今年は3月に長井会長が亡くなり、そして、4月には元会長の塚田さんが亡くなるというアクシデントに遭遇した。特に現会長がなくなった直後3月20日(土)には、緊急幹部会を“そば万”開き、次期会長候補に箭野副会長を全員一致で選び、第1回世話人会を4月3日(土)に緊急召集し、あおぎり集会場2階和室で議題の会長選出を行い幹部会で決まった通り全員異議なしで決定した。
5月19日(水)〜20日(木)の日程で新会長・幹事長・会計3名で大師観光(株)平塚課長の運転する車に便乗して予定コース通りに下見に出かけた。天気は両日共快晴の好天に恵まれて、滞りなく終了し来る第2回目の役員会に備えた。
第2回目の世話人会は6月2日(水)にあおぎり集会場2階和室で、14名が出席して行なわれた。新会長の挨拶の後、幹事長司会で会計からの申込み人数の発表と平塚課長からのコース説明、例年行なわれる内容の再確認を行い、次回までには幹事長に配車一任う付託し、7時半過ぎに懇親会を1時間行い解散した。
第3回目世話人会は、6月18日(金)にあおぎり集会場2階和室で行なわれ15名全員が出席した。まず黒板には部屋の略図が書かれ、員数も記されていて幹事長が取りまとめ役になり、各人からの要求を書き込んで行き、今回はかなりの余裕があってスンナリ決めることができ、配車の一任の発表があったが、1号車に会長・幹事長・会計の3人が同じ号車に乗るのはおかしいのではという発言で、幹事長は2号車にと変更し、一部参加者の入れ替えを実施して、本日までの総参加者は73名という発表もあった。当日までには変更もあるかもしれないが、概ねこの陣容で執行される。
旅行当日の27日は早朝より土砂降りで、役員集合時間の6時半まで降り続いていた雨も、小止みになり参加者が集まり始める頃にはスッカリ上がり最高の旅行日和になった。
定刻の8時には出発し首都高・外環状そして関越道に入ると日差しも出たりと梅雨時には勿怪の幸いと、第一休憩所の高坂サービスエリアに到着20分休憩を取った。天気は青空が見えたりしているがけ雨も舞うと変わりやすい天気。
バスに乗り込む時に手渡されたビンゴゲームカードを貰い、席に着くとバスは走り出した。ゲームも始まり数字が15開いた所で、早々ビンゴの声。それからは、なかなかビンゴの声も上がらず関越道をひた走り、約1時間弱全員が上がるまで続いた。
信越道との分岐点を過ぎ高崎・前橋を過ぎると、右に赤城山・左に妙義山、暫くすると左に榛名山が見え、伊香保インターになった。今日は、ここで一般道に出て、見学場所の“聖酒造に向かった。
社員の案内で製造過程や機械・仕込みタンクなどを見て回り、一番大事な湧き水も雨の降る中にも拘らず、我もわれもと列を成して美味そうに飲み干していた。売店に来ると試飲が始まり、そしてお土産にと日本酒が大部分だったが買い求め、出発時間までの35分間が短いくらいで、両手にブラ下げて戻ってくる人も多かった。
2番目の見学場所も上越線を挟んだ反対側なので一般道路を走って陸橋を跨ぎ、右折するとJR八木原駅前で左に曲がって、高速関越道の下を潜り、三国街道を横切り、県道26号で上野田の信号を過ぎて500mも行きと右に曲がり、1キロ強で卯三郎こけしに着いた。
見学時間は30分だったので急ぎ足で係りの人の説明を聞きながら工場内を歩いた。従業員も直接質問をすると猫の手を借りたいほど注文が入っていて残業残業の毎日だといっていたが、懇切丁寧に答えてくれた。販売する店は工場とは打って変わりゴージャスで1階、2階とある。製品商品はピンからキリまで揃い、ここでもみなさんの買物は旺盛だった。
