝のお酒が飲む人を幸せにする4種4様の深い味わいを有しているのは、各蔵が独自の酒造りに精進してきたたまものです。奥深く、豊かな味わいこそが、藤枝のお酒のアイデンティティなのです。

青島酒造


 口当たりのやわらかな軟水である大井川水系の南アルプスを伏流水を汲み上げて使用。
静岡酵母の生みの親・河村傳兵衛氏直伝の麹作りを忠 実に守る。地域特有の技で、こ
の土地でしか造り得ないお酒を醸している。
 
志太泉酒造


 大雨でも濁らず日照り続きでも枯れない豊富な瀬戸川の伏流水を仕込み水とする。この
なめらかな軟水は吟醸造りに最適。麹造りには機械を用いず、熟練の蔵人が人間の感性
で味や香りを見極めながら造り上げる。
杉井酒造


 「米・麹・酵母の生み出す自然の働きをうまく生かして味わいを作り出すこと」をモットー
に静岡酵母の特徴を活かしたおだやかな香りの大吟醸を醸す。一方で伝統的な酒造技
術も生もと・山廃造りにも力を入れている。
初亀酒造


 お酒は大自然からのプレゼント。初亀酒造では、手造りにこだわり、杜氏を中心に蔵人
一人一人の熱意で、お酒を育て醸している。低温熟成のお酒の美味しさを一人でも多くの
人たちに楽しんでほしいと日々努力している。
藤枝のマップと市歌

 お茶の生産も日本一を誇る産地で、波打つような畝も長く続く間を縫って藤枝、島田、厳しい坂やカーブを上り詰めると牧之原SA、雨も本降りになって来ていたので霧も発生して見通しは悪くなる一方菊川や掛川に来ると標高も下がって空も明るくなってきた。



島田市

 江戸時代には、東海道島田宿の宿場町として盛えた。市内を流れる大井川は、江戸の防衛上の理由から架橋が禁止されたため、人足による川越制度が敷かれた。明治12年(1879)に蓬莱橋が架けられるまで、この制度は続けられた。

 

     “箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川”

 の歌が有名で、川止め(雨などで川越が禁止される事)の時、両岸の島田宿と金谷宿は「さながら江戸のよう」な賑わいを見せ
た。
 戊辰戦争の後、幕藩体制の崩壊に伴って失業した将軍警護隊たちは、市南部から遠江国の一部(牧之原市や菊川市)に渡って広がる牧之原台地の開墾を始め、これによって、現在、牧之原台地は全国有数の大茶園地帯となっている。
 また、文金高島田や島田髷の発祥地であり、髷に因み「島田髷祭」が開かれる。  
 島田髷については諸説があり定かではありませんが、島田出身の大磯の遊女「虎御前」が考案して結ったのが始まりと伝えられており、昭和8年9月19日に虎御前感謝祭が行われ、以来、「島田髷まつり」として開催され、様々な型の島田髷を結い、揃いの浴衣を着た約60名の髷娘達が奉納踊りをしながら市内を歩く「島田髷道中」の後、鵜田寺にて髪供養感謝祭が行われる。
 
駿河国と遠江国の境界線である大井川沿いに位置するため、自然地理的にも人文地理的にも、島田市が東西の境界線となっており、島田市から西と東では地形地質も食文化も大きく異なっている。
市政施行 昭和23年1月1日
市役所(本庁舎)
島田市中央町1−1
東経138度10分45秒
北緯 34度49分59秒
人口 103,558人、(男:50,746にん、女:52,812人)
世帯数 35,224世帯(平成22年1月31日現在)
面積

195.4ku(平成20年4月1日、旧島田市と旧川根町が合併し、
新しく島田市が誕生)
広さ 東西約19km、南北約24km
海抜 56.4m
市章
 島田市の「S」の字をかたどり、東海道の中心から全国に広がる躍動感あふれるデザイン
です。
 青は大井川を、緑はお茶を表し、豊かな自然をイメージしています。

市の木:ギンモクセイ
 ギンモクセイ
(銀木犀)・キンモクセイ(金木犀)・ウスギモクセイの総称であるが、
単に「木犀」と言う場合は、ギンモクセイを指すことが多い。

 秋なかばに香り高い星のような小さな花を無数に咲かせる。花弁は4枚。雌雄
異株
で、日本には雄株しかないといわれている。

 庭園に好んで植えられる。花つきをよくするには日当たりの良いところが望まし
い。また、剪定は花が終わった後、3月上旬までに済ませる。
市の花:バラ
 潅木
、低木、または木本性のつる植物で、や茎にがあるものが多い。
葉は1回奇数羽状複葉。花は5枚の花びらと多数の雄蘂を持つ(ただし、園
芸種では大部分が八重咲きである)。
 北半球の温帯域に広く自生しているがチベット周辺、中国の雲南省から
ミャンマーにかけてが主産地でここから中近東、ヨーロッパへ、また極東か
ら北アメリカへと伝播した。南半球にはバラは自生していない。世界に約
120種がある。
 「ばら」の名は和語で、「いばら」の転訛したもの。漢語「薔薇」の字をあて
るのが通常だが、この語はまた音読みで「そうび」「しょうび」とも読む。漢語
には「玫瑰」(まいかい)の異称もある。 欧米ではラテン語: rosa に由来す
る名で呼ぶ言語が多く、また同じ語が別義として「ピンク色」の意味をもつことが多い。
市の花:ドウダンツツジ
 
落葉広葉樹。低木で、大きくても3m程。本州、四国、九州の温暖な岩山
に生えるが、自生地は少ない。庭木や植え込みとしてはごく普通に植えら
れる。寒冷地でも耐えるが、関東以西の温暖な地に多く植えられる。花期は
、葉が出てから約1週間後(4月上旬〜5月中旬頃、地方によって違う)。
 花序は散形花序である。花は、白色、釣り鐘のような感じで、55mm程の
大きさ。葉は、菱形に近く、大きさは通常約2cm、大きなものは、約5cmに
なる。ツツジ科の特徴として根が浅いので、乾燥に弱い。
 新緑、花期、紅葉と、見時が多い。紅葉は寒冷な地で、10月中旬〜11月
上旬頃、温暖な地で11月中旬品種に葉が広いヒロハドウダンツツジがあ
るが、自生地ではむしろヒロハドウダンツツジ゙のタイプ゚が多く、同一場所に
両者やその中間型が混在して見られるため、厳密に区別する必要はないと思われる。
市の鳥:オオルリ
 日本
へは夏鳥として渡来・繁殖し、季は東南アジアで越冬する。高い
木の上で朗らかにさえずる。 姿も囀りも美しい。栃木県の県の鳥に指定さ
れている全長約16.5
cm
 雄の背中は尾も含め光沢のある青で、尾の基部には左右に白斑がある。
 喉、顔は黒で腹は白い。
雌は頭から尾にかけて背面が茶褐色で、喉と腹は白い。胸と脇が褐色。 
 また、雄が美しい色彩になるには2〜3年を要すると考えられ、若鳥時代の雄の羽色は雌の羽色と似た茶褐色で、背面の一部と風切羽及び尾羽
に青色が表れているだけである。コルリ、ルリビタキなど共に、「青い鳥」御三家の一つである。

  赤石山脈の北部、間ノ岳に源を発する河川。わが国でも屈指の急流で水量も多いため、電源開発に利用され、上流から畑薙第一、畑薙第二、井川などのダムが昭和30年代に建設された。
 これらのダム湖と下流に続く接阻峡、寸又峡などの渓谷が幽玄な渓谷美を展開し、一帯は奥大井県立自然公園に指定されている。また、寸又峡温泉や大井川鉄道のSL列車、アプト式列車などもあるため、観光地として訪れる人が年々増えている。中流は数段に及ぶ河岸段丘を形成し、それらの上には川根茶で有名な茶畑が広がっている。


姉妹都市

 
氷見市(富山県):姉妹都市提携平成17年9月 
 
リッチモンド市(アメリカ・カリフォルニア州):姉妹都市提携昭和36年12月
 ◎ブリエンツ町(スイス):姉妹都市提携平成8年8月(旧金谷町)・平成18年8月(新島田市)
友好提携都市
湖州市(中国・浙江省):友好都市提携昭和62年5月
国際交流都市
米国コネチカット州ハートフォード市:平成6年(1994年)6月
防災協定
山形市(山形県):平成7年11月締結)
野田市(千葉県):平成8年1月締結
氷見市(富山県):平成17年9月締結





牧之原市

 牧之原市の地形は、北部に広がる牧之原台地、変化に富んだ海岸地、河川の沖積平野などから構成されている。静岡県の遠州東部に位置する。行政上の区分は静岡県中部地方に組み込まれることが多い。
 行政区域は駿河湾の海岸線から、の産地として有名な牧之原台地まで及んでおり、市名もそれが由来となっている。しかし、おもな集落はすべて海岸沿いにあり、牧ノ原台地に生活している人は、人口の一割程度である。
 牧之原台地には、縄文時代の遺跡が点在し、弥生・古墳時代の遺跡は萩間川・勝間田川・坂口谷川の駿河湾を臨む微丘地部分に沿って分布しています。特に、古墳時代の後期には横穴石室や横穴が混在して造られるようになり、この地域は、遠江国榛原郡に属し、奈良時代から中世にかけては相良郷・大江郷(現在の牧之原市大江)が相良荘に、神戸郷・勝田郷(現在の牧之原市勝田)が勝田荘に、坂口郷(現在の牧之原市坂口)・細江郷(現在の牧之原市細江)が初倉荘となり栄え、平安時代初期に編さんされた「和名類聚抄」には榛原郡が八郡と一駅が記されています。平安時代中期以降には笠原牧・相良牧が存在したことも知られている。
 1758年(宝永3年)、田沼意次が大名として相良藩の領地を統治しました。以後29年にわたり田沼時代が続きます。相良城築城に伴う城下の町並み・街道の整備、農工生産の商業活動の推進がなされました。なかでも、海積み出し港として江戸中期より発展した駿河湾に隣接する各港は、後期には江戸と大坂を結ぶ航路の中継地として、飛躍的に発展し栄えました。現在、市内4か所の神社に伝わる「御船神事」が当時の港の盛況ぶりを伺わせる。
 
明治22年に市町村制が施行され、現在の相良地域には相良町・萩間村・菅山村・地頭方村、榛原地域には川崎町・勝間田村・坂部村の2町5村が生まれた。昭和26年には菅山村を相良町に合併し、昭和の合併(昭和30年)では相良全域が相良町、榛原全域が榛原町となり、平成の合併では、平成17年10月11日、両町の歩み寄りによる対等合併により牧之原市が誕生した。

市政施行 平成17年10月11日
市役所
牧之原市静波447番地1
東経:138度14分
北緯: 34度44分
人口 51,220人25,276人25,944人
世帯数 15,431世帯(平成20年1月31に現在)
面積 111.68ku
市章

 
牧之原市の市章は、「マ」の文字と駿河湾・牧之原台地などの地勢、
そして茶の葉をモチーフに「ふれあい ビタミン あいのまち」うみ・そら・
みどりと共に生きると未来を目指し、協調発展する姿を表現しています。

 下部の2つのエレメントは旧2町をも表現しています
市の木
 ツバキ・サザンカと同じツバキ科の多年生植物で、日本へは奈良時代に中国から伝わっていたと言われていますが、一般によく知られているのは鎌倉時代に栄西禅師によって喫茶法とともに中国から伝えられま
した。

 この牧之原台地には、明治初年、旧徳川幕府の家臣や川越人足らによって茶樹が植栽され、現在、市内には
,600ヘクタールにも及ぶ広大な茶園が広がり、日本一の茶産地・牧之原市のシンボルとしてふさわしいものです。
市の花
 
市内の公園や道路沿いなどに数多く植えられ、手軽さから一般の家
庭でも広く栽培されています。6月から7月にかけピンクや青紫色など球状の花を咲かせます。

 一般に花と言われている部分は装飾花で、花びらに見えるものは萼
((がく)です。

相良油田

 太平洋岸唯一の石油抗で油田は明治5年(1872))に発見されたあと、翌年明治6年(1873)に菅ヶ谷地区で開坑、試掘に着手され、明治7年(1874)から日本初の機械掘りの油井が始まり、明治17年(1884)頃の最盛期には原油生産額7,000石(ドラム缶約3,600本)が産出され、油井240坑、従業員600人に及んだといわれている。昭和30年(1955)頃まで産出していしたが、その後の稼動は中止されました。この油田で産出された石油は、色が琥珀色で、極めて良質の石油として有名でした。
 現在は、昭和25年にロータリー式掘削法により開坑した機械掘井戸がひとつ保存されており、県文化財に指定され、この井戸で実際に油のくみ上げを見学することができる。(牧之原市観光空港室への事前予約が必要で、場合により利用できないこともありる
 平成19年には、近代石油産業発祥の地として、経済産業省「近代産業遺産」に認定された。

富士山静岡空港
施設 概要
滑走路 長さ2,500m、幅60m
着陸帯 長さ2,620m、幅300m
標点の位置 東経 138度11分22秒
  北緯  34度47分46秒
標点の高さ 132m(滑走路の中心の高さ)
管理面積 約190ha
総事業費 飛行場約490億円(全体約1,900億円)