少し坂道を上り10分もすると昼食場所の庵古堂の駐車場に止まった。建物に入り案内された先には、柱に書かれた旅行会の名前が 、“同じ・吾嬬旅行会”と読めるが吾妻旅行会となっていた。
|
| 座敷に並べられた箱膳に向かい、温かい釜飯と名物のウドンと山菜の天ぷら、そして煮物の入った小鉢、漬物三種に三種類の薬味が置かれていた。ここでの滞在時間は1時間10分ほどだったが、30分もするとがらガラ空きになっていた。集合時間には名物のウドンを買って重そうに運びバスのトランクに詰め込んでいた。
午後1時10分時間通りにバスは出発した。まもなくカラオケが始まりリクエストを募り、しばし歌声が続いた。その間もバスは片側1車線の空いた道を走り、上毛三山パノラマ15から上毛三山パノラマ33に入り、伊香保グランドホテルの先で右折して、温泉街を抜けると右には伊香保小学校、そして広がる田園風景、時たま見える大きな門構えの家などを見やり、155号線を走り岡崎の交差点で、35号線に入って、何度もカーブしながら、吾妻川の向こうに岩井洞が見え始め、二股になった信号のある道を右に向かい、やがて吾妻川の橋を渡り国道353号長野街道を左に曲がった。
まだカラオケは続いており、モニターを見ると“つらい時には入道雲を”の文字が見えたが、題名はわからない。線路に沿って走り続け吾妻線を跨ぐと中之条町の標柱が立っている。吾妻川や吾妻線と平行に走り小野上温泉駅を過ぎる。
中之条町伊勢町下交差点で四万温泉方向から来る国道145号線に合流し、伊勢町上で国道353号線日本ロマンチック街道が右に分かれる。こちらの国道145号線も日本ロマンチック街道という。そして東吾妻町に入る。
右にJR吾妻線左に吾妻川が流れる狭い谷合をくねくね曲がりながら、群馬原町・郷原・矢倉・岩島駅と過ぎてくる頃には渓谷の深さが、道路の狭さと相まって危機感を覚えだす。そして川原温泉駅前を通過した。
民主政権になり計画されている八ッ場ダム工事も時の前原国土交通相の現地訪問を経て中止という案が提示され、国道沿いには重厚豪快に出来上がった橋や工事中の橋、そして出来上がっているJR吾妻線を窓越しに見上げながら通過、途中にはHARUYAMAという店では閉店セールも行われていた。
今回の旅行では、川原温泉まで巻き込んだ闘争が繰り広げられてきた八ッ場ダム工事の進捗状況を見届けてくるということもあって、興味深々、この眼で見て自分なりの考えている気持ちと、無責任のようだが早く最上の結論を決定しなければ、住民の死活問題を解決できないだろうという気持ちが先立ち目を凝らして見渡してきた。
長年政権に引き回され、地元の大部分が賛成する今日ではそのダム建設も無用の長物化し、温泉地には移転し死活問題まで発展し、現民主政権はダム建設には消極的、生活にもっと影響ない政治家と一部現地業者が反対で対立し長引いてしまった結果がこの有様、時代は変化することを知らしめたいい例となってしまった。
道は上ったり下ったり左右にカーブして、新緑に映える渓谷を見ながら、右は吾妻線の急行電車が追い抜いて、長野原の駅に滑り込んでいった。
左に折れ吾妻川を渡り、右にカーブしながら坂道を上ると今日最後の休憩場所の浅間酒造観光センターに到着、雲間からは元白根山の頂が見えた。
帰りにも朝一番で寄ることもあるのでトイレ休憩の20分だけの時間でホテルに向かい、30分足らずでホテルが坂道の下に見えてきた。途中ではガイドの案内がなければ聞き漏らしそうな小さな草津節の演奏が聞こえ、十字路まん前のホテル桜井に午後3時10分に着いた。まずロビーで号車別に記念写真を撮り、エレベーターに乗り部屋に向かった。