御前崎市

 平成16年に旧御前崎町と旧浜岡町が合併して現在の市が誕生。御前崎市は、大海原の魅力を堪能できるまち。まちのシンボル「御前埼灯台」周辺の海岸は絶好の磯遊び場で、展望台「地球が丸く見えるん台」からは曲線の水平線を望め、また、ケープパーク内にある“潮騒の像”は「恋人の聖地」として認定。獲れたての魚介類の美味しさは絶品。
 気候温暖な静岡県の中央に位置しており、遠州灘と駿河湾に突き出た美しい海岸線が広がり、県下最南端の岬には白亜の「御前埼灯台」が夕陽を浴びて、夏は、御前崎で海水浴やマリンスポーツなどで、存分に南国気分を味わい、8月7日には珍しい海の男の神事「だっくら」が、夜には“光と音のファンタジア”と題して「御前崎の花火大会」が開かれる。
 9月23日の秋分の日に桜ケ池で「お櫃納め」が催されます。この神事は天下の奇祭として知られています。嘉応元年(1169年)比叡山の名僧皇円阿闍梨は人々を悩みから救おうと龍に姿を変え桜ケ池の底深く沈みました。数年後、阿闍梨の弟子である法然上人が池を訪れ、師の安泰と五穀豊穣を願って檜づくりのお櫃に赤飯を詰め、ひとつを池宮神社に納め、もうひとつを池の中央に沈めたことからはじまりました。以来八百数十年欠かさず行われています。現在は氏子信者によって行われ、心身を清めた数十人の若者たちが古来からの方法で炊かれた赤飯が入ったお櫃を池の中央へ沈め、五穀豊穣と心願成就を祈願します。
 遠州灘に沈む夕日が美しく映える浜岡砂丘には強い季節風によって、広大な砂のキャンバスに風紋が描かれ、訪れる人の心を和らげます。
 御前崎港にはキンメダイ、メダイ、ヒラメなどが揚がり、春一番とともに太平洋の黒潮が沿岸に近づき始める3月中旬には、近海ものの初カツオの水揚げが始まり、5月に入り黒潮が近づいてカツオの水揚げも増え、新鮮なシラスも揚がり港の朝が活気づいてきた。月末には初産卵が確認され、海岸では、国指定天然記念物「御前崎のウミガメ」が産卵のために上陸する時期を迎えた。

市政施行 平成16年4月1日
市役所
池新田5585番地
東経:138度08分
北緯: 34度38分
人口 36,262人(男18,275人、女17,987人)
世帯数 11,901世帯(2月1日現在)
面積 65.86ku
市章(平成16年8月1日制定)

全体の形は、御前崎市の「O」と「オ」です。
ブルーは遠州灘を、オレンジは太陽を、太陽
へ向かう白地の形は先進性を表し、市民の
協力と情熱で世界へ発信するイメージを表し
ています。
市の花・ハマヒルガオ
大地にしっかりと根を下ろし、厳しい気象条
件の中で、つるを延ばし、可憐な花を咲かせ
るハマヒルガオのように、3万6千市民が手
と手をとりあって、太い絆で結ばれ、賢くもや
さしい情愛あふれる市民になることを願いま
す。

平成16年8月1日制定
市の木・ヤマモモ

痩せ地にも耐え、潜在能力をもって周囲を
自然災害から守り、自らも美味あふれる結
実をするヤマモモのように、男女共同参画
のもとに自立できる都市づくりを願います。

平成
16年8月1日制定
尚、その他に外国人,434人・外国人世帯数658世帯
1 朝日に映える  駿河湾
  岬のまちに日が昇る
  未来を開く燈台の
  希望の光  指すところ
  輝くまちよ  御前崎
  潮の香りの似合うまち
2 はるかに望む  富士の山
  緑豊かな茶畑に
  新たな芽生え  生まれ来る
  未来の光  さんさんと
  笑顔あふれる  御前崎
  お茶の香りの似合うまち
3 ハマヒルガオに  砂小僧
  海鳴り響く遠州の
  風の強さよ  たくましく
  明日に羽ばたけ  若い夢
  望みあふれる  御前崎
  光と風の似合うまち

 

御前崎灯台
 御前崎沖合を行き交う船の安全を守るために設
置された灯台。寛永12年(1635)に常夜灯台が
置かれたのが始まりで、その後、イギリス人技師
ブラントンの指導によって明治7年(1874)に現
在の西洋式灯台となって生まれ変わった。高さ17
mの展望デッキに上ると、太平洋の大海原が正面
に広がり、水平線まで見渡すパノラマは見事だ。
 
静岡県御前崎市御前崎の最南端に立つ、白亜
の塔形をしたレンガ造の大型灯台。周辺は、御前
崎遠州灘県立自然公園に指定されていて、雄大
な太平洋のパノラマが展開している。また、「日本
灯台50選」にも選ばれているし、歴史的文化財的
価値が高いので、Aランクの保存灯台ともなってい
る。尚、「御前崎
に設置されているが、灯台名は「
御前埼」である。

 

浜岡原子力発電所

 静岡県御前崎市にある中部電力の原子力発電所である。1号機から5号
機まで5つの発電設備があるが、1号機と2号機は2009年1月に運転を終
了した。敷地面積は160万u(東西1
.5km、南北1km)で、PR施設である
浜岡原子力館が併設されている。
 
東海地震の予想震源域にあり、活断層が直下にあるという説まで発表さ
れており、またトラブルが多発していることなどから耐震性の不足が懸念さ
れている。
 
静岡大学助教授(当時)の小村浩夫が1981年7月に発表した論文によ
ると原発から8km以内周辺には8本の活断層が知られており、ほかに3本
のリニアメント(活断層の疑いがある)があるが、そのうち2本が原発敷地
内を走っている。
 
産業技術総合研究所活断層研究センター研究員の藤原治と北海道大学
教授の平川一臣の2007年の発表によれば、2005年から2007年にかけ
て浜岡原子力発電所東2km地点計8ヵ所でボーリング調査を実施し堆積
物を調査したところ、8000年以上前から100〜200年周期で東海地震が
起きていることを確認し、それと同時に、従来想定される東海地震とは別タ
イプの大規模地震が約4800年前、3800〜4000年前、2400年前の計
3回発生していることを確認したという。さらに、2400年前以降もう一度大
規模地震が発生したとみられることから、藤原は「1000年前後に1度、より
大きな地殻変動を起こす地震があることが分かった」としている。
 また、浜岡原発の立地する地盤は相良
-掛川層群比木層 という砂と泥か
らできた地層であり、工学的には軟岩
に分類される。
 
東宝が製作した怪獣映画、「ゴジラ(1984年版)」の作中においてゴジラ
に襲撃、破壊される「井浜原子力発電所」のミニチュアセットは映画制作当
時(1980年代中期)の浜岡原子力発電所がモデルとされており、現地取
材に基づいて1号機と2号機の建屋の他に(当時)建設中の3号機をほぼそ
のまま再現した精密なセットが製作されている。
 
尚、東宝側は当映画の製作に当たって国内の電力会社各社に撮影協力
を依頼したが、電力会社側が難色を示したため、実際の原子力発電所の敷
地内及び敷地周辺での撮影は行われていない。

 

御前崎ケープパーク


 御前崎遠州灘県立自然公園に指定されてい
て、御前埼灯台周辺に広がる「海と大地の調
和」をテーマにつくられた“歩いて自然と親しむ
公園”です。周辺には、ロマンチックな遊歩道
や展望台、広場などが整備され散策が楽しめ
ます。
 「地球が丸く見えるん台」、「夕日と風が見え
るん台」などの展望台があります。

 「潮騒の像」がある「地球が丸く見えるん台」
は、「恋人の聖地」に指定されています。カッ
プルの方はぜひ遊びに行ってみては。
 
特に夕方はすばらしいです。

 




菊川市

 中世には付近一帯は荘園であった。当地には本所、半済、公文名など、荘園であったことを示す地名が残っている。近世においては幕府直轄領、大名領、旗本の知行地が点在する地域であった。
 1889年に東海道本線(静岡駅〜浜松間)が開業して以降、菊川駅は(開業当時堀之内駅)を中心に市街地が形成されて発達。特に大正から昭和初期にかけては地元の茶を買い付けに茶商が多く訪れ、商店や旅館、遊廓などが整備されたほか、茶や軍需物資等の輸送を目的として堀之内軌道も敷設された。
 戦後は大規模な工業団地と宅地の造成を組み合わせ、東名高速道路の開通時には菊川インターチェンジの誘致にも成功するなど、工業都市として発展を続けた。御前崎方面への玄関口としても知られている。
 堀之内軌道(ほりのうちきどう)は、静岡県にかつて存在した軽便鉄道である。
 路線は、堀之内町(敷設当時は西方村、現菊川市)の東海道本線堀ノ内駅(現菊川駅)前から池新田村(現御前崎市)までの区間を通っており、内陸の東海道本線と、海岸部に近い地域を結んでいた。本社と車庫は堀之内町(現在の菊川市堀之内)にあった。
 馬車鉄道として開業。蒸気鉄道への転換を図ったが、第一世界大戦に伴って石炭価格が高騰していたことと、市街地を走る軌道に黒煙を吐く蒸気鉄道はふさわしくないとして断念、電気鉄道への転換も投資額多額から断念、「オット機関車」と呼ばれる、ドイツ製の小型ディーゼル機関車を導入して運用した。これは日本でも初期の内燃機関車実用例である。
 地元の茶業、軍需産業等の発展に寄与したが、昭和初期に自動車輸送におされ廃止された。
 蒸し茶は、昭和40年代深菊川市のお茶農家が開発されたといわれている。当時、菊川市を含めた牧之原台地のお茶は、日照時間が長く茶葉が厚く堅くなりがちであった。そのため、品質的に渋いお茶を生産されていた。渋いお茶をいかにしてまろやかなお茶にするかを研究した結果、蒸し時間を長くすることによって、茶葉の繊維を柔らかくし、渋味を取り去った緑茶を作る事に成功した。そのため、今でも菊川市は深蒸し茶のふる里と呼ばれている。
 煎茶の一種。生茶葉から煎茶を造る最初の工程である「蒸し」の時間を、1分から3分程度と長く取るもの。茶葉を乾燥したり揉んだりする前に、茶葉の細胞がほぐれ成分が出るように通常は10秒から1分程度蒸すが、深蒸し茶は長い蒸し時間によって茶葉からの滲出成分が通常の煎茶より多くなり、濃くまろやかな味わいとなる。出来上がって淹れた深蒸し茶は通常、深緑色で濁って見える。
 東名高速道路菊川インターチェンジ、JR東海道本線菊川駅を有し、さらには車で約20分圏内に富士山静岡空港やJR東海道新幹線掛川駅、御前崎港の利用が可能であり、企業立地に大変恵まれた地域でもあります。
 緑に囲まれた工業団地には自動車関連を中心とした企業が立ち並び、「ハイテク産業のまち」として躍進するとともに、自然環境の保全を配慮する企業、公害防止を重視し、市民にやさしい企業を目指しています。
 菊川市内の企業は、自動車用部品や精密工作機械など特殊技術においては世界的な実績とシェアを占めている企業も数多く海外にも多くの企業が進出しています。企業の進出、就業人口の増加により活力なる都市を目指し、農業・商業・工業のバランスのとれた産業都市「菊川市」のまちづくりが進めている。

市政施行 平成17年1月17日
市役所
菊川市堀之内61
東経:138度05分
北緯: 34度45分
人口 49,222人(男:24,605人、女:24,617人)
世帯数 16,165世帯(平成22年1月末現在)
面積 94.24ku
広さ 東西:約9km、南北:約17km
市章
 平成17年4月17日の合併記念式典において、菊川市の市章が発表されました。
 市章は左図のとおりです。この市章を考案したのは兵庫県の杜多利夫さんです。「菊の花と菊川の流れをモチーフに、2町が合併し一つの市となる様子をデザインし、菊川茶に代表される自然を生かした、産業豊かな市の特徴を、2色の緑で表現されています。
 現在から未来へと受け継がれる、人と緑が共にいきいきと発展する姿を市章に表しました」との思いが込められています。
市の木:茶

茶は、菊川市の特産品です。また、菊川市は“深蒸し茶”発生の地です。毎年新茶のシーズンには、市内がもえぎ色に輝きます。

市の将来像「みどり 次世代」にもっともふさわしい木として、また菊川市が緑豊かな市に発展するようにとの願いが込められています。

市の花:菊

菊は、市内を縦断し市の名の由来となった河川“菊川”の頭文字です。大輪から小菊まで種類が豊富で、美しく清楚で気品があり、多くの皆さんが家庭で育てています。

菊を育てるように、愛着をもって親しまれる菊川市になるようにとの願いが込められています。

市の鳥:キセキレイ
キセキレイは、きれいな水辺に住む小鳥で愛らしくさわやかに鳴きます。

河川菊川がキセキレイの住む清流になり、自然環境が美しい菊川市になるようにとの願いが込められています。

特産品

深蒸し茶

豊かな香りと、まろやかでコクのある風味、ノンカロリーでヘルシ
ーな菊川市の深蒸し茶。お茶にはカテキンをはじめ体のために
なるすばらしい成分がいっぱいです。深蒸し茶を楽しみながら健
康な生活をどうぞ。

マスクメロン

果物の王さまと称されるマスクメロンは、その味・品質において
全国でも最高レベルにランクイン。最高級ブランド「アローマ」とし
て、群を抜く高い評価をいただく逸品です。

 

トマト

豊かな日照に恵まれた菊川市は、トマトもまた基幹作物のひとつ。
特に高級銘柄として知られる「桃太郎トマト」は、市場でも定評を
いただき、全国の皆さまに愛されています。

 

しろした菓子

 「しろした」とは、さとうきびをじっくり煮込んでつくる赤砂糖のこと。
かつてさとうきびの産地であった菊川市小笠地域ならではの、郷
愁をさそう天然風味の銘菓の数々です。

 

 千框(せんかまち)の総面積約10f、
約2800枚の田をもつ
棚田があり田植
えは6月の上旬に行われ。昭和40年
代頃には、一面の棚田が広がっていた
が、その後の減反政策や、農家の高
齢化で棚田が荒れてしまい、その後、
地元の有志が集まって棚田の復活に
のぞみ、いまでは、4〜5割程度の棚
田が復活している。





 旧菊川町時代に当時の町企画広報課と菊川町商工会が中心となって制作した盆踊り用の楽曲。旧菊川町の地理や名所の名前を織り込んでいる。市歌のような正式なものではないため、合併後の現在も旧菊川町時代のものが使われている。



掛川市

ほぼ日本の真ん中に位置しま、静岡県においては、西部と中部の接するところにあたり、東遠地区の中心的な存在で、中心部を流れる逆川の流れが、切り立った崖のように見える点から「缺けた川」と呼ばれ、次第に略されて「懸川」となり、「掛川」と改名された。
 「かけがわ」を発音する際、地元では「け」にアクセントをおいて発音するが、標準語ではアクセントはない(平板)とされる。アクセントに違いが見られるのは、標準語と掛川市内で用いられる遠州弁との間にアクセントの差異があるためとされる。同様に、標準語と遠州弁とで地名のアクセントに差異がある事例としては、静岡県磐田(いわた)市が挙げられる。
 かつては、高知県高知市のはりまや橋の近くにも「掛川町」が存在した。これは、掛川から高知に移住した山内一豊の家臣が、居を構えた事に由来する。高知市の掛川町は、現在では「はりまや町」となっている。高知市には山内一豊が建立した「掛川神社」も存在する。この神社は、一豊が高知に入城した際掛川城に北東(鬼門)、にある龍尾神社を高知城の北東に勧請したものであり、掛川に因んで命名された。
 江戸時代に東海道の主要宿場町として、また掛川城を核とした城下町から発達した地方都市である。城と歴史のまち。戦国時代、山内一豊が10年間在城した掛川城は「東海の名城」とうたわれました。現在の掛川城は、往時の美しさそのままに日本初の本格木造天守閣として平成6年4月に復元されたものです。旧東海道の面影を残す史跡や、残す史跡や、市内で行われる数々の祭りも見逃せない。
 佐野郡、および、小笠郡に含まれ牧之原台地、のすぐ西に位置している。

安土桃山時代には山内一豊の城下町であったため、この縁で高知市「高知県中部」との交流関係が深い。江戸時代には掛川藩、横須賀藩の城下町となり東海道掛川宿、日坂宿の宿場町、でもあった。平成17年(2005)4月1日に、旧掛川市、大東町、大須賀町の1市2町が合併して、現在の掛川市となった。
市制施行 昭和29年3月31日
市役所
長谷1丁目1番地の1
東経:138度00分03秒
北緯: 34度45分55分
人口 115,538人(男:57,628人、女:57,910人)
世帯数 38,441世帯(平成20年1月31日現在)
面積 265.64ku(平成17年4月1日現在)
市役所標高 38.35m
市章

 掛川市の頭文字「K」をモチーフにして、掛川市の将
来像「海と山と街道がつながり、夢・未来を創るまち」
をキキョウの花の形でイメージ・デザインしました。
平成17年の旧1市2町の合併に伴い、誕生しまし
た。
市の木「きんもくせい」

 市内各所に植えられています。だいだい色の花を
つけ、よい香りを放つ奥ゆかしい樹木です。
市の花「ききょう」

 宿根草で、栽培は容易です。花色は紫、白などが
あり、清楚で品があります。花の形は市章のデザイ
ンにも採用されています。
市の鳥「うぐいす」

 市内全域に生息しています。「ホーホケキョ」とい
う鳴き声で親しまれ、その声の美しさと品の良さで
知られています

山内一豊

 尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)にある山内家の居城であった黒田城に生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、のち信賢)の配下であり、父・盛豊は家老として仕えていた。ところが岩倉織田氏は同族の有力者・織田信長と対立し、家老である山内家もこれに巻き込まれる。まず弘治3年(1557)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559に主家の居城・岩倉城が落城、この際に父・盛豊が討死ないし自刃した可能性が高い。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し流浪することとなった。
 一豊自身は当初は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)、松倉城(岐阜県各務原市主・前原長康、その後尾張を出て美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市))主・山岡景隆に仕えるなどした。しかし永禄11年(1568頃には織田信長に仕え、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)の与力気となったと考えられる。
 その後、元亀元年(1570)9月の姉川の戦いで初陣し天正元年(1573)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いにも参加し顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。このとき一豊の頬に刺さったと伝えられる矢はこのとき矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。
 「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間から天正元年(1573)の間であったと見られる。

 これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市域)で400石を与えられた。この際に秀吉自身が自身の郎党をほとんど持たないことから彼の直臣に立場を変えたと考えられる。
 なお、400石という禄は同僚であった浅野長政・堀尾吉晴・中村一氏らが同じ時期に100石台であったことから、彼らより一歩先に出るものであった。
 この後天正5年(1577)には播磨国有年(兵庫県赤穂市内を中心に2000石を領している。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木を巡る戦い(三木合戦や因幡の鳥取城包囲などに参加している。
 一豊は重要なポストを外部からの人材で固め、種崎浜での討伐などあくまで武断措置を取ってこれに対応した。この為に命を狙われる危険性があり、築城の際などには5人の影武者と共に現地を視察した(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例)。
 各地にくすぶりを残しこの課題(以前からの山内家家臣を上士、旧長宗我部氏の家臣を郷士とした差別的扱い)は次代から幕末になるまで引き継がれ坂本龍馬などの人物が生まれることになる。また高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し(奉行は関ヶ原の戦いの後浪人となった百々綱家を7000石で招聘、慶長8年(1603)完成、城下町の整備を行った。また、このころに官位が従四位下土佐守に進んでいる。

 慶長10年(1605)、高知城にて病死。享年60。
 法名:大通院殿心峯宗伝大居士。墓所:高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院(遺骨があるのは日輪山真如寺の墓所、妙心寺大通院には位牌のみ)。
 高知城には、騎馬姿で槍を持った銅像が存在する。

姉妹都市

奥州市(岩手県)
―旧大東町が、旧胆沢市と1985年8月16日。
ユージン市(アメリカ合衆国:オレゴン州)旧掛川市が1979年4月。
コーニング市(アメリカ合衆国ニューヨーク州)


 農業が主要産業の一つであり、緑茶の栽培は全国屈指の産出量を誇る。牧之原市が成立するまでは、荒茶の生産量全国1位であった。
 東海道新幹線掛川駅や東名高速道路掛川インターチェンジともに工業団地の誘致に成功、拠点都市としての性質を強めると同時に製造品出荷額1兆円を超える県内有数の工業都市となった。その結果、脆弱であった財政基盤は大幅に改善され、2006年には財政力指数が1
.033に到達、初めて普通交付税不交付団体となった。しかし、2006年度末には借入金総残高が1016億円に達し、実質公債費比率が18%を超過したため地方債許可団体となった。
 また、「スローライフ」を宣言しており郊外化やスプロール現象、の促進とは正反対で、中心市街地の活性化で個性を強化する路線を掲げており、中心市街地活性化法(TMO)の実践が顕著である。
 倉真温泉、法泉寺温泉など市内各所の温泉街や掛川花鳥園などの観光地を訪れる観光客も多い。また、吉田拓郎やかぐや姫(1970年代)、近年ではap bank(2000年代等が野外コンサートを開催し、ロック・フェステバルの街としても知られている。

二宮尊徳

 各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は、1881年発行の『報徳記』で現れる。ただし、薪を拾って売り、その金で勉学をしたのは事実だが、このような姿で実際に歩いていたという事実はないとされる。報徳記を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年)の挿絵で、はじめて薪を背負って歩く姿の挿絵が使われた。確認されている最初のこの姿の像は、1910年に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。1904年以降国定教科書に修身の孝行・勤勉・学問・自営という4つの徳目を代表する人物として描かれ、象徴として二宮が取り上げられるようになった。
 小学唱歌にも二宮金次郎という曲がある。小学校に建てられた二宮像でもっとも古いものは、1924年、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1mとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり1mではないことが多い。
 これは1940年ごろに量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が戦後GHQの指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の1946年に日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。
 戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。
 像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある。
 栃木県芳賀郡二宮町では、町内の全小中学校に像がある(2004年現在)。また、2003年に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。

 右側新幹線や東海道本線越しには山内一豊や千代で有名な掛川城が見え出す、そしてNECの大きなパラボラアンテナも見える。梅雨時で行楽には向かないと決め込んでか車も少なく、予定していた時間よりも早く午前10時38分には袋井ICを出て、昼食予定の目と鼻の先の袋井観光センターに到着した。



袋井市

 袋井市は、静岡県西部に位置し、東は掛川市、西は磐田市、北は森町に接し、また、東海道新幹線、東海道本線、東名高速道路、国道1号、国道150号など主要交通路が横断し、東京へは240km、大阪へも320kmと交通条件にも大変恵まれている。
 当地域は、豊かに広がる田園地帯と美しい茶畑、さらには太田川や原野谷川、南には遠州灘と、自然環境にも恵まれている。県総面積の1.4%を占めてまた、可住地面積は85.13kuと総面積の78.4%を占め平坦地が広い

 当地域の土地利用は、平成21年現在で、宅地が15.91%、農地が34.87%、山林が11.18%となっており、極めて平坦な地域が広がり、土地利用もしやすい条件が整っている。
 夏は南よりの風のため、高温多湿で雨の日が多いです。冬は西からの季節風のため、低温で乾燥した晴れの日が多く、この地域独特の「遠州の空っ風」と呼ばれる寒風が吹き、実際の気温より寒く感じられる。

市制施行  
市役所
新屋1丁目1番地の1
 
人口 87,034人(男:43,976人、女:43,058人
世帯数 30,871世帯(平成22年1月31日現在)
面積 108.56ku
広さ 東西約15km、南北約17km
市章
平成17年6月25日制定
【デザインの趣旨】
袋井市の頭文字・アルファベットの「F」を図案化し、飛躍する文
化都田園、さわやかな風、遙かな海をイメージし、全体で新しい
市民の「和」を表現しています。
   


遠州三山(えんしゅうさんざん)は、静岡県袋井市にある3つの寺院のこと。旧遠江国(遠州)の三古刹を意味する。

法多山尊永寺(真言宗)

 高野山真言宗別格本山の寺院。寺号の「尊永寺」よりも山号の「法多山」の名で広く知られている。遠州三山の1つ。本尊は聖観音(正観世音菩薩、厄除観世音)。
 厄除け観音として知られ、厄除だんごが名物となっている。
寺伝によれば神亀2年(725)、聖武天皇の命により「大悲観音応臨の聖地」を捜し求めた行基によって建立されたという。
 
中世以降、守護大名今川氏の庇護を受けた。天正18年(1590)、豊臣秀吉は当寺の寺領として205石を安堵。この205石は歴代徳川将軍によっても安堵され幕末まで維持された。最盛期には60余の子院を有し、近世にも12の子院が残っていたが、これらは明治時代までにすべて廃絶している。江戸時代後期の火災で伽藍を焼失し、現在の本堂は1983年に再建されたものである。
 重要文化財(国指定)
仁王門―室町時代。入母屋造、杮(こけら)葺きの楼門(2階建て門)である。
金銅五種鈴(こんどうごしゅれい) ー鎌倉時代。密教儀式に用いる法具の一種。
5点一組の鈴のうち三鈷鈴は後補。東京国立博物館に寄託されている。
萬松山可睡斎(曹洞宗)

 静岡県袋井市久能にある曹洞宗の寺院。山号は萬松山。本尊は聖観音(しょうかんのん)江戸時代には「東海大僧録」として三河国・遠江国・駿河国・伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収め関三刹、と同等の権威を持った。遠州三山の1つ。
 室町時代初期、
、応永年間(1393年―1428年)に恕仲天ァ(にょちゅうてんぎん)禅師によって開山された。
 徳川家康が、幼い頃武田信玄の軍から逃れ父と共に匿われた礼に訪れた際、席上で居眠りをする仙麟等膳和尚(第11代)を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言い、以来和尚が「可睡和尚」と呼ばれたことから、いつしか本来東陽軒であった寺の名も可睡斎となった。家康が父と共に隠れたとされる洞窟は六の字穴として今も残っている。
 明治6年(1873)、秋葉山(あきはさん、静岡県浜松)の神仏分離に伴い三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)が遷座され火防災除の寺ともなった(由来は秋葉山本宮秋葉神社)。また春先のユリや初夏の牡丹が美しい寺。修行道場として僧堂を設置している。

医王山油山寺(真言宗)

 静岡県袋井市村にある真言宗智山派の寺院。遠州三山の1つ。山号は医王山。詳しくは医王山薬王院油山寺と称する。本尊は薬師如来。紅葉の名所として知られる。
 寺伝によれば大宝元年(701)に行基が創建し、油が湧出した所から「油山寺」の名が付いたという。その後天平勝宝元年(749)孝謙天皇が眼病平癒を願い、当寺の「るりの滝」の水で眼を洗浄した所、全快したので勅願寺に定めたとされる。以来、特に目の守護、眼病平癒のお寺として信仰を集める。また、一山の守護神軍善坊大権現は足腰の神として古来より東海道を往来する旅人の信仰を集める。
 重要文化財(国指定)
本堂内厨子・室町時代
三重塔―安土桃山時代、慶長16年(1611)山門江戸時代初期、万治2年(1659)に建立された掛川城の大手二之門を明治初期に移築したもの。

 早めの昼食になってしまうが、この先の伊良湖から伊勢湾フェリー乗船時間のためで、それに早いスタートで朝食も早いことも考慮したものだった。雨さえ降っていなければ萬松山可睡斎(曹洞宗)まで足を運ぶつもりだったが止めにした。午前11時35分予定より5分早く出発した。

 