部屋に案内され部屋で一服し、温泉に向かう。建物も一部建て替えられて様子が変わっていたが、露天風呂に入ると小粒な雨が降っていて、これまた風流だった。部屋で過ごしていると6時の宴会時間になり、椅子席のテーフルに座り、今回から新任の箭野会長の挨拶、城北信金鶴岡墨田支店長挨拶、乾杯と進み懇親会に入り、2台のバスで選ばれた10人の代表のカラオケや日本舞踊、抽選会、平成スッカラカン節、最後に墨田音頭のテープが回り、輪になって踊りが2度行われ、すべての予定が終了した。
平成スッカラカン節
景気回復 お題目 子供だエコだよ ばらまいて どうせ借金 返すよいつか たまった借金 何百兆 スッカラカンだよ スッカラカン お国の財政 スッカラカン |
でかい借金 あればこそ 公的資金で 救われる 五万十万 手形が落ちぬ ウチも欲しいよ 国のカネ スッカラカンだよスッカラカン 会社の金庫は スッカラカン |
メール・ケータイ ネットだと 娘の支払い 肩替わり たまにうれしい 息子の電話 オレだオレだに またコロリ スッカラカンだよ スッカラカン おやじのフトコロ スッカラカン |
妻に送られ 家を出てv 電車に乗るのも 駅ふたつ 日がな一日 公園ぐらし 家じゃ待つだろ 給料日 スッカラカンだよ スッカラカン わが家の米びつぁ スッカラカン |
しょせん裸で 生まれきて 勝つも負けるも 人生だ 金で売るなよ 心の錦 いつか花咲く 時を待つ スッカラカンだよスッカラカン それもいいじゃないか スッカラカン |
唄 桧山 あきら
作詞 古敷谷 信房 作曲 平野 桂三 編曲 長屋
真乃城 |
明けて第2日目の朝が来た。コンベンションホールのパレルージュでのバイキングで一人一人が思い思いにお盆に載せた食べ物をテーブルに運びわき合い合いで終了し、出発時間の9時半には両手に土産の荷物をトランクや座席に持ち込み、ホテルの従業員に見送られて、浅間酒造観光センターに向かった。
第1回休憩は30分足らずで到着。昨日品調べもよろしく25分だけだったが荷物を重そうに持って帰って来る人が多かった。引き返すように戻り吾妻線、そして145号線の大津の交差点を左に曲がり、やがて羽根尾交差点で左に入ると、146号線となり左右に曲がったりして山の中の道をひた走り、そんな中すれ違う車は多く、さすが日本ロマンチック街道と名の通り新緑や遥かに見える浅間山と白く立ち上る煙は今も心に残る。
やがて4、50分も走ると北軽井沢交差点来た。予定では軽井沢マウンテン牧場へ行くことになっているが、なぜが1台のワゴン車が先導し始めた。降りてから聞くと、本来のは入口は別にあるのだが道路工事中で、地元の生活道路で大型バスの通れる道を誘導してくれたそうだ。
軽井沢マウンテン牧場に着くと、総務部マネージャーの星野徹さんの案内で部屋に入り、女性従業員から生ミルクと塩少々の入れた容器をもらい説明の後、やおら容器を振ること15分バターが完成、フランスパンに塗りたくって食べた。自分で作ったバターはどこのメーカーのバターより美味しかった。
約1時間すると再びバスに乗り込み、146号線を走り、国道18号中軽井沢交差点達した。右に曲がり、やがて中部小入口交差点を左曲がり、しなの鉄道線踏切りを横切り、長野新幹線の下をくぐり、烏井原交差点で左に曲がり国道18号バイパスにはいって、塩沢交差点近くの“かぎもとや塩沢店”に入った。