磐田市

 奈良時代には、遠江国分寺と遠江国府が置かれ、古墳時代の約500基以上の古墳が現存するなど、歴史が語りつがれている“まち”です。江戸時代には、東海道53次見付宿として繁栄するなど、東西交通の要所として発展してきました。
 東海道の中間地点に位置し、交通の要所として発展してきたため、東西方向の交通体系に恵まれています。

鉄道は、東海道本線が市の中央部を横断し、天竜浜名湖線が市の北部を縦断しており、住民の交通手段として日々利用されています。また道路は、東名高速道路、国道1号、1号バイパス、150号、150号バイパス、152号、県道、市道から構成され、北部には第2東名も建設中です。
 
ジュビロのホームタウン磐田市は、トンボと花とサッカーのまち。日本一のトンボの生息地「桶ケ谷沼」、四季を彩る花々の名所、スポーツ情報の発信拠点「磐田スポーツ交流プラザ」、日本最古の木造擬洋風小学校校舎として有名な旧見付学校など、見どころは多彩。日本有数の先端技術の発信地です。

市制施行:旧市・昭和23年4月2日 2005年4月1日
市役所
磐田市国府台(こうのだい)3-1
東経:137度51分5.5秒
北緯: 34度43分3.1秒
人口 167,071人(男:84,056人、女:83,015人)
世帯数 58,641世帯数(4,615外国人世帯・男:4,438人、女:3,734人)
面積 164.08ku
広さ 東西 約11.5km 南北27.1km
市章

 いわたの「い」の文字をモチーフに、「新しい時代」を創造するまちの躍動感を表現し
ています。
 未来へ伸びる青のラインと緑の円弧は、豊かな自然環境や文化、歴史を活かした、
うるおいのある「ゆとりと活力のまち」を、また中央の赤の太陽は、未来への限りない
「希望」といきいきとした市民の一体感を象徴しています。
市の花:ツツジ
 開花時期には約30種3,500株のツツジが咲き誇る「つつじ公園」をはじめ、公園や
道路沿い、各家庭の庭先など市内全域に数多く見られ、市民に親しまれている花で
す。開花時期は4月中旬から5月で、ピンクや赤・白などの美しい花を咲かせます。
市の木:クスの木
 常緑の大きく成長する木で、市が繁栄していくイメージと重なります。市内に大木が
いくつか存在しますが、中でもJR磐田駅北口にある県指定天然記念物「善導寺大ク
ス」は、推定樹齢約700年の大樹で、シンボルにふさわしい印象深い木です。
市の昆虫:ベッコウトンボ
 ベッコウトンボの名前の由来は、羽の模様と体色がべっこう色をしていることです。
4月から6月まで見ることができます。このトンボは、絶滅危惧種に指定されており、
市内にある「トンボの宝庫」桶ケ谷沼が国内有数の安定した生息地といわれる希少
な昆虫です。

姉妹都市
 マウンテンビュー市(アメリカ合衆国カリフォルニア州)
 ダグパン市(フィリピン共和国パンガシナン州)
友好都市
 駒ヶ根市(長野県)
 伊那市(長野県)
 喬木村(長野県)
 中野市(長野県)

観光施設
見付祭り
東海道五十三次のほぼ真ん中、28番目の見付宿にお泊りになる参勤交代の大名を、宿役人・本陣・町衆がお迎えする様子を忠実に再現し、夜には舞車引き合わせが幻想的な世界に誘う

面積7.43ha、周囲1.7kmの日本一のとんぼの生地。67
種類の生息が確認されている。野鳥や水生植物の宝庫でもあり、静岡県自然環境保全地域に指定されている。
JR磐田駅→遠鉄バス見付・
磐田営業所・袋井行きで15分
バス停:三ヶ野下車徒歩5分。

市内で発見された古墳や遺跡から出土した遺物を保存・整理するための施設。旧石器時代から平安、中世、近世の各時代別に出土品を展示している。平安〜江戸に営まれた一の谷中世墳墓群遺跡を75分の1にした模型もある。所要30分。
JR磐田駅→遠鉄バス二俣・山東行きで10分、バス停:図書館前下車、徒歩2分

1875年(明治8)に建てられた、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎。1922年(大正11)までは小学校として、その後は裁縫女学校、病院などとして使われ、現在は教育資料館になっている。館内には、明治から大正にかけて使われた教科書や石盤、オルガンなどを展示。等身大の人形を置き、授業風景も再現されている。
所要30分。JR磐田駅→遠鉄バス大藤行きで10分、
バス停:旧見付学校前下車、徒歩1分

奈良時代に全国に造られた国分寺の一つ。1951年(昭和26)に発掘され、東大寺を模した七堂伽藍を備えていたことがわかった。東西180m、南北253mの跡地には、金堂や講堂の礎石が点在し、史跡公園として開放されている。
JR磐田駅→徒歩15分

観光イベント

獅子ヶ鼻公園桜まつり
 大道芸や踊りの披露、歌謡ショー、カ
ラオケ大会を開催。また、ずらりと並ぶ
屋台がお花見気分を盛り上げます。公
園内には、ハイキングコースやアスレ
チックなどが整備されているので、ピク
ニックにも最適。

熊野(ゆや)の長藤まつり

 推定樹齢800年、国指定天然記念
物の熊野の長藤の開花時期に合わ
せて行われるイベント。フジの花房に
囲まれながら、優雅なひとときを過ご
すことができます
遠州大名行列・舞車(まいぐるま)
 東海道五十三次のほぼ真ん中、28
番目の見付宿にお泊りになる参勤交
代の大名を、宿役人・本陣・町衆がお
迎えする様子を忠実に再現します。
夜には舞車引き合わせが幻想的な世
界に誘います。
見付天神裸祭(みつけまつり)
 旧暦月10日直前の土・日曜に見
付地区で行われる天下の奇祭。裸に
新ワラで作った腰蓑をつけ、押し合い
、もみ合いながら通りを練り歩き、矢
奈比売神社拝殿内で鬼踊りを行いま
す。国指定重要無形民俗文化財。
掛塚まつり
 江戸時代から明治時代にかけて商
業港として栄えた掛塚湊。その歴史
と伝統を今に伝え、海上の安全を祈
るのが掛塚まつりです。豪華屋台が
華麗な京都流お囃子の中を、提灯を
きらめかせながら巡行する様子は、
えもいわれぬ魅力を与えてくれます。
なお、掛塚祭屋台囃子は、県指定無形民俗文化財です。



府八幡宮祭典

10月第土曜・日曜に中泉地区で行
われます。各町内で趣向を凝らした
飾り付けの山車が曳き回されます。
太鼓や笛の音、威勢のいい掛け声が
鳴り響く情緒たっぷりのお祭りです。


若宮八幡宮(郷社)祭典

祭典が行われる郷社は、明治
年近隣28ヵ村の神社を統合して誕生したもの。豊田南17地区で17台の山車が華やかに曳き回されるときが、祭りのクライマックスです。
六社神社祭典
10月第2土曜・日曜に開催し、海上守護神を祭る氏神様である六社神社の祭典は、神と人とが対話する信心深い祭り。見所は両日18時ごろの中川通り。23台の屋台が集結し、活気に満ち溢れます。
天白神社祭典
神社の起源は、奈良時代の女帝・孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命。江戸時代には、池田宿大明神とも呼ばれていました。境内に集結した天竜川沿いの池田4地区の山車が、次々と飛び出していく様は迫力満点です
福田初日の出大会

磐田市南東に位置し、遠州灘から望む初日の出。地域の方のさまざまなイベントが催され、多くの来場者で賑わいます。

 




浜松市

 「やらまいか(やろうじゃないか!の意をもつ遠州の方言)」精神に例えられるように、ものづくり産業が活発で、楽器・繊維・オートバイをはじめ、近年では光技術・電子技術関連などの先端技術への取り組みでも、世界的に注目
 浜松市は東京と大阪のほぼ中間にあたる静岡県西部に位置し、遠州灘、浜名湖、天竜川、北遠の山々など豊かな自然と温暖な気候に恵まれた都市。
中世に浜松と呼称されるようになったことが、史書にもある。元は曳馬(ひくま)という地名だった。徳川家康が曳馬(引馬)を浜松と改めたことで、以後、浜松として定着する。 (元来、曳馬城の近郊に濱松という町があった。家康が曳馬城を元に増築した城を名付ける際、町の呼び名に因んで濱松城とした)が地名の由来。
 南部の平野と北部の山間で構成され、面積は高山市に次いで全国で2番目に広い。豊かな自然に囲まれており、北部は赤石山系、東部は全国でも有数の流域を持つ天竜川、南部は広大な砂丘からなる遠州灘、そして西部は浜名湖と四方を異なる環境に囲まれているため、市内各所に舘山寺や奥浜名湖、弁天島、白倉峡などの景勝地がある。

市制施行:旧市・明治44年 平成17年(2005)7月1日
市役所
中区元城町103-2
東経:137度42分16秒
北緯: 32度42分08秒
人口 822,193人(男:409,501人、女:412,692人
世帯数 317,654世帯
面積 1511.17ku
広さ 東西:約52km、南北:約73km
市章

上下対称的なデザインは、自然環境の循環と共生の形
であり、上部は浜松市北部の豊かな森林を、下部は浜
名湖と遠州灘の美しい「うみ」を表している。また、白い
波の形は、遠州灘の白波であり、浜松市の躍動と発展
を表現している。
 (平成17年7月1日制定
市の木

海岸部にあってはクロマツ、内陸部にあってはアカマツ
が多く見られ、市名の一部にもなっている。市内には古
木、名木が存在し、これらにまつわる伝説が現在も市
民に語り継がれている。

 (平成18年11月28日制定)
市の花

気品あふれる純白の花は、初夏になると一斉に咲き誇
り、甘くさわやかな香りを辺り一帯に漂わせる。市の温
暖な気候風土を活かして栽培されるミカンは、全国的な
ブランドとなっている。

 (平成18年11月28日制定)
市の鳥

春の訪れを告げる鳥として広く親しまれ、夏には市の山
間部で繁殖し、冬には平野部の公園や人家の庭先にも
現れる。人々の心を和ませる美しく澄んだ鳴き声は音楽
のまち・浜松を象徴する。

 (平成18年11月28日制定)

 

合併前の浜松市行政区域

旧浜松市


1911年(明治44年)7月1日に制定された市章(記章)は、2005年6月30日をもって廃止された。
2005年(平成17年)7月1日の合併前における浜松市のデータ。

 §  市の木:マツ、市の花:ハギ:市の鳥:ツバメ
 §  市の歌:「浜松市歌」(作詞:森 林太郎(鴎外)作曲:本居長世)
 §  面積:256.88ku(※境界未定部分あり)
 § 総人口:601,728人=(推計人口、2005年6月1日)

旧三ケ日町

合併当初、(北区)三ヶ日町は、三ケ日町であった。それは、三ヶ日町と東浜名村の合併時に国が三ケ日町と告示したためである。政令指定都市になる前の2007年3月に三ヶ日町に変更された。

三ケ日みかん

 江戸時代
中頃、紀州那智地方から三ヶ日町平山地区の山田弥衛門が「紀州みかん」の苗木を持ち帰ったのが始まり。その後天保年間に三ヶ日町平山地区の加藤権兵衛が実の大きい「温州みかん」を三河吉良地方から導入し、「紀州みかん」に代わり「温州みかん」が栽培されるようになった。

 明治時代に入ると、「温州みかん」がみかん園としてまとめて植えられるようになった。大正9年に専任技術員として中川宗太郎が赴任し、画期的なみかん栽培を指導、栽培技術が向上し、収穫量が増え、品質が良くなっていった。こうして三ヶ日地域にみかん栽培が普及し、定着した。

町内の稲荷山公園には山田弥衛門、加藤権兵衛、中川宗太郎の三恩人に感謝する「柑橘頌徳碑」が建てられている。
 三ケ日みかん(みっかびみかん)とは、静岡県浜松市北区三ヶ日特産の温州みかんのことである。静岡県西部、浜名湖北岸の三ヶ日は和歌山県有田市や有田郡の有田みかん、愛媛県の愛媛みかんと並んで日本有数の産地である。三ヶ日には浜名湖に向かった日当たりのよい南向き斜面が多く、みかん畑が一面に広がっている。植えられている品種は青島が多い。現在、三ケ日みかんのマスコットキャラクターとして「ミカちゃん」が使われており、広告などでは「ミカちゃんマークの三ケ日みかん」というフレーズが使われている。
 なお、静岡県は温州みかんの生産量が全国第3位である。
 ウンシュウミカン(温州蜜柑、学名:Citrus unshiu) は、ミカン科の常緑低木。またはその果実のこと。様々な栽培品種があり、食用として利用される。
 日本の代表的な果物であり、冬になれば炬燵の上にミカンという光景が一般家庭に多く見られる。単に「ミカン」と言う場合も、普通はウンシュウミカンを指す。 バナナのように、素手で容易に果皮をむいて食べることのできる果物である。
 甘い柑橘ということから漢字では「蜜柑」と表記される。古くは「みっかん」と読まれたが、最初の音節が短くなった。「ウンシュウ」は、柑橘の名産地であった中国浙江省の温州のことであるが、イメージから名産地にあやかって付けられたもので関係はないとされる。
 欧米では「Satsuma」「Mikan」などの名称が一般的である。タンジェリン(Tagerine)・マンダリンオレンジ(Mandarin orange) (学名は共にCitrus reticulata)とは近縁であるが別種である。
 柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国等へ広まったとされる。中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には
橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。
 食物繊維として含まれるペクチンには整腸作用の他、消化酵素のひとつである膵リパーゼの働きを阻害する作用があるとされる。
 これらは即座にウンシュウミカンが優れたダイエット効果を持つことを意味するものではない。ミカンからシネフリンを抽出しダイエット効果を謳ったサプリメントも市販されているが、シネフリンと刺激性物質(カフェインやカテキン等)を同時摂取した際の危険性も指摘されている。