昼食は到着してから揚げる天ぷらだったので、時間差で食べ始めた。揚げ立てなのですこぶる美味しい、多少の不満はあったが55分はあっと過ぎて、バスに乗り込んで碓井バイバスの南軽井沢交差点を右折して、山の中に入り左右にカーブし坂道を下ると、信越道の碓井軽井沢インターから入線し、幾多のトンネルや吊り橋状のJRや国道18号線のはるか上を横断して、横川SAで一息入れて、富岡インターから市内に入り、最後の見学場所の世界遺産候補の名乗りを上げようとしている富岡製糸工場跡に向かった。
工場周辺には駐車場がないので10分ほど歩いて工場正門に来た。レンガ造りのドッシリした2階建ての建物は横に長く、左の券売場付近には案内人も大勢居て3時からの入場者を待ち受けていた。小雨交じりで傘を差しながら建物間の移動になった。
バス毎に案内人がつき後ろについてダラダラ歩いた。真剣な案内は感じるが、余りの長さに次第にだらけて勝手気ままな行動になってしまった。最後まで真面目に歩き通したのはほんの僅かであり、個人的には世界遺産に名乗りを上げるのはいかがなものかという疑問を感じた。
1時間過ごし、工場跡前にある“おぎのや”で1、2階に分かれて用意されていた、たい焼きと桑茶をすすりながら疲れを癒し、予約して置いたお土産の釜飯を持ってバスに乗り込み、富岡インターから信越道に入った。
甘楽PA、吉井IC、藤岡PA・IC、上越道と合流する藤岡JCTを経て、スッカリ疲れもピークとなり、三芳PAまで起こされるまで白川夜船で、この時すでに5時17分になっていた。この間時々雨が降っていたようで、道路は濡れていた。
今回の旅行も最後の休憩場所の三芳パーキングはちょうど夕陽が雲間に消える寸前で、その鮮やかさに目を奪われていた。時間通りに出発し都心に向かうに連れて空の色はドンドン怪しげになり、新座料金所に来ると雨が落ち始めてきた。
そして外環道まで来ると都心方面は真っ黒な雲に覆われ稲光が光りにわか雨が降っている事がわかる。バスの後ろを見ると夕焼けになった空が見える。そのはざまをバスは東へと突っ走る。雨の降る方へ引き込まれるように走り、その勢いは増すばかり、窓に打ち付ける音も大きくなり冠水した道路の水を互いに跳ね上げながら走り続ける。
降り出したばかりなので渋滞もなく、外環を走り切り、やがて、首都高速6号川口線、中央環状線に合流して、小菅JCTで向島線に入り荒川を渡り、最初の堤通インターから一般道の墨堤通り、そして白鬚橋東詰交差点で明治通りに入ったが、猛烈に降り続けていた雨も弱まってきていたが、到着する城北信用金庫前のことを案じ、乗り合わせていた鶴岡店長の行為で店との携帯でのやり取りで、一先ず、店の中を開放するという申し出でに有難く感謝感激でお願いし、到着すると、もうそこには行員が集まっていて、旅行会の役員と一緒になってトランクの土産や荷物を店内に運び込んでいた。
各自には、予め車両長から説明してあったので、下りると空手で店内に向かい、間違わないように自分の荷物やお土産を手にして家路に着いた。店長をはじめその場に居た行員に丁重にお礼をいい、あくる日には手土産持参でもう一度伺い幾重にも頭を下げてお礼をいってきた。
反省会の日取りは7月12日(月)だったが、どうしても幹事長が出席できないというアクシデントで17日(土)に変更になった。当日は幹事長司会で、会長挨拶に引き続き、会計報告・監査報告、そして縷々反省点の話し合いが行なわれた後、来年度の旅行先の提案が大師観光の平塚課長から3候補の発表があり、第一候補と挙げられていた愛知県・三谷温泉“ホテル明山荘”に決まった。そして日程・費用など決定し、今回の旅行の慰労懇親会となった。終了したのは9時15分にもなっていた。
|