航空自衛隊浜松基地

 市内の高丘地区には、航空自衛隊浜松基地がある。その歴史は古く、大正時代に浜松に設置された陸軍飛行連隊がその前身である。昭和に入ると陸軍飛行学校が設置され、浜松は陸軍の重爆撃機の基地となった。い太平洋戦争の戦況が悪化すると、浜松は航空基地や、軍需工場の存在とともに、米軍機の日本侵入路に当たっていたため、ほぼ同様の地理条件にあった静岡市と並び、米軍の爆撃目標値に対する実際の爆撃率において全国の都市の中では数少ない100%を超える空襲や艦砲射撃を受け、多くの市民が命を落とし、市街地は焦土と化した。
 終戦後一時、浜松基地はアメリカ空軍の不時着飛行場となり、1952年に組織された保安隊の航空学校が設置され、日本初の航空基地となった。保安隊はその後、航空自衛隊に改称され、1958年に浜松基地は南基地・北基地に分離したが、1989年に統合して、現在に至っている。
 所属部隊はパイロットや航空機等の整備員を養成する教育部隊が中心で、航空教育集団司令部がある。1999年には広報館「エアーパーク」も開館し、多くの人が訪れている。また、毎年行われる航空祭(エア・フェスタ)には、全国から多くの航空ファンが訪れている

浜松市歌
詞:林 望・作曲:伊藤康英
八重浪寄する海よ浜よ
青く畳む山々
遠く夢よ往け
高く飛んで行け
希望の空へはばたいて


明るく光る野の真中(まなか)に
香(かぐ)の木(こ)の実みのるよ
白く花は咲き
薫り高く咲き
やがて真黄金(まこがね)にみのるよ


ああ、想いはいつも還るよ
浜名の湖(うみ)のどかな
ああ、さ青(あお)の水と空との
美(うま)し国に還るよ


浜松渡りゆく風には
今も声が聞こえる
遥か悠久の
時の営みを
超えて往く熱き想いよ


遠く夢よ往け
高く飛んで行け
果てしなき未来めざして
ここから常永遠(とことわ)に


産業

工業

 浜松市は工業都市であり、製造品出荷額は2兆円を超える。浜松の工業の大半は小規模工場で、その多くは繊維、楽器、自動車・オートバイに関連する大企業の下請け工場である。近年、ホンダやなどの工場再編計画で下請け企業にとって厳しい状況である。
 市街地の周りには古くからある繊維工場や楽器、機械工場があり、郊外には輸送用機器工場などの大規模工場が各工業団地とともに分布している。北区の都田テクノポリスや細江テクノタウンには、先端技術産業の工場や研究施設が設置されている。

農業

 浜松市に合併された地区を中心に農業が盛んであり、農業産出額は全国4位となっている(2006年)。野菜や花き、果実の他に、浜北区では植木生産が行われ、天竜区などの北部森林地域は、東海地方屈指の林業地帯となっている。

2006年の農業産出額は540億円である。2000年度以降は減少傾向にあり、600億円を割り込んだ額で推移している。

漁業

代表的な水産物
 §  うなぎ-浜松の特産品として全国的に有名。
 §   トラフグ-は日本有数の漁場。その大半が下関に送られている。
 §  シラス-シラス干がほとんどだが、産地近くでのみ食べられる生シラスは絶品である。
 §  あさり・カキ-生産量は少ない。
 §  ノコギリガザミ-浜名湖の名産品。ドウマンガニと呼ばれ淡白でうまみのある肉質。
 §  車えび-浜名湖産は比較的小ぶりで、天ぷらまたは生食用。
 §  ノリ-古くから舞阪周辺で養殖される。
 §  スッポン-全国の70%を浜名湖周辺で生産する。
 §  ハモ-京都で祇園祭の頃に消費されるハモの大半は浜名湖産であるといわれている。
その他の水産物
 §  浜名湖- ウナギ、スズキ、サヨリ、イワシ、エビ、カニ、タイ、シラスウナギ、ヒラメ、アサリ、ノリ、カキ
 §  遠州灘 - フグ、シラス、イワシ、タチウオ、ヒラメ、タイ、イサキ、スズキ、カツオ、サワラ、アジ
 §  天竜川- アユ、アマゴ
 §  養殖-うなぎ、スッポン、アユ

商業

浜松市は、1991年の不動産バブル崩壊から今日にかけて、中心繁華街の衰退が顕著である。その原因は、(1)交通事情(2)不動産事情、(3)ライフスタイルなど社会状況の変化などの3点が大きく影響している。

(1)については、同一県内の静岡市と対比させると理解しやすい。静岡市の各界は、昭和50年代から、圏域内に新駅を積極的に開業させたが、それが現在になって、経済情勢の浮き沈みに影響されない同市繁華街のバックボーンとなっている。一方の浜松市は、平野部に市街地が放射状に形成されている為、商圏域は既存のJR東海道本線や遠州鉄道線の沿線に限定されていない。故に、圏域内の鉄道輸送率は低く、極端な車社会に陥らざるを得ない。従って、都心部だけに人が集まることはなく、むしろ車社会に対応した郊外型商業施設の需要が高い]

(2)については、都心部に企業が投資できる大規模な用地があるか否かに着目すると理解しやすい。浜松市は中心部よりも、郊外のほうが、大規模な用地を確保しやすい。その理由は、高度経済成長期から90年代にかけて、数多くの大規模工場や鉄工所が散在し、それらが平成不況によって閉鎖に追い込まれた為である。これら工場や鉄工所の跡地は、市街の大規模な用地として、企業にとって絶好の投資対象となり、景気回復期には、各社が競い合うようにして大型出店を進めた。一方の中心部は、区画整理事業が行き届いていない為、繁華街の土地や建物の殆どは、個人地権者が所有し、現状では繁華街に企業が投資できる余地は極めて限られている。

通常の場合、郊外よりも、中心部のほうが企業間による不動産の流動性が高いが、浜松市の場合は、その関係が逆になっている。故に、そのネジれ現象が、郊外型商業施設の激戦地という形で露呈している。しかし、それが中心部の衰退に拍車をかけたという見方は、あくまでも後付けの論理である。問題の本質は(1)や(2)の問題を改善せず、一過性の大規模イベントや、観光・文化振興、自然保護に予算を偏らせ、都市のマクロ経済である交通インフラや、不動産事情の改善を積極的に着手、もしくは議論しない行政や地元経済界の不手際にある。



湖西市

市制施行: 平成22年(2010)3月23日  (1972年)
市役所:
吉見3268番地
東経137度32分05秒
北緯 34度42分54秒
人口 46,028人(男23,690人、女22,338人)
世帯数 16,971世帯(平成21年3月31日現在
面積 55.08ku
広さ (東西7.6km、南北12.50km)
市章
昭和47年1月1日制定。湖西市の頭文字「こ」の字を円形とし、波頭で浜名湖を印象づけるとともに、湖西市の浜名湖上の位置を現し市の円満発展を現す。
市の木黒松)
昭和47年1月1日制定。古来、百木の長といわ
れ、湖西地方にも多く、歴史的な面影を今日に伝
えている。一名雄マツの名で呼ばれ、自然の
悪条
件にも堪えて、遠州灘の海岸や湖西連峰の山林
を守り、その容姿は美しくたくましい。庭園では人
々に楽しさと安らぎを与え、躍進する湖西市にふ
さわしい木である。
市の花くちなし)

昭和47年1月1日制定。湖西地方の山野に自生
し、庭園などに植えられている。葉は常緑性で光
沢があり、夏に芳香のある大形六弁の純白色の
花が開く。清浄な美しさの中に力強い重量感があ
り、風情豊かな、湖西市の花にふさわしい。

 平成22年(2010)3月23日には浜名郡新居町を編入。 浜松市、新居町、豊橋市に隣接している。南側は太平洋、東側は浜名湖に面している。市街地は市内2つのJR駅周辺に発達しているが、湖西市内の旧5ヵ村が存在していた当時の名残からか、市街地が分散しており、市の核といえるような地域は無く、連続した市街地は形成されていない。
 江戸時代は浜名湖の北側と南側に関所が置かれ、幕府の法度により漁業以外の目的で浜名湖を船で渡ることは禁じられていた。
 湖西市は静岡県内でありながら、東に浜名湖を挟んでいる上、江戸時代には関所(同市に編入した新居町の新居関所)が置かれていた事もあり、浜名湖以東の静岡県内の市町村との繋がりはかなり弱く、隣接している豊橋市等愛知県側の市町村との繋がりが強い。
 文化圏や商圏は愛知県側に含まれており、言語はどちらかと言うと三河弁、買物は浜松方面より豊橋方面を利用する人が多い。浜松市街地に入るには20q以上も離れているのに対し豊橋市街地は15q余り、車で約10分も走ればすぐ愛知県に入る。特に西部の新所原・白須賀付近では西に約数100m行くとすぐ愛知県になる。更に、白須賀付近では愛知県側から国道23号(起点:愛知県豊橋市:西八町交点=国道1号交点、並びに豊橋東バイパス東細谷IC(未開通)=国道1号潮見バイパス交点)〜終点:三重県伊勢市(伊勢神宮内宮前)。豊橋東バイパスが延びてきて
県境付近で交わる事から、今後の発展が期待されている。
 又、県庁所在地の
静岡よりも名古屋の方が近く、通勤・通学も名古屋方面に通っている人が多い。鉄道も料金は静岡より名古屋の方が安いし、距離も静岡が約100km離れているのに対し名古屋は約90km弱で行ける。
 一部の地域を除き、愛知県のテレビが受信出来る為、愛知県を始めとする東海3県の情報がリアルタイムで取得出来る。愛知県のテレビは基本的に本宮山豊橋中継局から受信しているが、一部の家庭では二川テレビ中継局から受信する事もある。市内の一部の家庭では、デジタルでも愛知県のテレビを受信している。西部の新所原等一部地域では、愛知県のテレビの方が受信状態が良く、又は愛知県のテレビしか受信していない家庭もある。
 
静岡県の最も西に位置する市。1972年市制施行。自動車工業、農業、トヨタグループ始祖の町として有名。
 豊田 佐吉(とよだ さきち慶応3年2月14日(1867年3月19日昭和5年(1930)10月30日は、日本の実業家、発明家。豊田自動織機製作所の創業者。
 遠江国山口村(現・静岡県湖)の農家に生まれた。父は大工だった。小学校を卒業後大工になり、発明の心が芽生える1890年(明治23年)。に東京での内国勧業博覧会にて外国製織機の設計を参考にして「豊田式木製人力織機」を発明。この「木製人力織機」は安価な木を多用して当時まだまだ高価だった金属類は必要最小限に抑えた為、当時主流だった外国産の機械より一桁安い価格で瞬く間に拡販した(この無駄を抑える発想は後の『トヨタ生産方式』の原点となる)。その後、かせくり機を発明する。
 明治26年(1893)にたみと結婚し、翌年には長男喜一郎が誕生した。明治29年(1896)「豊田式汽力織機」を発明。明治30年(1897)に浅子 と再婚し、明治32年(1899)に長女愛子(のちに「トヨタ自動車工業」初代社長となる利三郎を養子にむかえる)が誕生。明治35年(1902)に豊田商会を設立、今日のトヨタグループの礎を築く。藍綬褒章を2回受賞した。
 なお、通説では大正13年(1924))に「G型無停止杼替式豊田自動織機」を開発したとされるが、完成当時は三井グループの東洋綿花(後のトーメン、現在の豊田通商)系上海紡績のトップ黒田慶太郎(黒田慶樹の祖父)の助力を得て大正10年1921)に中国・上海租界に設立した豊田紡績廠の経営に力を注いでいる。なお、和田一夫著の『豊田喜一郎伝』(ISBN・4815804303)によると、G月型無停止杼換式豊田自動織機は、実は喜一郎が開発を手掛けていたとされる。昭和5年(1930)10月30日死去。享年63。

観光スポット

豊田佐吉記念館
 昭和63年10月30日、豊田佐吉生誕120年を機に、佐吉が40歳のころ建てた家と屋敷を、豊田佐吉記念館としてオープンした。 
 以前から、市内山口にある豊田邸には、佐吉の生い立ちなどに関心を持つ人が多く訪れていました。このため、当時トヨタ自動車(株)社長の豊田章一郎氏(現同社取締役名誉会長)は、佐吉の生涯を分かりやすく見学できるように整備し、豊田佐吉記念館と名付けて一般公開することにした。
 裏山を抱く敷居には、母屋のほか父親に隠れて研究を続けた納屋、日だまりの中に優しい姿でたたずむ佐吉の生家などがあり
生家は、平成2年に復元されたもので、江戸時代後期の農家の形をよく残しており、建築史からみても貴重な文化遺産です。 
 また、展示室には、佐吉が最初に発明した豊田式木製人力織機をはじめ、かせくり機、木鉄混製動力織機、佐吉の名前を不動にしたG型自動織機、119に及んだ特許証などが展示され
集会室では、佐吉の生涯を描いた映画を観ることもできる。

豊田佐吉

生誕
1867年3月19日(旧暦慶
    応3年2月14日)日本遠江
    国浜名郡山口村
死没
1930年10月30日
        (満63歳没)
職業
:豊田自動織機製作創業者
子供
豊田喜一郎(長男

    
豊田愛子(長女)
本興寺(ほんこうじ)

 北原白秋が心引かれたことでも有名。本堂の近くに「水の音たぞにひと
つぞ聞こえけるそのほかはなにも申すことなし」という歌碑がある。

 歴史的に貴重な建築は、国の重要文化財指定。そのほかにも文化財を
多く所蔵し、春には境内に数百本の桜が鮮やかに咲き乱れる。

宇津山(うづやま)城址

 かつての今川氏の重要拠点。永禄11年(1568年)12月、
徳川勢に攻められて落城。城を守っていた小原鎮実(おはら
しずざね)は城に火を放ち、船で浜名湖の対岸まで逃げ延び
たといわれ、今は、浜名湖の美しさを堪能できる眺望ポイント。

妙立寺(みょうりゅうじ)

 永禄11年(1568)に、宇津山城落城のとき、境内に家康
の本陣が置かれたという史実もある名刹(めいさつ)。
 銅ぶきの入母屋作りの本堂は、文化財の宝庫ともいわれ、
また、頂上は視界が開け、新所や岡崎が一望。
摩利支天(まりしてん) 静岡県湖西市神座463

 勝利の神様として有名な摩利支天。スポーツ選手が悲願達成のお願い
に来ることも。
 本来は、安産・航海・大漁・勝負の神様として信仰を集め、
毎年2月の
第4日曜日の大祭日には、名物植木の初市が開かれる。

 

道の駅
 道の駅「潮見坂」は湖西市の申請に基づき国土交通省道路局長により「道の駅」に平成17年8月10登録されたものです。
 「道の駅」潮見坂は湖西市と国土交通省により一体型として整備された休憩・情報発信・地域連携の機能を持った施設です。

 この他にも、イチゴ・トマト・白菜・赤カブ・ミニトマト・ナス・瓜・メロン・ピーマン・きゅうりなど、まだまだ他にも沢山あり、菓子類も豊富に並べられていた。













 

道の駅潮見坂、近くの海








田原市

市制施行: 平成17年(2005)10月1日  平成15年(2003)8月20日町〜市へ
市役所:位置 東経137度16分00秒、北緯 34度39分56秒
面積 18881ku・東西延長は、約30km、南北延長は、約10.1km
自然









 愛知県の南端に位置し、北は風光明媚な三河湾、南は勇壮な太平洋、西は伊勢志摩を臨む伊勢湾と三方を海に囲まれた渥美半島のほぼ全域が市域となっている。海岸延長は約100kmに及ぶ。
 蔵王山、伊良湖岬、大石海岸(太平洋ロングビーチ)などは、大勢の観光客が訪れる景勝地となっている。
 表浜(太平洋)のアカウミガメ、三河湾のスナメリ、渥美半島を経路とするサシバ(鷹)の渡り、全国有数の渡り鳥の飛来地である汐川干潟、国指定のシデコブシや貴重種のハマボウ等の群生地、県指定天然記念物の黒河湿地に生息するハッチョウトンボなど、貴重な動植物の宝庫なっている。
人口 総人口66,634人、男33,789人・女32,845(平成21年4月30日現在)
世帯数 21,486世帯・出生50人、死亡37人、転入190人、転出181人、22人増
市の花 菜の花
市の木 クスノキ
姉妹都市 ジョージタウン市(アメリカ・ケンタッキー州)、銅雀区(トンジャクク)韓国ソウル特別区
友好都市 プリンストン市及びギブソン郡(アメリカ・インディアナ州、昆山市(こんざんし)中国江蘇省


市章

平成17年10月1日制定
 緑豊かな「渥美半島」を黄緑色、「澄んだ空と美しい海」を青い横縞で市が目指す田園都市をイメージした。また、中央の円は「三河湾」で調和、全体の形は半島の矢印により活力・前進を表し、うるおいと活力が共生する新都市をイメージ


菜の花


クスノキ

 吉胡・伊川津・保美の三大貝塚をはじめ、数多くの縄文遺跡が点在し、奈良時代からは製塩が、また、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、やきもの(渥美焼)が盛んであった。南北朝の争乱期から戦国時代になると、それまで伊勢神宮領が大部分であった渥美半島でも、公卿領、さらに戦国国人層の所領へと徐々に支配の形態が変化した。

 文明12年(1480年)頃、田原城を築いた戸田氏は、一時、渥美半島全域と知多半島の南半分を領有しましたが、天文16年(1547年)には、今川義元、永禄8年(1565年)には、徳川家康の攻略を受け、その支配下となり、天正18年(1590年)には、東三河一円を領有した吉田城主池田輝政に統治された。

 江戸時代になると渥美半島内は、藩領・旗本知行地・天領(幕府直轄領)・寺領が入り組んで存在しました。田原城を中心とする田原藩は、寛文4年(1664年)には、三宅康勝が田原城主となり、以後、三宅家が12代にわたり1万2千石を領有。幕末の先覚者、画家として有名な渡辺崋山は、田原藩の家老職にあり、元禄元年(1688年)には、大垣新田藩が戸田氏成によって成立し、市内福江町にあたる畠村に陣屋を構え、そのほかにも旗本清水氏・諏訪氏・本多氏などの支配が明治維新まで続いた。

 明治初年(1868年)、現田原市の地域には、59の村(田原:31村、赤羽根:6村、渥美:22村)が存在していました。その後、明治4年(1871年)の廃藩置県、改置府県により、渥美半島における全村は額田県の所属となり、翌年には現在の愛知県の所属となった。明治39年には豊橋市と渥美郡が分離し、田原地域は杉山村、田原町、野田村、神戸村の4町村となり、赤羽根地域では赤羽根村が誕生し、渥美地域では、伊良湖岬村、泉村、福江町の3町村に再編された。

 昭和30年(1955年)1月には田原町、野田村、神戸村の合併により田原町が新設され、同年4月には、田原町が杉山村(現豊橋市)の一部であった六連地区を編入することにより、今回の合併前の田原町の区域となりました。同じく同年4月、伊良湖岬村、泉村、福江町の合併により渥美町も誕生しました。(昭和の大合併)。また、赤羽根村では、昭和33年(1958年)に町制を施行して赤羽根町に、その後は、田原・赤羽根・渥美による3町の時代が50年近く続き、合併特例法の改正を背景としたいわゆる平成の大合併により、平成15年(2003年)8月20日、田原町が赤羽根町を編入合併するとともに市制施行を行い、田原市となり、さらに、2年後の平成17年(2005年)10月1日、渥美町の編入合併により新「田原市」が誕生。



蔵王山展望台

 グルングルンという風力発電のモーター音が聞こえてきたら、もう山頂は間近。
蔵王山の山頂には、渥美半島特有の強い風を利用して、地球にやさしいエネルギーを生み出す風力発電が設置してあります。下から見上げると、やっぱり大きい! 案内パネルを見ると、年間発電量は約90万Kwhで、一般家庭の約270軒分。ここで作られた電気は展望台の冷暖房や照明などに使い、余った電気は実際に一般家庭で使われているのだそうです。
しっかり田原市民の役に たっているんですね。

  標高250mの蔵王山。その蔵王山の山頂でいつもクルクルまわっている白い風力発電は、田原に暮らす人にとってのシンボルといえます。いつも下から見上げているばかりだけど、今度の休日は子どもたちとあそこへ登ってみようと計画。大人の運動不足解消と、小さい子どもの歩く能力を考えると、250mの蔵王山はちょうどいい距離かもしれません。

 蔵王山の登山口は、ふもとの権現の森からスタート。権現の森は、自然の樹木に囲まれた静かな公園で、木の遊具やアスレチックが点在。楽しい遊具がいっぱいなので、歓声をあげて遊び始める子どもたち。権現の森の入り口あたりにトイレがあるので、小さい子はここでトイレをすませておきましょう。

実は、蔵王山登山には裏ワザがあります。蔵王山山頂には駐車場があるので、体力に自信のないファミリーは、お父さんに権現の森まで送ってもらいます。
そして、車のお父さんに先まわりして頂上で待っていてもらうと、帰りはラクラク。幼児の初ハイキングには、この方法をおすすめします。

 風力発電を見学した後は、4階建ての展望台へ。まずは2階の売店で「蔵王山登頂認定証」をゲット。初心者クラスの山だけど「登頂」とあるのが、達成感と満足感をくすぐります。4階の展望室からは、360度の大パノラマが圧巻。波静かな三河湾、そして雄大な太平洋に囲まれた緑豊かなまち、田原市が一望のもと。運が良ければ、何と富士山を眺めることができるとか。展望室は夜の10時までやっているので、夜、美しい夜景を眺めに来るのも、いいかもしれません。

 展望台施設周辺約4000個のイルミネーションが、眼下に広がる「日本夜景100選」に選ばれた夜景とコラボレーションし、幻想的な雰囲気をかもしだす。展望台3階で食事を楽しみながら、三河港大橋、ラグーナの観覧車等田原市街地から豊橋市街地へと広がる夜景とイルミネーションの輝きは、一見の価値あり。

久しぶりのハイキングに少々疲れたけれど、山頂で子どもたちと同じ風や空気を共有できるのは最高。歩くうちに、子どもたちの成長も実感できたりして。
いつもは車の生活だけど、たまにはハイキングで汗を流すのもいいものです。

 権現の森公園の斜面を少し登ると、やがて権現さんの朱塗りの鳥居が見えてきました。先を進むと風情ある石仏が点在し、それぞれお花が供えてあって、眺めているだけでホッと心がなごみます。山道には◯合目と表示がしてあるので、歩くペースの目安にも。ちょうど5合目ぐらいに視界が開けて広場があり、木のテーブルと椅子があるので、ちょっと休憩。水分補給をして、さあ後半の歩きをがんばろう!
小川に石を投げたり、拾った枝でちゃんばらごっこをしたり、子どもたちの山登りは、とっても気まぐれ。「早く、早く!」と言ってしまいがちですが、山では親も一緒に遊んでしまうぐらいの気持ちのゆとりが大切だと気づかされます。
切り株にきのこが生えていたり、台風の後で栗の実が落ちていたりと、さまざまな発見があるのも、ハイキングの醍醐味です。


恋路ヶ浜

 伊良湖岬灯台から太平洋に面して日出の石門まで約1km。太平洋の荒波を受けて湾曲する美しい砂浜が、恋路ヶ浜です。潮に乗った流木や時には遠い島から椰子の実が流れ寄り、腰をおろすとさまざまな貝殻が花のように散っています。親子連れは波打ち際ではしゃぎ、カップルは肩を寄せ合って、誰もが「素」の自分になってしまうのは、浜辺の魔法でしょうか。

昔、高貴な男女の恋の伝説が、恋路ヶ浜の由来と言われています。
岬の突端の浜辺は、前方に黒潮の道が流れ、見上げれば空に渡る鳥の道があり、海の向こうの世界に想いを広げる場所でもあります。だから、何か大きなものに包まれている、そんな安堵感を与えてくれるのです。

 「椰子の実」の歌詞にある「遠き島」を石垣島にみたて、毎年、石垣島からプレートをつけた椰子の実を流す試みがなされてきました。そして試みから14年目、2001年8月3日に初めて、渥美半島の浜辺に椰子の実の漂着が確認されました。このことを記念して、この地を訪れた人々の願いがかなうようにと、「願いのかなう鍵」が恋路ヶ浜駐車場横に設置されています。「ずっと一緒にいようね」「幸せになれますように」などのメッセージを書いて、カップルたちが思い思いに願いをかける、ほほえましい姿が見られます。あなたの願いも、この鍵に託してみてはいかが?

万葉の花碑・詩碑

 伊良湖岬の先端、灯台背後の古山の斜面に、天武朝の皇族であった麻績王(おみのおおきみ)の歌碑が建っています。天武天皇4年、三位の位にあった麻積王が壬申の乱(672)に関係し、伊良湖に流されました。里人に「打麻を 麻績の王 海人なれや 伊良虞の島の 玉藻刈ります」(あなたは海人なのですか、伊良湖の海草など刈っておられて。おいたわしいことです)と語りかけられて、「うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良湖の島の 玉藻刈り食す」(この世の命の惜しさに、私は波に濡れて、この伊良湖の島の海藻を刈って食べているのです)と応えました。万葉集の一巻に収められているこの歌は、潮騒の浜にふさわしい、万葉の名歌といわれています。


椰子の実記念碑

「名も知らぬ 遠き島より 流れよる 椰子の実ひとつ」
 誰もが口ずさんだことのある、島崎藤村作詞による国民歌謡「椰子の実」。この歌が、伊良湖の風景を歌ったものだと知っていましたか? 恋路ヶ浜の東の端、国道42号から日出の石門に下りる遊歩道の途中の日出園地に、「椰子の実」誕生を物語る記念碑があります。
 民俗学者の柳田國男が大学生の頃、伊良湖を訪れたのは、明治31年のこと。伊良湖滞在は、渥美半島出身の画家の紹介によるもので、網元の離れ座敷を間借りして1カ月余りの長期逗留でした。
 恋路ヶ浜を散策中に、柳田國男は偶然どこからか流れ着いた椰子の実を拾います。この体験は強く心に残ったのでしょう。この話を親友の島崎藤村に語ったところ、それが素材となって叙情詩「椰子の実」が誕生したのでした。優れた詩人は、自分が体験していないことでも、美しい叙情詩に作り上げることができるのですね。

 昭和11年、藤村の詩に大中寅二が作曲し、「椰子の実」の旋律は生まれました。NHKの国民歌謡として全国に放送され、たちまち人々に愛される歌になったのは、広く知られるところです。柳田國男は、のちに名著「海上の道」を発表。この時の伊良湖体験は、後に彼の学問にも強く反映されることになりました。柳田國男が体験し、島崎藤村が詩に詠んだ「椰子の実」の歌。どんなに時代が移り変わっても、友情が育んだ永遠の愛唱歌は不滅です。
 日出の石門近くの日出園地内には、詩・曲2つの記念碑が揃って建てられています。傍らには、「愛のココナッツメッセージ」漂着記念のプレートが。観光協会ではこの詩のロマンを再現しようと、昭和63年から沖縄県石垣島を「遠き島」に見立てて1600km離れた伊良湖岬に流れ着くようにと、黒潮にのせて椰子の実を投流。平成20年までに投流した椰子の実は2404個。そのうち沖縄県をのぞく全国各地に93個の椰子の実が流れ着いたそうです。

芭蕉句碑

  伊良湖岬にほど近い伊良湖シーサイドゴルフ倶楽部の入口近く、国道に沿った岩の上に松尾芭蕉の句碑を見つけることができます。「鷹一つ 見つけてうれし 伊良湖崎」と刻まれたその句碑は、寛政5年(1793)、地元の俳人たちが伊良湖岬の通称・雄岩の上に建てたもの。その後、昭和58年(1983)には芭蕉句碑園地として付近が整備され、新しく芭蕉の真筆を複製した句碑も建立されています。まわりには休憩所や駐車スペースもあるので、ドライブの途中に一息つくのにはもってこいの場所といえそうです。

  芭蕉が渥美半島を訪れたのは、貞享4年(1687)、44歳の時。東海道をたどって吉田(豊橋)から三河湾沿いに保美の里へ向かいました。師弟3人とともに伊良湖岬を清遊し、この時「鷹一つ」の句が作られたのです。芭蕉の愛弟子・杜国は尾張の裕福な米問屋でしたが、禁止されていた米相場を行った罪で、保美の里に謹慎していました。芭蕉は「笈の小文」の旅の途中、弟子の越人と二人で杜国を訪ね、彼の境遇を慰めたのでしょう。芭蕉と愛弟子の久しぶりの再会。伊良湖で鷹が飛ぶ風景は確かによく見かけますが、ここでの「鷹」とは杜国のことではないでしょうか。「きみに会えてうれしい」と、素直にうたいあげた芭蕉のやさしさに心打たれます。
 芭蕉の「卯辰紀行」には、「此州崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白というとかや。骨山と言ふは鷹打処なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもえば、猶あはれなる折ふし、『鷹一つ見つけてうれしいらご崎』」と記されています。
 海辺で白い石を拾い、鷹の舞う姿にはるばる南の果ての海まで来たことを実感し、無心に波間を歩く芭蕉と弟子たちの姿が目に浮かぶよう。それは、勇壮な鷹の渡りを目にして歓声をあげる、現代の旅人たちの心境にも重なるような気がします。

 田原市寺下通りの龍泉寺境内にも、松尾芭蕉の句碑があります。芭蕉が貞享4年(1687)弟子の杜国を訪ねて伊良湖に向かう途中、天津畷(現在の杉山町天津地内)あたりで詠んだ句が記されています。“寿久三行や 馬上に氷る 影ぼうし”(寒風に身のすくむ思いで馬上の自分の姿は凍りついた影法師のようである)。
 天明2年(1782)芭蕉没後88年の忌日に、田原の俳人たちが芭蕉をしのんで建てられました。龍泉寺には芭蕉像一幅と芭蕉自筆の句帖も保存されています。

吉胡貝塚

 足を折り曲げ、片手で頬杖をついたような物憂げなポーズをとっていて、物憂げな落ちくぼんだ瞳が何かを語りかけているよう。推定50歳くらいの女性で、右腕には4個、左腕には7個の貝の腕輪がはめられ、朱色の顔料がまかれていたそうです。
貝塚といっても、そこから出土したものは、縄文人が食べた貝や動物の骨ばかりではなく、壊れた土器や石器、ていねいに埋葬された人骨やペットの犬までも見つかっています。

伊川津貝塚

 東西480m、南北240mの規模。伊川津神明社の境内もその一部で、1m以上の厚さで貝が堆積した部分もあるといいます。標高約2.5mの沖積台地に形成されていて、東西480m、南北240mの広範囲に及んでいます。
 伊川津神明社の境内に足を踏み入れると、現在でも足元の地面に貝殻片が散乱しているのが見受けられます。この伊川津貝塚が全国的に知られているのは、183体もの人骨が発見されていること。この数は日本国内の貝塚では3番目の多さ。ちなみに1位は341体の吉胡遺跡なので、いかに渥美半島の縄文遺跡から人骨が多く見つかっているかが分かります。

城宝寺古墳

 石室の大きさが、渥美半島で最大級。横穴式石室をもつ円墳として知られています。6世紀末頃の豪族の墓といわれていますが、保存状態がよく、きれいな円墳の形で残っているのが見てとれます。石室が今の墳丘中心部から西にのびていることから、昔はさらに西に広がる大きな規模の古墳だったとか。
 完全に原形をとどめている片袖式玄室は、長さ6.4m、幅2,4m、高さ2.2m。5枚の天井石を乗せて、堂々たる形をしています。また古墳の上には階段がついていて、何と古墳の上に登ることができます。入口が開く形なので、副葬品はすべて失われてしまっているのが残念。

伊良湖港

 2008年8月現在の伊良湖港(愛知県田原市)のフェリー桟橋周辺。写真右端の建物が旅客ターミナルにあたる道の駅「伊良湖クリスタルポルト」、中央の桟橋が伊勢湾フェリー鳥羽行の発着場、左の桟橋が海上保安庁が使用する桟橋である。 桟橋前の道路は乗船予定車の駐車場である。駐車場にはレーン番号がマークされており、乗用車はレーン1から順に空きのあるレーンへ駐車し乗船を待つ。重量4トンを超える車両はレーン0へ駐車する。写真中央に小さく見える船は伊良湖クリスタルポルトの右側にある桟橋。


伊良湖岬灯台

 ◎1929年に建てられた伊良湖岬灯台があり、1998年に“日本の灯台50選”に選ばれた。
 ◎岬の沖合いには伊良湖水道航路が通り、1日に100隻以上往来する大型船舶を間近で眺めることが出来る。航路管制   の伊勢湾海上交通センターもここに設置されている。
 ◎太平洋側には“日本の渚百選”、“日本の道100選”、“日本の音風景100選”、“日本の白砂青松100選”に選ばれた   恋路が浜という砂浜があり、柳田國男が明治31年(1898)ここに遊び、拾った椰子の実の話を一緒にこられなかった島   崎藤村にしたところ、それから藤村が想像を逞しくして創作したのが“椰子の実・落梅集所収とされ、やしの実博物館や   椰子の実詩碑もある・日出園地。
   (なお、後に椰子の実の詞が現実に起こりうるものなのか某テレビ局のバラエティ番組で検証されたところ、南国か流さ   れた椰子の実が、実際に漂着することがあるということが証明されている)。

 1929(昭和4年11月20日に初点灯、最初は光源にアセチレンガスを使っていましたが、1960(昭和35)年に電化され、
白色・円形・コンクリート造り、等明暗白光・明3秒に暗3秒、光度は17000カンデラ・光達距離は12.5海里(約23km)、高さは、地上から頂部までが14.8m・水面から灯火までが15.5mです。

 渥美半島に突き出た岬の最先端には、昭和4年に建てられた白亜の灯台がある。灯台から太平洋岸沿いの約1kmに渡る海岸線「恋路ヶ浜」は、太平洋の荒波をうけて湾曲する美しい砂浜で、数々の「日本の百選」(道・渚・白砂青松・音風景)に選ばれている。また、伊良湖海水浴場は白い砂浜と透明度の高い水が人気のリゾートビーチとなっている。

伊勢湾海上交通センター





伊勢湾フェリー

 

伊勢志摩と三河を結ぶ最短ルート!

鳥 羽 ←55分→ 伊良湖

 

1964年 4月 - 伊勢湾自動車運送船株式会社設立。
1964年11月 - 鳥羽〜伊良湖間フェリー航路の営業開始。
1973年 5月 - 商号を伊勢湾フェリー株式会社に変更。
1976年10月 - 鳥羽〜師崎(愛知県南知多町)間フェリー航路               の営業開始。
1977年 7月 - 本店を名古屋市から三重県鳥羽市へ移転。
2004年 4月 - 静岡営業所を本社営業部に統合。
2005年 2月 9日 - 鳥羽〜師崎航路の運航終了。
2005年 2月10日 - 鳥羽〜常滑(中部臨空都市)フェリー航路
                   の営業開始。
2006年 3月 1日 - ダイヤ改定。常滑航路を2往復に減便。
2007年 3月31日 - 常滑航路廃止し、常滑営業所を閉鎖。
2010年 9月30日 - 鳥羽〜伊良湖航路廃止予定。


自動車航送運賃・自転車・原付・自動二輪車運賃(運転手含む)

車両の長さ

片  道
<2間有効>

往  復(かえり)
<7間有効>

車両の長さ

片  道
<2間有効>

往  復(かえり)
<7間有効>

  3m未満

,500円

 8100円(3,600円)

自転車 大人(中学生以上)

  1,500円

 4,500円(2,000円)

3m以上  4m未満

,500円

 9900円(4,400円)

自転車 小人(小学生)

  1,750円

 3,150円(1,400円)

4m以上  5m未満

,500円

11700円(5,200円)

原付自転車(125CC以下)

  3,000円

 5,400円(2,400円)

5m以上  6m未満

,500円

13500円(6,000円)

自動二輪車(750CC未満)

  3,500円

 6,300円(2,800円)

6m以上  7m未満

,700円

15600円(6,960円)

自動二輪車(750CC以上)

  4,000円

 7,200円(3,200円)

7m以上  8m未湾

,900円

17820円(7,920円)

     

8m以上  9m未満

11,100円

19980円(8,880円)

     

9m以上 10m未満

12,300円

22140円(9,840円)

     

10m以上 11m未満

13,500円

24300円(10,800円)

     

11m以上 12m未満

14,700円

26460円(11,760円)

     

1m毎に7以上

,200円

       

一般旅客運賃・団体旅客割引運賃

種   別

片  道
<2日間有効>

往  復(かえり)
<7日間有効>

種   別

10名〜50名

51名以上

大人(中学生以上)

,500円

,850円(1,350円)

一般団体

大  人

,350円

,200円

小人(小学生)

 750円

,430円( 680円)

小  人

 680円

 600円

     

学生団体

 

,050円

       

680円

600円




 

伊勢湾フェリー船上←クリック







鳥羽市

 観光産業は観光都市を標榜する鳥羽市の基幹産業であるが、近年は観光客数が伸び悩んでいる。2007年度の観光客入込客数は約461万人であり、三重県内では伊勢市、桑名市に次いで第3位である。
 近世以降、志摩国の政治・経済・文化の中心地鳥羽藩の城下町として発展してきた。明治以降も志摩地方の行政・経済の中心として栄えたが平成初期の行政改革以降、その地位は伊勢市に徐々に奪われつつある。
 市域全体が伊勢志摩国立公園内の志摩半島に属し西を伊勢市、南を志摩市に接する外は海岸線である。海岸はリアス式海岸で、温暖な気候に恵まれる。 また、渥美半島に位置する愛知県田原市が伊良湖水道を挟んだ対岸にあり、伊勢湾へリーによって連絡する。鳥羽の神島は、田原の伊良湖岬からの方が距離が近く、鳥羽・田原双方と船便で結ばれている。
 鳥羽は、古くから自然環境と、豊富な海の幸に恵まれ、「美しくに、御餉(みけ)つ国」として、奈良、平安の都をはじめ近畿一円にその名を広めていました。そして、戦国の世には、九鬼嘉隆の率いる「志摩水軍」とともに、日本全国に知れ渡るようになりました。江戸時代においても、樋の山、安楽島、湾内の島々に囲まれた天然の地形を生かして、「天下の台所」大坂と幕府の中心地江戸を結ぶ海上交通の重要な風待ち港としての役割を果たしています。
 世界に冠たるミキモト真珠の生みの親、御木本幸吉翁の養殖真珠の発明から、氏をはじめとする市民の力で、今日の「観光都市」としての顔を持つようになり、着実に発展してきた。
 鳥羽で発見された恐竜化石は、何と
千万年余り前の地層から発見された。鳥羽安楽島海岸で発見された巨大恐竜の化石は、人類がこの地上に存在する以前にこの鳥羽の地に巨大恐竜が存在していた事実をどのように、未来永劫に伝えなければならない重要なメッセージは、伊勢、鳥羽、志摩の恵まれた自然、豊かな文化に「鳥羽竜」というロマンあふれる夢の贈物といえる。

市制施行: 昭和29年(1954)11月1日
市役所:
鳥羽市鳥羽
丁目 
東経136度50分   
北緯 34度28分
 
人口 22,375(10,628人、女11,747人)
世帯数 8,446世帯(平成22年3月末日
面積 107.98u
広さ 東西19.25km・南北19.50km
市章

躍進する鳥羽市の「ト羽」を図案化したもので
はト、は羽、中央の丸は円満平和を
象徴して海洋観光都市の飛躍発展の姿を表
しております。
市の木

倭橘(ヤマトタチバナ)』の由来と植栽の目的を説明し
ましょう。
事務局によると、『倭橘』は伝承豊かな常緑の木で、
白い花は文化勲章にデザインされています。
万葉集は『非時香果』として、実を貫き首飾りにして、
芳香療法の薬玉として珍重しました。現代では薬用
酒、香辛料、浴剤など用途の広い木。
市の花
ハマナデシコは本州から琉球、中国に分布す
る多年草。海岸の崖地や砂浜に生育する。茎
は50cmほどになり、茎の下部は木質化して堅
い。葉は厚くて光沢があり、対生で柄はなく、
ほとんど茎に合着する。若い個体では根生葉
を出してロゼットを形成する。両面無毛である
が、葉の縁には微細な毛がある。花は6月頃
から咲き始め、紫紅色の美しい花を秋まで次
々と花を咲かせる。花弁は長さ6〜7mm。
市の鳥
夏季にユーラシア大陸北部やカナダ西
部、アラスカ州などで繁殖し、冬季にな
るとアフリカ大陸北部やヨーロッパ、ペ
ルシャ湾沿岸部、アメリカ合衆国西部、
中華人民共和国東部などへ南下し越
冬する。日本では主に亜種カモメが冬
季に越冬のため飛来(冬鳥)する

幼鳥は全身が灰褐色の羽毛で被われ
、肩を被う羽毛や翼上面の外縁(羽縁)
が淡褐色。

 

鳥羽港

 伊勢湾フェリーの入港する鳥羽港フェリーターミナルにはバスの中から上陸した。正面の小高いところには、豊臣秀吉の家臣であった九鬼嘉隆がその跡地に築城した。今は城跡になって鳥羽小学校が建ち、天守跡はグラウンドとなっているが、山麓の鳥羽幼稚園近くと本丸跡にかつての鳥羽城の苔むした石垣や土塁残っている。とガイドの説明が耳に入ってきた。右に曲がって鳥羽水族館前やJRや近鉄の鳥羽駅前を通過しすると両線を跨ぎ、国道42号線は、やがて左に入る伊勢志摩スカイラインへ入る信号を過ぎた。左にカーブする辺りから線路も見え隠れし、やがて陸橋下をくぐり、線路は左側に替わった。長者橋北交差点で左に入ると伊勢二見鳥羽ラインに入る。

鳥羽城主

 鳥羽城があった桶の山(志摩国答志郡鳥羽)の鳥羽湾に突出した部分には中世、橘氏の居館があった。文禄3年(1594)当時、豊臣秀吉の家臣であった九鬼嘉隆がその跡地に築城した。九鬼家3代、内藤家3代、天領、土井家1代、大給(松平)家1代、板倉家1代、戸田(松平)1代と目まぐるしく城主が代わり、享保10年(1725)以降に稲垣家8代で漸く定着した。安政元年(1854)に地震により城内天守以下の建物が倒壊し、修理を加えないまま明治4年(1871)に度会県が置県され同年に払い下げられ破却された。
 鳥羽城は鳥羽湾に浮かぶ小島に築かれ、大手門が海側に突出して築かれるという全国でも珍しい海城で、この大手門が出入り口となっていた。外堀には海水を引き入れていたが、船の出入りのため4ヶ所に水門を設け、陸側に向かっては不動門や藤江口門などを築き、九鬼嘉隆の海の要塞であった。
 鳥羽水族館の向かいの小山が鳥羽城跡である。本丸跡には鳥羽小学校が建ち、天守跡はグラウンドとなっているが、山麓の鳥羽幼稚園近くと本丸跡にかつての鳥羽城の苔むした石垣や土塁残っている。
 所在地:三重県鳥羽市鳥羽町
 別  称:錦城
 築城年:文禄3年(1594)
 築城者:九鬼嘉隆
 形  式:海城
 遺  構:石垣、土塁


九鬼嘉隆

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、九鬼水軍を率い
た水軍武将で、あり、九鬼氏の第8代当主である。

 九鬼家は、紀州九鬼浦(現在の尾鷲市九鬼町)から志摩波切の川面氏の養子に入った隆良が武勲を上げ、地元の五奉行と呼ばれる者に推されて地頭になった。しかし隆良に子はなく、英虞郡和具(志摩町和具)の青山豊前の次男を養子にしたと記。
 毛利水軍と摂津木津川沖で戦ったものの多くの船を焼かれて大敗したが第2時木津川口の戦いで、船に鉄を貼った鉄甲船を擁し毛利水軍600隻を打ち破ることに成功し、天正10年(1582)6、信長が本能寺の変で死去した後は羽柴秀吉に仕え、水軍の頭領として重用され、天正15年(1587の九州征伐や天正18年(1590)の小田原征伐などに参陣し、天正13年(1585)には従五位下・大隅守に叙位・任官する。そして答志郡鳥羽(鳥羽市鳥羽)の地を本拠地と定め、鳥羽城の築城に着手した。
 慶長5年(1600)、関が原の戦いが起こると嘉隆は西軍に与し、守隆は東軍に与した。これは嘉隆の、どちらが敗れても家名を存続させるための芝居だったという。
 嘉隆は子の守隆が徳川家康に従って会津征伐に赴いている間に、堀内氏善らと共に守備が手薄になっていた鳥羽城を奪取している。
 9月15日の本戦で西軍が壊滅すると、嘉隆は鳥羽城を放棄して答志郡の答志島に逃亡した。子の守隆は徳川家康と会見して父の助命を嘆願し、守隆の功績が大きかったために家康もこれを受け入れたが、守隆の急使がそれを嘉隆に伝える直前に、行く末を案じた家臣の豊田五郎右衛門が守隆の許しを得ずに遣わした使者の言葉に従い、10月12日に和具の洞仙庵(どうせんあん)で自害してしまった。享年59、守隆は激怒して豊田を斬首したが、首級は伏見城に運ばれてしまったため、守隆により胴体のみが洞仙庵近くに葬られ、胴塚が建てられた。首級は実検の後に答志島へ戻り、胴体とは別に築上(つかげ)山頂に葬られ、首塚が建てられた。

 海賊の大将として荒々しい人物のイメージが強いが茶道に造詣が深く津田宗及、の茶会にしばしば参加したり、逆に自身が宗及を招いて幾度も茶会を催すなどしており、数寄者としての側面もあったようである。

 



姉妹都市
(サンタバーバラ市)


 目の色、肌の色、国籍が違ってたって、私たちは同じ地球人。互いに手を取り合って、理解しあい、共感しあうところから21世紀の世界が開けていきます。
また交流をきっかけに視野を広げることによって、ふるさと鳥羽の再発見にもつながっていくでしょう。 

 鳥羽市が、カリフォルニア州にあるサンタバーバラ市と国際姉妹都市の提携を結んだのは、昭和41年3月。サンタバーバラ市は、人口8万人の海に囲まれたリゾートタウンとして知られ、水産業、畜産業が発達してい


パールロード
 パールロードは、志摩の玄関口鳥羽と奥志摩を結ぶ23.8kmの海岸沿いの道路である。
 かっては、全線有料道路であったが、平成15年4月1日から、鳥羽〜磯部間のシーサイドラインが無料となり、磯部から先は有料のままで、日の出料金所で料金を徴収される。
 鳥羽からパールロードに入る手前で、全長196mの麻生の浦大橋を渡るが、眼下の本浦湾には真珠や牡蠣の養殖筏が浮かぶ、この地方ならではの風景が広がっている。
 シーサイドラインの途中には、鳥羽展望台が設けられており、海岸線には、海女の里石鏡(いじか)・国崎(くざき)・相差(おうさつ)の漁村が眼下に点在し、熊野灘を見渡す360度の展望を楽しむことができる。
 演歌歌手の鳥羽一郎・山川豊兄弟は、石鏡の出身であり、展望台には[兄弟船]の大きな歌碑が熊野灘に向かって開かれている。



 国道42号線をそのまま進み、海岸線近くを走りJR参宮線と並行するように池の浦シーサイド付近からぐっと内陸部に入った。左にカーブ、そして右にカーブするとJR参宮線を跨ぎ、左にとカーブし、700mも行くと今度は右にカーブと忙しない。それでもJR参宮線とは同じぐらい並行して別れ、五十鈴川派川沿いをもその位走って橋を渡ると、二見シーパラダイスに到着。

 売店の中を通りコンクリート製の海岸を歩き二見興玉神社・八大龍王大姉の鳥居や龍宮社前を通り、手入舎前の二つのお百度石
8の字に周回し、その都度裏返しにして10週すると、百度参りしたことになり八大龍王大神諸願成就が達成されるといわれる。二見興玉神社の境内社・龍宮社、浜参宮、大初日 二見の巌を 抱擁す 青畝の歌碑、昭和28年9月25日の台風13号で流出してから40年ぶりに平成3年5月23日再現された小柄で細いで“契りの松”のある日の出亭前から夫婦岩の遥拝所として聖なる場所と夫婦岩の剥げ落ちそうな案内板を見ながら朱塗りの橋を渡り、正面から右手に、そして後ろになる夫婦岩を眺め、二見興玉神社へとやってきた。狭い間を抜け社務所を過ぎると、オオシャコガイ(沖縄産)山の岩肌に貼り付けられている。説明によると世界最大種で殻長1.5m・重量230kg、1万年の年齢のものがある。ここのものは推定150年。

 白木の橋を渡ると、水(願)受け蛙・水の中に2匹(右側の蛙の背中には2匹の子蛙が乗り・岩の上には、真ん中に大蛙、両脇に小ぶりな2匹、その前には子蛙が6匹)と揃った前では両手や口を濯ぎ手を合わせて願い事をしている人々が取り巻いている。天の巌屋の輪注連縄は、自分の体の悪いところを擦って掛けて置くとよくなるということでいくつもかけられていた。


伊勢市

二見が浦   
 夫婦岩は古来より日の出遙拝所として知られてきた。沖合約700先には猿田彦大神縁りの興玉神石(霊石)が鎮まり、そこは降臨する神の依り代であり、常世の国から神が寄りつく聖なる処と言われてきた。
 夫婦岩はこの興玉神石と日の出を遙拝する鳥居とみなされ、男岩は高さ9
、女岩は高さ4で、夫婦岩を結ぶ大注連縄(おおしめなわ)は1本の長さ35で男岩に16、女岩に10張られていて、その間は9
 毎年、5月5日・9月5日・12月中旬土日曜日に大注連縄張神事が行われ
5〜7月、夫婦岩の間から日の出を見ることが出来、特に夏至の前後の天気のいい日には遠く富士山の背から差し昇る日の出を見ることが出来、多くのカメラマン、参拝者で賑わ
 また11月〜1月には夫婦岩の間から満月を見ること
出来

二見興玉神社(夫婦岩)
 二見興玉神社は、猿田彦大神を祭る神社で、夫婦岩の間から登る日の出と、沖合いの海中に鎮まる「興玉神石」を礼拝しているといわれ、興玉神社境内の直ぐ前に、「天の岩屋」をお祭している社があるが、ここは「古事記」にある天照大神が閉篭もった「天の岩屋」であると伝えられている。
 また、猿田彦大神は、天照大神の鎮座の地を、五十鈴川上流の現在の伊勢神宮にお導きしたと伝えられており、このあたりは伝説の宝庫でもある。
 神社の伊勢寄りには、海岸線に沿って松並木が続き、この界隈が興玉神社の門前町であり、みやげ物店や旅館が立ち並んでおり、古くから近在の小学生の修学旅行のメッカとなっており、懐かしく思い起こす方々も多いことであろう。
 神社の反対側には、二見浦をバックに「ふれあい」をテーマの水族館「二見シーパラダイス」があり、館内には6000株を超える熱帯植物を栽培しており、水族館と博物館の気分を同時に楽しむことができる。
その隣の神社寄りには、「二見プラザ」があって、伊勢名物のみやげ物が並んだコーナーや、グルメゾーンがあるが、ここならではの味を賞味することができる。
 伊勢志摩スカイラインは、標高555mの朝熊山を縦走する内宮前から鳥羽までの延長16.3kmの有料道路で、車窓からは眼下に志摩半島のリアス式海岸が展開し、伊勢湾の遠くに知多半島が横たわって見える。朝熊山の山頂には、設備の整った展望台があり、空気の澄んだ晴れたひには、富士山が遥か遠くに見えるといわれている。

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 二つの鳥居をくぐって、二見町茶屋の戸羽口まで行った所で、集合時間に間に合わないといけないと、ここから折り返して、二見シーパラダイスの建物まで戻ってきた。バスに乗り込み来た国道42号線何度もカーブしながら伊勢市から鳥羽市に戻り、鳥羽港のヘリーターミナル前を通り、近鉄志摩線中之郷駅前先の交差点がターミナルに出入り口にもなっていて、この先へリーに乗って愛知県田原市へと国道42号線は続いている。


 したがってここから先は国道167号線となり鳥羽漁港や魚市場、三重漁連鳥羽海藻センター山側にはJA鳥羽、鳥羽郵便局、三菱UFJ銀行、ダイソー、トヨタレンタリースなどの先が二股になる交差点で右に分かれて行くのが167号線で、ここから加茂川に架かる安楽島大橋となるのが県道750線である。

 渡り切った左角には、鳥羽九鬼水軍太鼓会館が市民の森公園内に見え、300mも行くと左折し、市立図書館前を通り、もう1回左折して鳥羽港の対岸にやって来た。右の大きくカーブして上り坂の狭い道を何度か上り詰めたところが今日の宿泊ホテルの鳥羽シーサイドホテル。

鳥羽シーサイドホテル

 フロントを過ぎエレーベーターに乗り部屋に入ると、早速露天ぶるを手始めに湯めぐりを始めた。望館6階の貸切家族風呂の五島の湯前を通り、“坂手”“神島”バリアフリー対応可“浮島”などに気が付かずに、回廊先の“岩風呂”“檜風呂”“つぼ風呂”“内湯”から岬亭1階“露天風呂”“大浴場、そして、汀館の“汀の湯”などを一気に巡って、宴会場へ行った。

 到着時間が遅かったので何時もよりかは30分遅れの懇親会が始まった。膳の上には献立表があり、15品がツラツラ書かれていた。既に11品が載っていて徐々に継ぎ足されてきた。幹事長の視界で第1部が終わると、第2部の演芸になり、自慢のカラオケや日本舞踊が披露され、ジャンケン大会と抽選会と盛り上がり、締めはすみだ踊りを2度繰り返し行なって食事をしてお開きとなった。二次会のカラオケを行い部屋に帰って飲み続けて3時まで起きていたが、さすがに眠くなり布団の中に入った。

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近在の読みにくい地名

 朝熊(あさま)、石鏡(いじか)、相差(おうさつ)、国崎(くざき)、国府(こう)、佐八(そうち麻生(こう)etc




第2日目

伊勢神宮内宮

おはらい通り

スタッフ&その他